豊臣 秀吉(天文5年1月1日(1536年2月2日) - 慶長3年8月18日(1598年9月18日))は、戦国時代から天正時代(安土桃山時代)の武将(「豊臣秀吉」の読み方については「豊臣姓について」を参照)。
概略
尾張国中村の百姓として生まれ、
織田信長に仕え頭角を表す。信長が
本能寺の変で
明智光秀に討たれると
中国大返しにより
京へと戻り、
山崎の戦いで光秀を破り信長の後継の地位を得ると、
大坂城を築き
関白・
太政大臣に任ぜられ
豊臣姓を賜り、全国の
大名を従え
天下統一を成し遂げた。
太閤検地や
刀狩などの政策を採るが、
慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を
徳川家康らに託し没した。
一夜で築いた墨俣城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻めなど機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。
生涯
生い立ち
尾張国愛知郡中村(現在の
名古屋市中村区)に
百姓と伝えられる弥右衛門、なかの間の子として生まれた。生年については、従来は天文5年(
1536年)といわれていたが、最近では天文6年(
1537年)説も有力となっている。弥右衛門の素性には諸説がある。(注:後述の人物像を参照)
今川陪臣
はじめ
木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と名乗り、
今川氏の直臣飯尾氏の配下で
遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の
浜松市頭陀寺町)にあった
引馬城支城の頭陀寺城主・
松下長則(松下嘉兵衛)に仕えた(なお、嘉兵衛の名は息子の
松下之綱も名乗っており、しばしば混同される。
之綱は後、徳川家康に仕えるも天正11年、秀吉に丹波国と河内国内において1600石を与えられ、天正18年に、1万6千石と頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられた)。ここで秀吉はある程度目をかけられたようだがまもなく退転。
信長直臣
1554年あたりから
織田信長に小者として仕える。
清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受け、大きな成果をあげた。これらの仕事ぶりによって信長の関心を買うことに成功し、次第に織田家中で頭角をあらわしていった。この頃、その風貌によって信長から「
猿」「禿げ
鼠」と呼ばれていたらしい(注:後述の人物像を参照)。1564年には
浅野長勝の娘、
ねねと結婚。
美濃の斎藤龍興との戦いのなかで、墨俣一夜城建設に功績を上げた話が有名だが、「武功夜話」などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく江戸時代の創作であるとする説が強い。このころ竹中重治・蜂須賀小六・前野長康らを配下に組み入れている。
1568年信長の上洛に際して明智光秀らとともに京都の政務を任される。当時の文書に秀吉の名乗りが見られる。
1570年の越前朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、越前金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切り織田軍を背後から急襲。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、秀吉はしんがりを願い出てこれをよく防いだ(金ヶ崎の退き口)。秀吉の奮戦で危機を脱した信長は、秀吉の働きに対し褒美として黄金30枚を与えた。この貢献で秀吉の勇名は一気に高まる事になる。その後も浅井・朝倉との戦いに功績をあげる。
長浜城主
1573年浅井氏が滅亡すると、その旧領北
近江三郡に封ぜられて、元々今浜という名だった地を「長浜」と改める。そして
長浜城の城主となる。この頃に
丹羽長秀と
柴田勝家から一字ずつをもらい受け、苗字の木下を羽柴に改めている(
羽柴秀吉)。
近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成・加藤清正・福島正則などの有望な若者を積極的に登用した。
1576年に越後の上杉謙信と対峙している北陸方面軍団長柴田勝家への救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲たがいをし、無断で帰還してしまった。その後勝家らは上杉謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒したが、やがて許されている。
