鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が鎌倉に創設した武家政権(幕府)である。
旧通説によると,鎌倉幕府は、1192年に源頼朝が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており,現在ではこの説は支持されていない。また、従来「日本で最初の武家政権」とされてきたが、今日では平清盛の平氏政権をこれにあてる説が有力である。鎌倉幕府は1333年に鎌倉の北条氏が新田義貞らの軍に滅ぼされて幕を閉じた。この間の140年余りを鎌倉時代と呼ぶ。
「幕府」という政治形態は、室町幕府・江戸幕府へ継承されていく事になる。しかし、政権の名称については、『吾妻鏡』によれば、征夷大将軍の館を「幕府」と称した記述はあるが、この時代には武家の中央政権を「幕府」と呼んだことはない。政権を「幕府」というのは江戸時代の学者による呼称である。武士達は鎌倉政権のことを大抵「鎌倉殿」と呼んでいた。また、「幕府」はあくまでも将軍家の家政機関であり、公的な組織ではない。従って、当初「幕府」が政治的に影響力を及ぼすことができたのは、将軍任国である関東と将軍所領である。
平安時代末期、平清盛一族を中心とする平家政権が成立していたが、旧勢力や対抗勢力には強い反感・抵抗感があった。1177年の鹿ケ谷の陰謀を嚆矢として、反平氏の動きが活発化し、1180年、後白河上皇の皇子以仁王が平氏追討の兵を挙げ、すぐ討ち取られたものの、これを契機に全国的に反平家を標榜する勢力が立ち上がっていった。
そうした状況の中で、伊豆に流罪となっていた源頼朝は、同年8月に挙兵し、石橋山の戦いで敗れたものの、逃亡先の安房から上総国・下総国を行軍する間に、関東一円の平氏系の武士団(坂東平氏)らの支持を獲得した。瞬く間に大勢力となった頼朝軍は、同年10月、先祖ゆかりの地である鎌倉へ入り本拠地とした。頼朝は、関東武士団を統率するための侍所を置き、関東武士団の代表=鎌倉殿と称されるようになった。その直後の富士川の戦いで平家軍に勝利した頼朝は、自分を支持する関東武士団の意向を受け、関東内部の平定・経営に重点を置くこととした。
1183年7月、源義仲が平家を京都から追放したが、義仲勢力は推戴する北陸宮の天皇即位を迫り、京内で乱暴な行動を重ねた。これを憂慮した後白河法皇は、頼朝へ上洛を求めたが、頼朝は逆に東海道・東山道・北陸道の荘園・公領を元のように国司・本所に返還させる内容の宣旨(寿永二年十月宣旨)の発給を要求した。朝廷は、義仲に配慮して北陸道は除いたものの、頼朝の要求をほぼ認めた。これにより、頼朝は東海・東山両道の支配権を(間接的ではあるが)獲得した。
こうして、名実ともに東国の支配権を確立していった頼朝は、1184年、行政を担当する公文所(後の政所)と司法を担当する問注所を置いて、政権の実態を形成していった。同時に、頼朝は弟の源範頼・源義経を派遣し、平家追討に当たらせ、1185年3月、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させ、6年に渡る内乱が終結した。
同年、源義経・源行家が関東政権の内規に違反したことを契機に、頼朝は両者追討の院宣を後白河法皇から獲得するとともに、両者の追捕を名目に、守護・地頭の任免権を承認させた。これにより頼朝政権は、全国の軍事権・警察権を掌握した。守護・地頭には、兵糧米の徴収権、在庁官人の支配権などが与えられ、これは頼朝の源家政権が全国的に在地支配を拡げる契機となった。ただし、頼朝の源家政権の在地支配は、従来の権門勢家による支配に優越した訳ではない。実際、地頭の設置=在地支配が許されたのは、平家の旧領(平家没官領)に限定されていた。
1189年、頼朝の源家政権は、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし、完全に東国を掌握した。1190年、頼朝は常設武官としては最高職と言える右近衛大将に補任されたが、同職には様々な政治的制約も付随していたため、より自由度の高い征夷大将軍を望むようになった。これに反対していた後白河法皇が1192年に死去すると、頼朝は征夷大将軍への任官を果たした。これにより、鎌倉幕府の形成が完了することとなる。(更に、1221年の承久の乱での勝利をもって、鎌倉幕府の成立とする見解もある。)
