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Yuan Shi-Kai.jpg 袁世凱(えん せいがい、簡体字:袁世凯、ピンイン: Yuán Shìkǎi, 1859年8月20日 - 1916年6月6日)は中国末から民国初期の軍人政治家は慰亭(いてい)、号は容菴(ようあん)。河南省項城県出身。

清朝末期の軍人として陸軍の近代化を進める役割を担いつつ台頭し、彼自身が作り上げた軍事力を背景に政治的にも大きな権力を振るい、欧米諸国では彼のことを「ストロング・マン」と呼んだ。その後一時失脚するが、辛亥革命の混乱の中で清政府と孫文らの革命派との間で巧みに遊泳し、中華民国大総統となり、革命派を弾圧するとともに、インフラ整備や軍備の充実などの面から国家の近代化に当たった。さらに皇帝になろうとするが、内外の反発を買って中止、失意のうちに没した。

家族構成は、妻妾8人と子女15人。子息のうち、政務を執る袁世凱の傍らにあって、辛亥革命や、袁の皇帝就任などにおいて数々の策謀を巡らせたとされる袁克定は彼の長男に当たる。

清朝陸軍の洋式化を担って台頭する


袁の生家は、官僚や軍人を多く輩出した、地元でも指折りの名族であった。そういったなかで生まれた袁は、若いころから立身出世の強い願望を抱いていたと多くの伝記は語っている。

まず官僚を志して科挙に2度挑戦したが、どちらも一度目の試験でつまづき、断念した。そこで軍人となることを志し、1881年には李鴻章幕下の軍に身を投じ、朝鮮に渡った。その後任地で発生した壬午の変(壬午軍乱)・甲申の変(甲申政変)では閔妃の要請のもと巧みな駆け引きで鎮圧に貢献し、情勢を清朝有利に導いた。そして事実上の朝鮮公使として李鴻章の監督の下、朝鮮の内政にも干渉できるほどの大きな権限を持った。袁は朝鮮に政治的・経済的ともに清朝の勢力を扶植して対抗する日本勢力を排除しようと考え、特に経済的には一定の成果を挙げている。ところが1894年、貧しさと圧政にあえぐ朝鮮の民衆が東学党の乱を起こした。失地回復を図る日本はここぞとばかり軍隊を派遣、袁も負けじと本国に出兵を要請し、ここに日清戦争が勃発した。

しかし日清戦争は清朝の大敗に終わり、敗北の中で袁は本当の意味で近代化した軍隊の必要性を痛感した。当時の清朝の軍隊は、軍備の資金は与えられても上官がピンはねしてろくな装備を持たなかったり、装備は充実していても兵隊の規律がなっていなかった。袁はその後まもない1895年10月には陸軍の洋式化の職務に就き、近代兵器を伴った兵の訓練、厳しい規律などを実施し、大きな成果を挙げた。当時の欧米人や日本人も、袁の軍隊を視察して高い評価を下している。当時の袁の軍隊のことを、新建陸軍と呼ぶ。

この軍事力こそが彼の力の基礎となり、その後の北洋軍の屋台骨となった。人材面でも、段祺瑞馮国璋王士珍(その後北洋の三羽烏と呼ばれる)らはこの時期から袁の幕下に入り、彼を支えることとなる。

変法と義和団の混乱の中を巧みに立ち回る


1898年戊戌の新政の際には康有為梁啓超変法派を当初支持した。軍の洋式化を推し進めていた彼にとっても、変法派の主張は好ましく思えるものであった。彼自身、梁の学習サークルである強学会に所属していたこともある。しかし変法派が西太后ら守旧派を一掃するクーデターを策するとあっけなく裏切り、西太后の側近である栄禄に情報をリークした。これによって西太后の信頼を得ることとなり、翌年には山東巡撫(省の長官)に任ぜられた。

義和団の乱では彼は自らの治下での反乱をいちはやく鎮圧し、彼の軍隊の強さを証明した。西太后を中心とする北京政府は各省の指導者に義和団と結んで欧米列国軍を攻撃する命令を下すが、袁は両広総督李鴻章・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞らと協調し、諸外国と東南互保の盟約を結び、北京政府の命令には従わず領土と軍隊を保全した。結局義和団の乱は列国軍によって鎮圧され、西太后に動員された北京周辺の清朝の軍隊はほとんど壊滅し、袁の力はさらに強まることとなった。

1901年に李鴻章が没すると、袁は彼を引き継いで北洋大臣兼直隷総督となった。ここに北洋軍が誕生したのである。北洋大臣としての立場から、従来に加えて袁の軍はさらに強化された。その後も栄禄ら有力者が没していく中でさらに権勢を強め、また西太后からの信頼も極めて厚くなった。

ストロング・マン袁世凱の政策


この時期から袁は政治家としても活躍し、いわゆる光緒新政の中心的人物となった。彼の採った政策とは、国債などによって諸外国から金を借り、その資金によって陸軍の洋式化、教育機関の拡充、鉄道銀行などのインフラ整備を行っていくというものであった。この方式は辛亥革命後に彼が大総統になった後もあまり変化がない。また、資金を借りることで列強に侵略されるリスクについては、各国に平均して頼ることで回避が可能であると考えていた。日露戦争後に日本が東三省(満州)において独占的な権益の確保を企てるが、彼はアメリカを同地に介入させることで、日本の侵食を阻止しようとしている。

1907年には軍機大臣・外務部尚書となった。

寝返って新生国家の元首となる


ところが1908年に西太后が病没すると、かねてから袁を嫌っていた満州貴族らによって、失脚させられた。さらに満州貴族らは袁の殺害を謀ったが、内部情報を得た袁はほうほうの態で北京を逃れた。かくしてすべての職を失った袁は河南省彰徳近くに居を構え、失意の日々を過ごしすこととなった。しかし、一方で彼の部下は多く政権に残っていたので、内部情報はふんだんに入手していたようである。