中国征伐
その後信長に
中国地方攻略を命ぜられ播磨国に進軍、
赤松則房・
別所長治・
小寺政職らを従える。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(
黒田孝高)より
姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。
1579年に備前・美作の大名宇喜多直家を服属させる。因幡の山名豊国の居城鳥取城を攻略。
1580年には織田家に反旗を翻した播磨三木城城主別所長治を2年に渡る兵糧攻めの末下した。但馬の山名堯熙が篭もる出石城も攻め落とした。
1581年には山名家臣団が、因幡の山名豊国を追放した上で毛利方の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた。その後は中国西地方一体を支配する毛利輝元と戦った。
この中国攻めでは、三木城・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、城攻めの名手秀吉の本領を存分に発揮している。
信長の死・清洲会議
1582年、
本能寺の変で
明智光秀により織田信長が殺された時には
備中国高松城を水攻めにしていた。が、事件を知るとすぐさま高松城城主の
清水宗治の切腹を条件に毛利方と講和し、京都に軍を返して(「中国大返し」)、
山崎の戦いで光秀を破る。
この功績により丹羽長秀・池田恒興の支持を得た秀吉は清洲城での重臣会議で主導権を握った。織田信孝を織田家の跡取りにすべしと主張する柴田勝家の主張を退け、秀吉は織田信忠の遺児である幼児・三法師(織田秀信)を織田家後継者とし、その後見人になる事に成功している。
柴田勝家との対立
1583年にはこの政争で抑えた柴田勝家と戦う。激戦となるが、柴田方の
佐久間盛政の暴走や、
前田利家が勝家から秀吉へ寝返った事などがきっかけとなって、秀吉軍は勝利をおさめる。その後勝家の本拠の北ノ庄城を攻め、これを滅ぼした(
賤ヶ岳の戦い)。賤ヶ岳七本槍の賤ヶ岳はこの戦いのことを指している
秀吉は勝家に嫁いでいたお市の方の助命を考えていたとも言われているが、前夫浅井長政に続き、ふたたび夫の勝家を秀吉の軍勢に殺される羽目になったお市の方は、夫に殉じる形での死を選んだ。
この戦いのあと勝家という後ろ盾を失った織田信孝や滝川一益などの反秀吉勢力も、やがて秀吉に降伏。信孝は切腹、一益は臣下となった。
徳川家康との対立
1584年の
小牧・長久手の戦いでは
徳川家康に
池田恒興・
森長可を討ち取られるなど苦戦するが、秀吉は徳川方の
織田信雄と和議を結ぶことに成功。その為家康も兵を引き、息子の
松平秀康を秀吉の養子として送って和している。
その後秀吉は1586年には妹の朝日姫を家康の正室として、さらに母の大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。これによって秀吉は織田信長の実質的な後継者となった。
大坂城築城・豊臣姓を賜る
1583年、
石山本願寺の跡地に
大坂城を築く。九州の大名
大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。しかし城の一部に防御上の問題が有り、秀吉自身もそこを気にしていたと言われている(のちに
真田信繁は、防御の弱さを指摘されていた箇所に
真田丸と呼ばれる砦を築き、大坂城の防御を大幅に強化。徳川勢を大いに苦しめた)。
1585年には近衛前久の猶子として関白宣下を受け、翌年には豊臣の姓を賜って太政大臣に就任、政権を確立した。秀吉は「豊臣幕府」を開くために足利義昭へ自分を養子にするよう頼んだが断られた、という説もある。
四国・越中征伐
そして
紀州の一向一揆勢を破り、矛先を
四国を統一したばかりの
長宗我部元親に向けた。秀吉は元親に阿波国、讃岐国、伊予国の三国返上を要求するが、元親は拒絶。秀吉は弟の
豊臣秀長を総大将に任じ、四国征伐軍を起こす。
秀長・秀次らの兵は阿波国、宇喜多秀家らは讃岐国、さらに毛利氏の兵が伊予国へ侵攻。総勢10万の大軍となった。元親は敵わずと見て早々と全面降伏した(四国征伐)。
その後豊臣方の加賀前田利家を攻めるなどして反抗していた、越中の佐々成政を屈服させる。(成政は1588年に肥後の失政を咎められ切腹となる)。
九州征伐
そのころ
九州では
島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された
大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。秀吉は島津義久に降伏勧告を行うが断られ、九州に攻め入る事になる。
