高麗(こうらい)は、王建(太祖)が建てた朝鮮半島の国(918年 - 1392年)。都は開城。
しかし、宋は漢民族を統一したが、北方民族など周辺異民族を制する力がなく、契丹が高麗との国境まで急速に版図を広げた。契丹は993年から朝貢を求めて大規模な侵入をしたため、翌994年に朝貢した。1009年に政変が起きるが、政情不安の隙を突いて1010年に契丹が再度侵入し、首都開城が陥落させて国王は羅州に避難した。続いて1013年から1015年まで継続して侵入した。15年に一度退くが、その年に再再度侵攻したが、1016年に宋の年号を用いて契丹に反抗したため、侵攻は1019年まで続いた。1020年に和がなり、1022年には遼の年号を用いて再び朝貢した。
その後、契丹の目は西方のウイグルに向かったため、高麗に接した地域では女真が台頭した。女真は1019年に日本へ侵攻(刀伊の入寇)した民族だと考えられているが、契丹と共に彼らが脅威となったため、1033年から1044年にかけて、北部国境に半島を横断する長城を築くなどして抵抗した。1037年に契丹水軍が長城の及ばない鴨緑江を侵したが、この後はおおむね安定を取り戻し、高麗青磁など美しい磁器が発達し、仏教が普及した。
この間に女真の台頭は著しく、1107年に激しい攻撃を受けた。女真は1115年に金を建て、1125年に宗主国遼を滅ぼした。そのため高麗は、翌1126年に金に朝貢した。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗はそれほどの介入を受けずに済んだ。国内はおおむね安定し、1145年には現存最古の朝鮮史書「三国史記」が完成した。
12世紀中ごろから王や文人が政治をないがしろにするとして、武人が政権獲得の気運を伺うようになった。1170年には武臣(軍人)がクーデターを起こして国王を傀儡化し、武臣政権時代が始まる。武臣同士の内紛を制して1194年に政権を掌握した崔忠献は4代続く安定政権を建てた。
崔氏政権下、北方ではチンギスハン率いるモンゴル(蒙古)が台頭し、金を圧迫していた。このため1224年に金の年号を止め、独立を回復した。しかし、1231年から蒙古(後の元)の侵入が始まる。崔氏は国王を連れて1232年に都を開城から江華島に移して、3年間も徹底抗戦を試みたため、国土と国民はモンゴル人に蹂躙され、荒廃した。1239年にモンゴルは高麗王に入朝を命じたが、蒙古を野蛮人と見ていた高麗側はこれに応じなかった。1247年に再び蒙古軍が侵入した。この年から蒙古は継続して侵攻し、高麗は抵抗するものの、1258年に北部の和州以北を奪われて雙城総管府が置かれた。結局、翌1259年に崔氏政権は打倒され、高麗は蒙古に服属し、太子(王子)を人質として蒙古に差し出した。
一方南部では、1223年に初めて倭寇の名が登場し、不法な日本人などが沿岸を襲い始めていたようである(新羅末期から高麗にかけて、高麗人がたびたび日本を襲っていたことから、国の安定度が逆転したと言えるかもしれない)。
一方、親政を回復した高麗王は忠烈王(在位1274年~1308年)以後、元の皇女と結婚してハーンの娘婿の待遇を受けるようになるが、同時に日本征討のために設けられた元の出先機関である征東行省(高麗王が長官となる)と高麗政府が一体化して、高麗は元の強い影響下に入ることとなった。また、元は国王一族を瀋陽王に封じて別の宮廷を建てさせて、事実上の高麗朝廷の分割を行ったため、国王の権威は大きく損なわれた。そのような中で忠烈王とモンゴル人の夫人の間に生まれた忠宣王(1308年~1318年)以降の国王は元の宮廷で育てられ、元の宮廷政治に関わるようにすらなる。このような中で高麗貴族の間ではモンゴル風の文化が流行した。
思想では、仏教の功徳思想に陰陽五行説が加わった風水地理説が政治的にも影響力を持ち、政界を二分する。
新羅仏教を継承した高麗仏教が信仰され、国王や両班貴族などに庇護された。後期には朱子学も輸入される。仏教文化では『大蔵経』、『続大蔵』などが刊行される。『三国史記』などの史書も編纂される。美術では高麗青磁などが作られた。
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