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高麗(こうらい)は、王建(太祖)が建てた朝鮮半島の国(918年 - 1392年)。都は開城

歴史


建国

超大国が急速に弱体化すると、朝貢国である新羅も政治腐敗から国内が乱れた。新羅末の戦乱期に、開城地方の地方豪族出身の王建は、新羅に反旗を翻してこの地方を支配して後高句麗を建国した弓裔に仕えて台頭し、918年に暴虐になった弓裔に替わって「高麗」を建国した。当初は新羅の北部しか支配しておらず、西南には甄萱が建てた後百済、東南には衰えた新羅が存続していたので、この時代を後三国時代と呼ぶ。高麗は935年に新羅を降伏させ、936年に後百済を滅ぼして朝鮮半島を統一した。

北進政策と契丹侵入

その間、926年に北方民族契丹916年成立)が渤海を滅ぼすと、高句麗時代の版図を取り戻す北進政策の一環として渤海遺民を吸収し、鴨緑江以南を支配する。これにより現在の大韓民国朝鮮民主主義人民共和国の西部を合わせた地域を版図とした。また、中国大陸の戦乱(五代十国)が960年建国)によって統一される気運となると、宋に朝貢した。

しかし、宋は漢民族を統一したが、北方民族など周辺異民族を制する力がなく、契丹が高麗との国境まで急速に版図を広げた。契丹は993年から朝貢を求めて大規模な侵入をしたため、翌994年に朝貢した。1009年に政変が起きるが、政情不安の隙を突いて1010年に契丹が再度侵入し、首都開城が陥落させて国王は羅州に避難した。続いて1013年から1015年まで継続して侵入した。15年に一度退くが、その年に再再度侵攻したが、1016年に宋の年号を用いて契丹に反抗したため、侵攻は1019年まで続いた。1020年に和がなり、1022年には遼の年号を用いて再び朝貢した。

その後、契丹の目は西方のウイグルに向かったため、高麗に接した地域では女真が台頭した。女真は1019年に日本へ侵攻(刀伊の入寇)した民族だと考えられているが、契丹と共に彼らが脅威となったため、1033年から1044年にかけて、北部国境に半島を横断する長城を築くなどして抵抗した。1037年に契丹水軍が長城の及ばない鴨緑江を侵したが、この後はおおむね安定を取り戻し、高麗青磁など美しい磁器が発達し、仏教が普及した。

この間に女真の台頭は著しく、1107年に激しい攻撃を受けた。女真は1115年を建て、1125年に宗主国遼を滅ぼした。そのため高麗は、翌1126年に金に朝貢した。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗はそれほどの介入を受けずに済んだ。国内はおおむね安定し、1145年には現存最古の朝鮮史書「三国史記」が完成した。

武臣政権と蒙古侵入

12世紀中ごろから王や文人が政治をないがしろにするとして、武人が政権獲得の気運を伺うようになった。1170年には武臣(軍人)がクーデターを起こして国王を傀儡化し、武臣政権時代が始まる。武臣同士の内紛を制して1194年に政権を掌握した崔忠献は4代続く安定政権を建てた。

崔氏政権下、北方ではチンギスハン率いるモンゴル(蒙古)が台頭し、金を圧迫していた。このため1224年に金の年号を止め、独立を回復した。しかし、1231年から蒙古(後の)の侵入が始まる。崔氏は国王を連れて1232年に都を開城から江華島に移して、3年間も徹底抗戦を試みたため、国土と国民はモンゴル人に蹂躙され、荒廃した。1239年にモンゴルは高麗王に入朝を命じたが、蒙古を野蛮人と見ていた高麗側はこれに応じなかった。1247年に再び蒙古軍が侵入した。この年から蒙古は継続して侵攻し、高麗は抵抗するものの、1258年に北部の和州以北を奪われて雙城総管府が置かれた。結局、翌1259年に崔氏政権は打倒され、高麗は蒙古に服属し、太子(王子)を人質として蒙古に差し出した。

一方南部では、1223年に初めて倭寇の名が登場し、不法な日本人などが沿岸を襲い始めていたようである(新羅末期から高麗にかけて、高麗人がたびたび日本を襲っていたことから、国の安定度が逆転したと言えるかもしれない)。

蒙古への服属・元寇への参加

蒙古はこれまでの契丹や女真と異なり、露骨な内政干渉をしてきた。国内には多くの蒙古軍人が駐留し、反発感情が生まれた。1270年には「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われ、東寧府を置かれた(1290年返還)。同年、崔氏を倒した林氏政権が滅んで武臣政権は終焉するが、蒙古支配に納得しない人々が反乱し、三別沙の乱となった。反乱者たちは済州島に移って徹底抗戦したが、1273年に鎮圧された。乱の鎮圧と共に、クビライ日本を服属させようと試みたが交渉は失敗し、1274年1281年に二度の日本侵攻(日本で元寇と呼ぶ戦役)を行った。このため高麗は前線基地として、兵站の補給と戦艦の建造を命令され、これらの協力と出兵により甚大な被害をこうむった。

一方、親政を回復した高麗王は忠烈王(在位1274年1308年)以後、元の皇女と結婚してハーンの娘婿の待遇を受けるようになるが、同時に日本征討のために設けられた元の出先機関である征東行省(高麗王が長官となる)と高麗政府が一体化して、高麗は元の強い影響下に入ることとなった。また、元は国王一族を瀋陽王に封じて別の宮廷を建てさせて、事実上の高麗朝廷の分割を行ったため、国王の権威は大きく損なわれた。そのような中で忠烈王とモンゴル人の夫人の間に生まれた忠宣王(1308年~1318年)以降の国王は元の宮廷で育てられ、元の宮廷政治に関わるようにすらなる。このような中で高麗貴族の間ではモンゴル風の文化が流行した。

滅亡への道

14世紀に大陸で紅巾の乱が起こって元が衰え始めると、恭愍王1351年 - 1374年)は1356年に元と断交し、雙城総管府など北辺を奪還して蒙古侵入以前の高麗の領域を回復し、元の年号を止めて独立、さらに鴨緑江西方へ遠征し、これを攻略した。しかし、1350年頃から活発化した倭寇(前期倭寇)や、1356年から1362年までの紅巾賊侵入により都・開京が陥落するなど、疲弊した。1368年が中国に興り、元を北に追いやる(北元)と、1370年に高麗は明へ朝貢して冊封を受けたが、国内では親明派と親元派の抗争が起こった。この間に倭寇や元との戦いで功績をあげ、台頭していた武人李成桂は、1388年クーデターを起こして政権を掌握し、1389年恭譲王を擁立すると、親明派官僚の支持を受けて体制を固め、1392年に恭譲王を廃して自ら即位し、李氏朝鮮王朝を興す。ここに高麗は374年で滅びた。

社会・経済


思想・文化


高麗は儒教を国教とし、徳治主義な政治が行われる。儒学校も開かれ、九斎学堂などの私塾が開設された。

思想では、仏教の功徳思想に陰陽五行説が加わった風水地理説が政治的にも影響力を持ち、政界を二分する。

新羅仏教を継承した高麗仏教が信仰され、国王や両班貴族などに庇護された。後期には朱子学も輸入される。仏教文化では『大蔵経』、『続大蔵』などが刊行される。『三国史記』などの史書も編纂される。美術では高麗青磁などが作られた。

関連項目


外部リンク


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朝鮮の歴史

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