詩経(しきょう)は、中国最古の詩篇である。古くは単に「詩」と呼ばれ、また周代に作られたため「周詩」とも呼ばれる。儒教の基本経典・五経あるいは十三経の一。漢詩の祖型。古くから経典化されたが、内容・形式ともに文学作品(韻文)と見なしうる。もともと舞踊や楽曲を伴う歌謡であったと言われる。
西周時代、当時歌われていた民謡や廟歌を孔子が編集した(孔子刪詩説)とされる。史記・孔子世家によれば、当初三千篇あった膨大な詩編を、孔子が311編(うち6編は題名のみ現存)に編成しなおしたという。孔子刪詩説には疑問も多いが、論語・為政篇にも孔子じしんが詩句を引用していることから、その時代までには主な作品が誦詠されていたことが窺い知れる。
現行本『詩経』のテキストは毛亨・毛萇が伝えた毛詩(もうし)である。そのため現行本に言及する場合、『毛詩』と呼ぶことも多い。
「国風」は、周南・召南・邶・鄘・衛・王・鄭・斉・魏・唐・秦・陳・檜・曹・豳の15の国と地域の小唄や民謡を収める。「雅」はさらに「小雅」と「大雅」に分かれ、「小雅」は、鹿鳴・南有嘉魚・鴻鴈・節南山・谷風・甫田・魚藻の7什編、「大雅」は、文王・生民・蕩の3什編によって構成される。「頌」は、周・魯・商の3什編に分かれる。商頌は殷室の祭祀を継承した、宋の廟歌と言われている。
また風・雅・頌が体裁上のスタイルであるのに対し、表現上には賦・比・興という3つのスタイルがある(体裁上の3スタイルと合わせて「六義」という)と言われている。
前漢では一芸に通じた博士が私塾において弟子に学問を伝授したが、後漢に入って太学におけるカリキュラムとして定着すると、詩家としての独自性は失われる。また思想界において経典化する一方、文学界においては、前漢の司馬相如や揚雄らを端緒とする長文の韻文=「駢儷文」が流行していく中で、換骨奪胎され、変容と再生をくりかえしていく。
詩経は『春秋』の場合と同じく、編纂者である聖人孔子の思想がそこに隠されているという考え方が強かった。特に漢代には、すべての詩編には必ずその発祥のもととなった史実があり、歌詞にはそれらに対する毀誉褒貶がこめられている(美刺説)、という考え方が主流となった。この思想は唐代の『五経正義』(古注)において決定的となる。しかし宋代の朱熹はこれに対して、「国風」については単なる民謡・小唄であり、なかには「淫奔者」の詩があると手厳しい批判を行い、詩経の学の面目を一新した(新注)。しかし「雅頌」については、従来どおり「聖人」の作であることを認めている。
なお詩経は日本にも古くに招来され、『日本書紀』によれば継体・欽明朝のころ、百済から五経博士が来日したという。以後、「博士家」において細々と伝えられたが、広く読まれた形跡はないようである。鎌倉・室町期に五山文学が興ると、道俗の間に漢籍に対する関心が高まり、「毛詩抄」のような資料も作られたようである。
古文の学はそもそも武帝時代に博士となった孔安国の『古文尚書』に始まる。前漢末に劉歆が『左氏春秋』(春秋左氏伝)と『周礼』とを世に出したことで注目され、後漢には班固・馬融・鄭玄らの古文学派の大物が次々と現れた。詩家においては鄭玄が今文系の三家の学と毛詩の学とを比較検討し、毛詩のテキストをもとに四家の説をまじえた注解書を著した。いわゆる『毛伝鄭箋』である。以後、鄭氏の学が尊ばれるようになり、漢代の三家詩は衰えてやがて失伝する。その流れは、唐代に『五経正義』が定められたとき、『毛伝鄭箋』が標準テキストに選ばれることで決定づけられる。
また漢代以降、儒教が「国学」に定められると、そのテキストの異同が問題となった。そのため前漢の「石渠閣」や後漢の「白虎観」での会同に代表されるような宗論の場が設けられ、公式に認められたテキストを「石経」として刻んで公開した。特に後漢の蔡邕らによる「熹平石経」と、唐代に造られた「開成石経」とが知られている。
今日伝えられている詩経のテキストは、
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