諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名号のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は、「贈り名」を意味する。
諡号を奉るという事については、王権継承から着目し、即位を正統化する儀式であることに本来の意義がある。
立諡制度の起源は中国の周代中期(紀元前9世紀頃)といわれ、天子のみならず、諸侯・卿大夫・高官・名儒等に贈られ、時代が下って高僧も対象となった。
初期の諡号には褒貶の義は無かったようだが、次第に生前の行跡に照らして追号されるようになった。中国の戦国時代に成立した『逸周書・諡法解』は諡法について定めた最初の書であり、長く諡号選定の準拠とされた。
諡字は概ね、その意味を以って上(美諡)・中(平諡)・下(悪諡)に分けられる。「神」「聖」「賢」「文」「武」「成」「康」「献」「懿」「元」「章」「景」「宣」「明」「昭」「正」「敬」「恭」「荘」「粛」「穆」「烈」「桓」「威」「貞」「節」「靖」「真」「順」「顕」「和」「高」「光」「英」「睿」「憲」「孝」「忠」「恵」「徳」「仁」「智」「慎」「礼」「義」「敏」「信」「清」「良」「謙」「純」「哲」等、死者への褒揚がこめられた字が名君賢臣に与えられた。これに対し、「野」「戻」「厲」「昏」「煬」「幽」「夷」等は悪諡として暴君奸臣に賜る事になっている。
立諡制度は秦の始皇帝によって一時廃止されながらも、西漢以降中国の歴代王朝に踏襲され、日本には少なくとも天平宝字六年(762年)以前に、律令政治の成立と前後して輸入された。
ほとんどの君主はこの両種類の諡を持っているが、例外として、末帝や廃帝には廟号が上られなかった。廟号を得るとは太廟(皇室の祭祀所)に位牌が祀られることを意味し、崇めるに足りなかった廃帝や、皇朝の末代にそのような待遇はされなかったのである。
開国皇帝(王朝の初代)や王朝の繁盛に大いに尽くした皇帝には「某祖」、その他の皇帝たちには揃って「某宗」の廟号が奉られた。例えば、前漢の高帝劉邦は開国皇帝なので廟号は「高祖」、後漢の光武帝は創業に等しいので廟号は「世祖」とされたが、それ以外の漢代の帝王は皆「某宗」であった。清の初代ヌルハチは太祖高皇帝、初めて中原を支配した三代目順治帝は世祖章皇帝、その子で賢君の誉れ高かった康熙帝は聖祖仁皇帝とされ、稀に見る一代三祖となっている。ちなみに、日本でも昭和天皇の玉音放送の中で「皇祖皇宗(初代と言われる神武天皇から続く万世一系の天皇家という意味か)」という表現を用いている。
帝王の諡字選定の原則も、臣下のそれと同様であったはずだが、唐宋以降、よほどの暴君でもない限り悪諡は避けられた。遊楽に耽けて危うく国を傾けそうになった宋の徽宗(実際に亡国)、明の武宗なども美諡を得た所以である。
日本の古代の君主には、諡号として国風諡号・漢風諡号・追号の種類がある。この内、国風諡号は日本特有のもので、和風諡号・国語諡・本朝様諡等の別称がある。
奈良時代から平安初期にかけて、天皇(その称号自体が諡である)・后妃・皇太子の諡号には和風と漢風が併用され、例えば元明天皇は漢風諡号を元明天皇、和風諡号を「日本根子天津御代豊國成姫」(やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)天皇といった。しかし、国風諡号(和風諡号)を奉る制度は、先帝の崩御後に行われる葬送儀礼の一環として行われてきた事もあり、時代が下り薄葬が一般化すると衰滅した(国風諡号は平安時代前期の淳和天皇(833年譲位)まで追贈された)。
漢風諡号の方は、中国とほぼ同様、生時の行いを評して、『逸周書・諡法解』などの定義によって選定された。諡を撰して奏上するのは明経道を学んだ博士や大外記などの儒家である。ただし、日本では悪諡は適用されていない。
奈良時代、天平宝字六年(762)~同八年(764)に神武から持統天皇までの四十一代、及び元明・元正天皇の諡号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に見える。
漢風の諡号(帝号)は平安期の光孝天皇まで続いたが、その後、律令政治の崩壊と共に途絶えた。これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における崇徳、安徳、顕徳、順徳の四例を見るのみである(いずれも怨霊を恐れられたゆえ「徳」字を奉られた)。
国風諡号・漢風諡号が帝王に奉られなくなった後、かわって死後の称号として主流となった追号(ついごう)も、諡の一形態に属するが、厳密に言って正式な諡号ではない。追号には褒貶の義は無く、単なる通称の域を出ず、現在は「某天皇」と呼んでいるが、かつては「某院」と称していた。追号の命名法は、大別すると、地名、皇居の宮名、後院(譲位後の御在所)の名もしくは出家した寺の庵号を以って呼ばれる場合、山陵の名を宛てる場合、加後号といって「後」某院と称する場合、極まれだが、先代の二つの漢風諡号から一字づつを取って追号とする場合とがある。
また、遺詔によって自ら決める追号を遺諡と言い、大治四年(1129)七月の白河院を初めとして、著名な例だけでも後嵯峨・後深草・後宇多・後醍醐・後小松・後水尾などの諸帝がいる。私的性質が強い追号は帝王のみならず公武両方に多く、邸宅の号や縁の地を以って「某殿」と称するのは帝王の場合と同趣である。
諡号献呈は時代がはるかに下った江戸後期に、第百十九代光格天皇によって復活し、仁孝・孝明の二代を経て、明治の一世一元と共に年号を以って帝号とするように定められた。
これに対して后妃の諡号は、上代末頃にはすでに見られなくなり、代わって生前から使われる女院号が盛んに宣下された。明治時代に至り、女院号の廃止を承けて后妃にも諡号が奉られるようになる。以来、孝明天皇の嫡妻「英照皇太后」、明治天皇の嫡妻「昭憲皇太后」、大正天皇の嫡妻「貞明皇后」、昭和天皇の嫡妻「香淳皇后」の四人が追諡を受けている。
臣下に賜る諡としては、右大臣在任中に没した藤原不比等(文忠公・淡海公)が嚆矢であるが、後の世には摂関・太政大臣を務めて在俗のまま没した者に限って漢風諡号と国公が贈られ、貞観十四年(872)九月四日の藤原良房(忠仁公・美濃公)をはじめ、摂関期に九例を数えた。また、僧に関しては清和天皇の貞観八年(866)七月、最澄に伝教、円仁に慈覚の大師号が初めて贈られ、後には国師号なども諡として併せて贈られた。
Postumer Titel | Posthumous_name | نام_پسامرگ | Thuỵ_hiệu | 谥号