1586年には豊後国戸次川において、仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親、信親親子・十河存保・大友義統らの混合軍で島津軍の島津家久と戦うが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして大敗した(戸次川の戦い)。
だが1587年には秀吉自らが、弟の秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久・義弘らを降伏させる。(九州征伐)。こうして秀吉は西日本の全域を服属させた。
1587年、バテレン追放令を出す。1588年(天正16年)刀狩令を出し大規模に推進した。
小田原征伐
1589年に北条家臣·
猪俣邦憲が、
真田昌幸家臣·
鈴木重則が守る
上野国名胡桃城を奪取したのをきっかけとして、秀吉は
1590年に
関東に遠征、
小田原城を包囲した。
東北諸大名にも、臣下としての小田原参陣を要求。しかし東北の大半を制していた伊達政宗は、派兵を渋り姿を見せなかった為に、秀吉は激怒する。その様子を知った政宗が、あわてて死装束をまとい秀吉の元に赴き謝罪した為、秀吉は遅延を許した。この時秀吉は平伏する政宗の首を扇子で軽くはたき、「もう少し来るのが遅ければここが危なかった」とつぶやいたとも言われている。
小田原城は、上杉謙信や武田信玄でも落とせなかった堅城だが、天下をほぼ手中に治めた秀吉の前では無力であった。三ヶ月の篭城戦ののちに北条氏政·氏直父子は降伏。氏政は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された。(小田原征伐)
天下統一
最後の大敵、後北条氏を下し、ついに天下を統一する。秀吉は長きに渡って続いた戦国の世を終わらせたのである。
1591年には関白を甥の秀次に譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。
また、秀吉に仕えていた茶人千利休に自害を命じている。利休の弟子の古田織部、細川忠興らの助命嘆願も空しく、利休は切腹して果て、首が一条戻橋で晒された。この事件が起きた理由については諸説がある。
この年、東北の南部氏一族、九戸政実が後継者争いのもつれから反乱を起こす。秀吉は南部信直の救援依頼に対し、豊臣秀次を総大将とした蒲生氏郷・浅野長政・石田三成を主力とする九戸討伐軍を派遣。東北諸大名もこれに加わり、6万の大軍となった。九戸政実・実親兄弟は抗戦するが、多勢に無勢の為やがて降伏。その後九戸氏は豊臣秀次に一族もろとも斬首されて滅亡。乱は終結した。
文禄・慶長の役から晩年
1592年朝鮮に出兵した(
文禄の役)。初期は朝鮮軍を撃破し
漢城を占領したものの、しだいに朝鮮各地での義勇軍の抵抗や
明から援軍が送られてきたことで、戦況は悪化して休戦した。
1593年には側室の淀殿との間に、秀頼が産まれる。その二年後の1595年に、「殺生関白と周りから呼ばれるほどの過ぎた乱行」を理由に、秀吉の甥で関白の豊臣秀次に切腹を命じた。秀次の補佐役であり、秀吉を長く支えてきた古参前野長康らも連座して切腹処分となった。秀次の妻や子などもこの時処刑されている。実際に秀次にこのような乱行行為があったのかどうかには諸説がある。一説には「実子の秀頼が生まれたので、秀次が邪魔な存在になった」という見方もある。
講和交渉が決裂したため、1597年再び朝鮮に出兵した(慶長の役)。秀吉はその最中の1598年8月18日に五大老筆頭の徳川家康や秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で胃がんのため没した、享年62。
秀吉の死を契機に、慶長の役は終了した。この戦争で朝鮮の軍民と国土は大きな被害を受け、援軍を送った明帝国もダメージを被った。また日本側でも多くの武士が戦死し豊臣家と家臣の間に亀裂が走った。次の徳川時代では戦争によって悪化した日朝関係の改善が外交の課題の一つとなった。
秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。
豊臣姓について ~本姓と名字の違い~
「
豊臣」姓とは秀吉が
後陽成天皇から授かった
本姓であり、「木下」や「羽柴」といった
名字(苗字)とは性質が異なる。一般には豊臣姓の下賜によって「羽柴秀吉」から「豊臣秀吉」へ改名したと認識されているが、実は
「羽柴」という名字は豊臣姓下賜後も変わっていない(このことは秀長や秀次らについても全く同様)。すなわち「豊臣秀吉」とは、「平景虎(たいら・の・かげとら)」(
長尾景虎〔上杉謙信〕)や「源晴信(みなもと・の・はるのぶ)」(
武田晴信〔信玄〕)などと同様の、自分より目上に対する
本姓と
諱による名乗りである。また、現代では「豊臣秀吉」を「とよとみ・ひでよし」と読むことが多いが、これは本姓と名字の混同に起因すると思われる誤った読み方である。本姓による名乗りの場合、姓と諱の間に氏への所属を意味する「
