雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年(418年)12月 - 雄略天皇23年8月7日(479年9月8日))は、第21代の天皇(在位:安康天皇3年(456年)11月13日 - 雄略天皇23年(479年)8月7日)。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命・大長谷王(古事記)。大悪天皇・有徳天皇とも。また、『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定されている。
倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、熊本県玉名郡の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金象嵌鉄剣銘に「獲加多支鹵(わかたける)大王」と記載されていたことはこれを裏付ける。朝廷としての組織はまだ未熟であったが、『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、古代の人々の間には雄略朝が歴史的な画期として捉えていた感覚が窺われる。
平群真鳥を大臣に、大伴室屋・物部目(もののべのめ)を大連(おおむらじ)に任じ、軍事力で専制王権を確立した大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家を大和政権に臣従させることであった。特に、最大の地域政権吉備に対して「反乱鎮圧」の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや・463年)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ・463年)の「反乱」を鎮圧して吉備政権の弱体化を進め、さらに雄略天皇の崩後に起こった星川皇子(雄略天皇と吉備稚媛皇后の間にできた皇子)を大伴室屋らと謀って母もろとも殺害し(479年)、大和政権の優位を決定的にした。『日本書紀』には、播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ・469年)や伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ・474年)を討伐した記事も見える。
対外関係では、雄略天皇8年2月(464年)に日本府軍が高句麗を破り、9年5月には新羅に攻め込んだ。新羅を撃破し続けたが、将軍の紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)が死に、指揮系統の内乱ために退却した(『三国史記』新羅本紀によれば倭人が462年5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年2月にも侵入している。こちらは新羅が打ち破ったと記載されている)。20年(476年)に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年(477年)大王は百済に任那を与えて復興したという(『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、同年熊津に遷都している)。この他、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して、養蚕業を奨励したことも知られる。
22年(478年)白髪皇子を皇太子とし、翌23年(479年)8月、大王は病気のため崩御した。
『古事記』によると、顕宗天皇の父(市辺押磐皇子)の仇討ちをすべく、意祁命(後の仁賢天皇)自ら雄略天皇陵の墳丘の一部を小規模ながら破壊した、とある。『書紀』にも顕宗が陵破壊を提案したとあるが、皇太子億計がこれを諌めて思い止まらせたとする。