達磨(だるま、ボーディダルマ 382年? - 532年)。達磨は禅宗の開祖とされ、菩提達磨(ぼだいだるま、梵語: बोधिधमृ、ピンイン Pútídámó)、達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。達摩との表記もあるが、いわゆる中国禅の典籍には達磨、古い写本は達摩と表記する。「達(ダチ)」を「ダル」と読むのは、中古漢語の入声*が朝鮮語漢字音で流音*に変化したため、達*は朝鮮半島で*に変わり、その音が日本に伝わったためとされる。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれるているものが多い。
南インドの王国の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人。中国禅の開祖。『景德傳燈錄』によれば釈迦から数えて28代目とされている。インドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで曇林、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗と呼ばれた。彼の事績、言行を記録した語録とされるものに『二入四行論』などがある。
520年ごろ、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。9月21日、広州に上陸。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。伝説では、梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。
達磨は嵩山少林寺において、壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説である。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、『壁となって観ること』即ち『壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅』のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能(638~713)の言葉とされる坐禅の定義などに継承されている。
太和10年12月9日、神光という僧侶が、自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。
大和19年10月5日に150歳で入滅したとされる。
その没後には、道教の尸解に類した後日譚が伝わるが、中国の高僧伝にはままある事柄である。それは、当時、北魏の使者として西域からの帰途にあった宋雲が、パミール高原で達磨に出会ったというものである。その時、達磨は一隻履、つまり草履を片方だけを手にしていたという。宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うた所、「西天へと行く」と答え、また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。孝荘帝が達磨の墓を掘らせると、棺の中には、一隻履のみが残されていたという。
禅宗では達磨を重要視し、「祖師」の言葉で達磨を表すこともある。禅宗で「祖師西来意」(そしせいらいい:達磨大師が西から来た理由)と言えば、「仏法の根本の意味」ということである。
達磨が面壁九年の座禅によって、手足が腐ってしまったという伝説が起こり、玩具としてのだるまができた。これは縁起物として現在も親しまれている。
| 師:般若多羅 | 禅宗 | 弟子:慧可・曇林 |
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