の」を入れて読むので(「
平清盛」を「たいら・
の・きよもり」、「
源頼朝」を「みなもと・
の・よりとも」と読むはそのため)、「豊臣秀吉」の正確な読みは「
とよとみ・の・ひでよし」となる。
※この規則は「豊臣秀長」、「豊臣秀次」、「豊臣秀頼」などにも当てはまる。
「長尾景虎(上杉謙信)」や「武田晴信(信玄)」と同様に、ウィキペディアの鎌倉時代以降の武将の記事名原則である「名字+諱」による名乗りの場合は「羽柴秀吉(はしば・ひでよし)」となるが、この表記は当時においては行われていなかったので、同時代的な名乗りは「羽柴筑前守」(略して「羽柴筑前」)などのようになる。
評価
政策
秀吉は、政策面では織田信長を踏襲し、
楽市楽座・
朱印船貿易による商業振興と都市の掌握・貨幣鋳造による商業統制を行った。
太閤検地と
刀狩は税制を確立させ、兵農分離と身分の格差を徹底させて
江戸時代の幕藩体制の基礎を築いたと評価される(但し、近年では刀狩については不徹底に終わったという見方も有力である)。
また、いち早く当時のキリシタンの危険性(大航海時代のヨーロッパの植民地政策;日本人奴隷貿易、1596年のサン=フェリペ号事件など)を認識し、その脅威の取り除きをはかった。この政策はより徹底されて江戸幕府に受け継がれた。しかし、晩年に領土拡大を目論んで行った対外的な侵略戦争である文禄・慶長の役は失敗に終わった事が原因で、これに不満を示した豊臣家の家臣が徳川家に味方する者が相次いだ。
これにより豊臣家の政治基盤が弱体化したため、結果的に豊臣政権が短命に終わる一つの原因になった。
人物像
- 本能寺の変から中国大返し、山崎の戦い、清洲会議、賤ヶ岳の戦いに至るまでの軍事政治手腕は、神懸り的ともいうべき能力を発揮している、信長の死後一年足らずで、信長勢力での席次が3~4番手の一介の軍団長が主席となり、以後、日本有数の実力者にまで当極している。しかし次第に平衡感覚を失い、それを補うべき秀吉の一族の多くも不幸になった(母の大政所と妹の朝日姫は家康の人質となり、実弟で有能な補佐役であった秀長は早くに亡くなり{一般には寿命とみなされる}、甥の秀次と一族を処刑するように命じた)。特に彼等夫婦自身に非がないとはいえ、正室高台院との間に嫡子を儲ける事が出来なかった事は、世襲も有用な政略である戦国時代にあっては致命的ともいえる。仮に秀吉没時に、壮年の後継者がいれば、多少凡庸であったとしても、家康の跳梁も、豊臣家もあそこまで無残に殲滅される事もなかったかもしれない。
- 晩年の秀吉は信長時代のような切れ味がなくなり、独裁による弊害が目立つ。このため、豊臣氏は結果的に家康に滅ぼされたとはいえ、その遠因を作り出したのは、秀吉自身と見なされる論が多いのである(特に豊臣秀次一族粛清と朝鮮出兵は、多くの史家から秀吉最大の愚行とまで言われている)。
- なお明治から昭和の戦前にかけては、富国強兵政策や身分が低いながらも関白太政大臣になったということで民衆の手本にしようという試みもあり、好意的に捉えられることが多かった。文禄・慶長の役を「朝鮮征伐」として、「敵(朝鮮)の将軍を恐れしめ、日本の国威を世界にしらしめた偉大な人物」とされている文献もあったとされる。その評価では、日本では武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされ、「太閤さん」と呼ばれることも多い。このような評価から創られた物語では、信長を怜悧な天才、家康を実直な慎重家と設定し、彼らとの対比で秀吉を陽気な知恵者として描かれることが多い。
- このように秀吉を好意的に評価する土地は多く、特に、誕生の地である名古屋市中村区(記念館がある。また名古屋まつりでは毎年織田信長・徳川家康とともに彼に扮した人物がパレードする)、政権を執った本拠地の大阪市(江戸期の大坂商業発達の基盤を築いたという見方も強い)などでは人気が高い。
- 秀吉の父の弥右衛門は百姓であったとされるが、百姓=農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説もある。平時は農業経営を行い合戦となると参加する階層だったのだろう。ただし、秀吉が始めて苗字を名乗るのは木下家出身のねねとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もあり、それ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている。当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の中で通用する私称の苗字を保持しているのが通例であった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。秀吉の真の出自と初期の人生についてはいまだ謎に包まれている側面が大きいとも言える。