以上のように、鎌倉幕府は元々、源頼朝の私的政権に発している。この私的政権は、朝廷から承認されることによって、支配権の正統性を獲得していった。そのため、幕府の支配権の及ぶ範囲は主として頼朝傘下の武士に限られ、少なくとも承久の乱までは朝廷側勢力(権門勢家)の支配権を侵害しないことを原則としていた。また、幕府機構を見ると、朝廷のそれと大きく異なり、鎌倉殿の家政機関としての性格を色濃く残していた。
なお、鎌倉幕府は、ある一時期をもって成立したと見るのではなく、徐々に数段階を経て成立したとする見解が支配的である。
1203年、重病に陥った頼家は、時政の手により伊豆の修善寺へ幽閉され、弟の源実朝が次の鎌倉殿・将軍位に就くと、1204年、頼家は時政に殺害された。時政は、将軍実朝を補佐して執権と呼ばれる地位に就き、政治の実権を握っていった。翌1205年、時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと画策、平賀朝雅と対立する畠山重忠を殺害し、実朝を廃そうとした。しかし、時政の子の義時と北条政子はこの動きに反発し、有力御家人と連帯して、時政を引退させるとともに、平賀朝雅を抹殺した。
この後、北条義時が執権となり、北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当の和田義盛が対抗勢力として現れた。義時は計略をめぐらし、1213年、和田一族を滅ぼした(和田合戦)。このように、武力紛争が絶えない幕府の状況は、1219年(承久1)1月の将軍・源実朝の暗殺という最悪の事態に至る。頼朝の直系の源家が断絶し、困った幕府は、朝廷へ親王将軍を要望したが、治天の君・後鳥羽上皇はこれを拒否し、曲折の末、頼朝の遠縁に当たる摂関家の幼児藤原頼経が新将軍=鎌倉殿として迎え入れられた。幕府の実権は、執権の北条氏が掌握することとなった。
後鳥羽上皇は、治天として専制的な政治を指向し、幕府の存在を疎ましく感じていた。実朝の暗殺を幕府の混乱・弱体化と見た後鳥羽は、幕府打倒を計画するようになった。そして、1221年(承久3)5月、後鳥羽は北条義時追討の院宣を発した。それまでの歴史から後鳥羽は、ほどなく義時が討ち取られ、関東武士たちも帰順すると見込んでいたが、幕府側は、頼朝以来の御恩を訴え、御家人の大多数を味方につけた。そして、短期決戦策を採り、2ヶ月も経たないうちに朝廷軍を打ち破った。
幕府側の主導で戦後処理が進められた。主謀者の後鳥羽上皇、そして後鳥羽の系譜の上皇・皇子が流罪に処せられ、仲恭天皇は退位、朝廷側の貴族・武士も多くが死罪とされた。当時の人々は、治天の君をはじめとする朝廷側の上皇・天皇・諸臣が処罰される有様に大きな衝撃を受けた。当時の社会における価値観は正反対に転換してしまった。朝廷の威信は文字どおり地に落ち、幕府は朝廷監視のために六波羅探題を置き、朝廷に対して優越することとなった(完全ではないが、少なくても幕府の決定を朝廷の決定が公然と破る事は出来なくなった)。
乱直後、朝廷は、次代の天皇を誰にするかを幕府へ諮った。これ以降、朝廷は治天・天皇を決定する際は必ず幕府の意向を確認するようになった。これは決して幕府が望んだ結果ではないが、朝廷と幕府の立場が逆転したことを物語る。
承久の乱後、急増した訴訟事件を公平に処理するため、泰時は明確な裁判基準を定めることとした。これが御成敗式目と呼ばれる法典(武家法)であり、平易で実際的な法令と評価されている。後の室町幕府も、この法令を原則として継承している。また、泰時は、式目制定に当たって、朝廷の司法権を侵害するものでないことを強調している。
こうした泰時の一連の施策は、執権政治の確立と捉えられている。鎌倉幕府は、頼朝以来、鎌倉殿の個人的な資質に依拠するところが大きく、その組織も鎌倉殿の家政機関を発展させただけのものだった。しかし、泰時が確立した集団指導体制・明確な法令による司法体制は、個人的な資質などの不安定な要素に左右されることはなく、安定した政治結果を生み出すものだった。
泰時の孫北条時頼は、泰時の執権政治を継承していった。時頼は、司法制度の充実に力を注ぎ、1249年、裁判の公平化のため、引付衆を設置した。一方で、執権権力の強化にも努めた。1246年、時頼排除を企てた前将軍・藤原頼経と名越光時一派を幕府から追放すると、1247年には有力御家人である三浦泰村の一族を討滅した(宝治合戦)。1252年、幕府への謀叛に荷担した将軍藤原頼嗣が廃され、代わりに宗尊親王を新将軍として迎えることに成功した。これ以後、皇族将軍(宮将軍)が代々迎えられ、皇族将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となった。こうして、皇族将軍の下で専制を強めていった北条氏は、権力を北条宗家へ集中させていった。これにより政治の実権は執権の地位と乖離していく。北条宗家を得宗(徳宗)といい、上記の政治体制を得宗専制という。