1911年10月、辛亥革命が勃発、華中・華南では革命派優位で情勢が推移した。清朝内の満州貴族らも既に袁のほかにこれを鎮圧できる人物はいないと判断し、清朝の第2代内閣総理大臣、湖広総督に任命するとともに、反乱軍の鎮圧を命じた。清朝不利を確信した袁は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせつつも自らは動かず、一方では革命派と極秘に連絡を交わした。そして自らの臨時大総統就任の言質を取るや寝返り、清朝の要路者に政権の交代をうながした。こうして1912年3月、最後の皇帝宣統帝が退位して清朝は滅亡、袁世凱は新生中華民国の臨時大総統に就任したのである。

中華民国大総統として


袁の政治に対する考えは一貫しており、中央の元首が強権を振るうことで初めて麻のように乱れた中国はまとまり得るというものであった。こうした発想は当時の対中国観の主流であり、孫文などもそう考えていた。しかしこれにたいして当時国民党の実質的指導者である宋教仁は、最高権力者の権限を制限し、議院内閣制を行うことが必要であると主張した。当時としては新鮮なこの考えは多くの国民の心を捉え、国民党は1912年12月の選挙で圧勝した。袁は大きな影響力を持ちつつある宋を警戒し、懐柔策をしばらくとり続けたが、ついに1913年3月、宋教仁を暗殺した。その後も大総統の権限を強化したり、任期を長くするなど自らの強権に努めた。

この後多くの国から借款を行い、近代化資金を確保し、インフラ整備を行った。この借款にたいして南方各省から反発の声があがり反乱となったが、袁は得意の軍事力をもってこれを撃退した。反乱軍を指揮していた李烈鈞・孫文・黄興らは日本に亡命した(1913年9月、第二革命)。同年10月には正式に大総統に就任。さらに国民党の解散命令を出したうえで、国会内の国民党議員を全員解職した。

1914年7月、第一次世界大戦が勃発すると、袁の中華民国政府は中立をいちはやく宣言した。しかし、隣国の日本は日英同盟を理由に膠州湾岸のドイツ領に出兵し、占拠した。この間袁は日本に領土の返還を求めるが、受け入れられなかった。さらに日本から「21か条要求」を突きつけられる。袁はこの情報を諸外国にリークするなどして不成立させようとするが、1915年5月、ついにこれを認めた(但し、「21か条要求」そのものが、袁世凱が共和制の脆弱性を国民に見せ付けるために日本側と打った「芝居」だとする説もある)。

こうした袁の弱腰(と映った)な姿勢に、自治の姿勢を強めつつあった地方勢力が再び不穏な動きを見せていた。このことが必ずしも理由ではないが、地方から中央への税の流れがとどこおりつつあり、また北京など大都市では袁の専制を批判する動きが学生を中心に広がりつつあった。学生の多くは、主に日本から自由民権思想社会主義などの新しい思想を持ち帰り、袁の施政をすでに時代遅れのものと考えていた。

帝位を狙い、失敗


こうした不安定な状況の中、1915年に袁は帝政復活を宣言した。翌1916年より年号を洪憲と定め、国号を「中華帝国」に改めることを宣言した。こうした袁の行動は、自らの野望を果たすためという面もさることながら(彼の皇帝就任への願望を示すエピソードはふんだんに残されている)、四分五裂した中華を束ねるためには、強力な立憲君主制が必要との考えであったという見方が日本の学者では多い。

しかし、結果はまったく袁の予想と反するものだった。北京では学生らが批判のデモを行い、地方の軍閥はこれを口実に次々と反旗を翻した。彼の足元の北洋軍閥の諸将までもが公然と反発し、袁を批判した。さらには当初傍観していた日本政府が、帝政宣言の受けの悪さを見て取るや、厳しく非難を始めた。結局袁は1916年3月に慌てて帝政復活の取り消しを宣言した。しかし一度失墜した権威は戻らず、同年6月に失意のうちに病死した。死因は尿毒症と伝えられる。

袁の死後元彼の部下であった張勲・馮国璋・徐世昌・段祺瑞などが相次いで政権につくが、いずれも一国をまとめる力を持ちえず、各地方を根拠とする軍閥割拠の時代に突入した。蒋介石北伐が終了するまでの10年余り、この状況が続くこととなる。

評価


現代中国では、政治的な意図もあって袁は悪役・漢奸のレッテルまで貼られている。中国共産党が称揚する孫文らを弾圧したこと、日本の21か条要求に屈したこと、そして時代に逆行して皇帝を名乗ろうとしたことは、中国共産党の作る歴史観からすれば明らかに悪役であり、当分はこの評価もやむを得ない。台湾においても革命で打ち立てられた共和制中国を乱した人物として低く評価されている。

日本でもその反復常なき行動から、袁の受けは悪い。しかし、時代の流れに敏感に察知して近代化を行いつつも、伝統的な価値観を引きずって生きた袁自体を掘り下げ、再評価することは、当時の再検証に大きく益するものではないだろうか。

参考書籍


  • J.チェン著、守川正道訳『袁世凱と近代中国』岩波書店1980年
    • (なお、このなかに所収の竹内実の論文「大正期における中国像と袁世凱評価」が、明治末からの大正にかけてのリアルタイムな日本人の袁世凱観をわかりやすくまとめている)
  • アーネスト・P・ヤング著、藤岡喜久男訳『袁世凱総統:「開発独裁」の先駆』光風社選書、1994年

袁についての書籍で、日本語で流布しているものはあまり多くない。しかし、資料としての袁世凱自身の上奏文・電信文の類は非常に多く残っており、台湾を中心に出版されている。

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