- 猿と呼ばれたとされる説も有名ではあるが、実際に秀吉が猿と呼ばれたのは実は関白就任後に落書などの中で、「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味での皮肉として使われた「さる関白」という表現に由来するものであり、容貌とは何ら関係なく、まして信長がそう呼んだという証拠すら見あたらない。いっぽう「禿げ鼠」の呼び名も、信長からねねへの書状の中で一度触れられたのみで、常用されていたわけではない。
- また、彼は多指症だったことが知られている。当時、普通は小さい頃に1本を切除し5本とするが、秀吉は6本指を生涯通したとのことである。
- 韓国では、朝鮮出兵による自国の侵略の張本人であるということから評価は低く、秀吉軍に対する抵抗の象徴として李舜臣が民族の英雄として評価されている。
墓所・霊廟
死後、京都東山の阿弥陀ヶ峰(現在の豊国廟)に葬られ、豊国大明神として
豊国神社に祀られたが、三代将軍
家光の時代
幕府により廃された。明治になり
日光東照宮の相殿に祀られ、豊国神社は再興された。
高野山奥の院にも墓所がある。
戒名「国泰裕松院殿霊山俊龍大居士」
系譜
秀吉の親族
秀吉の養子
家臣
譜代の家臣を持たずに生まれ、天下人へと至った秀吉は、その生涯で多くの家臣を新たに得た。
織田信長に仕えた頃からの陪臣として浅野長政、堀尾吉晴、山内一豊、中村一氏、竹中重治、樋口直房、脇坂安治、片桐且元、石田三成、黒田孝高、増田長盛などがおり、福島正則、加藤清正は幼少の頃から自身で養育する。
賤ヶ岳の戦いでは、抜群の功績を上げた正則、清正に加え加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元らが七本槍として数えられる。ただし、誰を賤ヶ岳の七本槍とすべきかについては諸説ある。
信長の後継を得るとその重臣である前田利家、丹羽長秀、蜂須賀正勝らも臣下に加えるが、これらは友人としての関係を保ったとも考えられている。
関ヶ原で敗れて処刑された石田三成や自害した大谷吉継、敗れて島流しとされた宇喜多秀家は別として、正室の高台院(おね、ねね)が、秀吉の子の秀頼が側室の淀殿の子であることから、福島正則ら秀吉子飼の大名たちに対して豊臣家に忠義だてしなくてもよいと言ったため、彼らの中で大阪冬の陣、大坂の役とも豊臣家に忠誠を尽くしたものは皆無である(ただし、加藤清正と浅野幸長は、徳川氏が黙認する中、消極的な形ながら豊臣氏の擁護に終生尽力した。ただし、このために毒殺されたと言う説もある)。
晩年には豊臣政権の職制として五大老、三中老、五奉行を設けるが、死後に譜代の家臣は関ヶ原の戦いで武断派と文治派に分かれ戦った。
- 五大老
- 徳川家康(筆頭)、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景、上杉景勝(隆景死後)
- 三中老
- 生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴
- 五奉行
- 浅野長政(筆頭)、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以
- 賤ヶ岳の七本槍
- 福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元
- 信長旧臣
- 前田利家、丹羽長秀、蜂須賀正勝、堀秀政
- 黄母衣衆
- 青木一重、伊木遠勝、石尾治一、伊東長実、井上道勝、井上頼次、猪子一時、織田信高、小野木公郷、郡宗保、仙石秀久、津川親行、津田信任、戸田勝隆、友松盛保、中島氏種、中西守之、長原雲沢軒、野々村吉安、長谷川重成、蜂須賀家政、服部一忠、速水守久、尾藤知宣、舞兵庫(前野忠康)、神子田正治、箕浦勘右衛門、三好房一、毛利吉成、森可政、山内一豊、分部光嘉
- 参謀
- 竹中重治、黒田孝高
- その他子飼い
- 小西行長
関連項目
木下氏 | 摂関 | 戦国大名 | 近畿地方の歴史 | 織豊政権の大名 | 茶人
تويوتومي هيده-يوشي | Тойотоми Хидейоши | Toyotomi Hideyoshi | Toyotomi Hideyoshi | Toyotomi Hideyoshi | Toyotomi Hideyoshi | Hideyoshi Toyotomi | טויוטומי הידיושי | Toyotomi Hideyoshi | ტოიოტომი ჰიდეიოსი | 도요토미 히데요시 | Toyotomi Hideyoshi | Toyotomi Hideyoshi | Toyotomi Hideyoshi | Toyotomi Hideyoshi | 丰臣秀吉