モンゴルから国号を改めた元は、1274年(文永11)10月、九州北部を襲撃したが、暴風雨により撤退した。これを文永の役という。幕府は朝廷と一体になって、国家鎮護に当たることとし、西国の警固を再強化するとともに、それまで幕府の支配の及ばなかった朝廷側の支配地、本所一円地からの人員・兵粮の調達が認められるようになった。これは幕府権力が全国的に展開する一つの契機となる。
元は1281年(弘安4)夏に再度、九州北部を中心に日本への侵略を試みた。この時も武士の奮闘もありながら、台風に大被害を受けて元軍は敗退した。これを弘安の役という。前回の襲来と併せて元寇と呼ぶ。
この間、時宗は非常事態への迅速な対処を名目として、時間のかかる合議ではなく、一門や側近(御内人という)らと専断で政策決定していった。こうした中で、御内人のトップである内管領が次第に権力を持ち始め、弘安期には内管領の平頼綱と有力御家人の安達泰盛が拮抗していた。泰盛は、時宗の理解も得て、幕府の経済基盤の充実を図るとともに、御家人の地位を保証する政策を実現しようとした。しかし、時宗が1284年に急死すると、翌1285年、平頼綱は安達泰盛を突如襲撃・殺害し、泰盛派の御家人らを討伐した(霜月騒動)。この事件により、得宗専制が完成したとされる。
この頃、朝廷においては、後嵯峨天皇以後の皇位を巡って大覚寺統と持明院統の2系統に分立して幕府に皇位継承の調整を求めた。幕府は両統迭立原則を示して仲裁にあたるとともに内外の危機に対応するために幕府は朝廷に対しても「徳政」と呼ばれる政治改革を要求した。だが、皇位継承と徳政実施の過程において幕府との対立が表面化するようになり、朝廷内に再び反幕府の動きを潜在化させる遠因となった。
1293年、成人した北条貞時は、平頼綱一族を討滅した(平禅門の乱)。貞時は、政治の実権を内管領から取り戻し、実質的な得宗専制を一層強化していった。まず、頼綱政権下で停滞していた訴訟の迅速な処理のため、合議制の引付衆を廃止し、判決を全て貞時が下すこととした。当初、御家人らは訴訟の進行を歓迎したが、ほどなく独裁的な判決への反発が高まった。そして、1297年(永仁5)、大彗星が現れると世相に不安が拡がり、当時の徳政観念に従って、貞時は、財物を元の持ち主へ無償で帰属させる永仁の徳政令を発布した。この徳政令は、当時、普及しつつあった貨幣経済に深刻な影響を与えるとともに、御家人が借金をしにくくなるという結果を招き、社会に大きな動揺をもたらした。
その後も貞時は得宗として幕府を実質的に支し続けた。貞時の時代には、北条一門の知行国が著しく増加した。その一方、一般の御家人は貨幣経済の普及、異国警固番役や長門警固番役といった新たな負担、分割相続による所領の減少といった現象により、急速に没落していった。所領を所領を売りに出したり、質入して失い、幕府への幕府への勤仕ができない無足御家人も増大していった。こういった御家人が悪党化し、いっそう社会不安をいっそう社会不安を煽る結果となっている。
御恩とは、鎌倉殿が御家人の所領支配を保障し、又は新たな土地給与を行うことを言う。「御恩」には所領支配を保障する本領安堵(ほんりょうあんど)と新たな土地給与である新恩給与(しんおんきゅうよ)の2種類があった。いずれも御家人を地頭へ任命するという形で行われた。
奉公とは御家人が鎌倉殿に対して負担する軍役・経済負担などを言う。具体的には、「いざ鎌倉」などに代表される緊急時の軍役、内裏の警護である京都大番役、幕府の警護である鎌倉番役、後の元寇の頃には異国警固番役や長門警固番役という形で行われ、また関東御公事と言われる経済負担もあった。
以上のように、相互に利益を享受することで、両者は結ばれていた。主従の契約は、御家人が鎌倉殿へ見参した際の名簿差出(みょうぶさしだし)によって行われ、幕府は御家人名簿により御家人を管理した。
関東御成敗地:将軍家が地頭任免権を持つ国、荘園、国衙領
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