菓子(かし)とは、甘味や塩味など味覚強調し、あるいは食感など触覚に工夫し、各種の匂いで嗅覚など食味感覚の嗜好品として製造、調理された食品である。
一般に穀類の粉を練り焼くあるいは蒸すなどしたビスケットや饅頭、糖質を主体としたキャンディやチョコレート類、アイスクリームなどの冷凍菓子などを含めて菓子とされている。
近代になり冷凍冷蔵技術の向上と大量生産を可能にする工業化が進んだ事で、菓子の種類と生産量は飛躍的に増えた。これにより菓子製造販売の主流は、職人が手作りして菓子店で小売りするといった形態から、工場生産された包装済みの菓子がスーパーマーケットやドラッグストアで販売されるという形態へと変化していった。
なお、日本では食品衛生法および乳等省令により、アイスクリームなどは一般食品である菓子ではなく、乳製品として分類されている。また、果実を乾燥させたり砂糖漬けといったもの、焼き芋やいり豆など農産物を単純に加工したものは菓子製造と見なされない場合が多いが、一方でポテトチップやポップコーンといったものはスナック菓子として扱われている。
農耕や牧畜が発展し、原種の小麦が現代品種に至って以降、文明の発達と共に菓子が作られはじめた。紀元前2200年頃の古代メソポタミアの新シュメール時代、マリ王朝の宮殿跡から「うずくまるライオン」の菓子型が出土している。「楔形文字」の解読研究によるとマリ王朝には「メルスの製造者」という職業があり、「メルス」は練った生地にナツメヤシやピスタチオ、干しイチジクや干しブドウ、蜂蜜や各種の香辛料を混ぜ込んで焼き上げたものだとされている事が解り、これが現代の焼き菓子につながるものだとも考えられている。
また、紀元前1175年、エジプトのラムセス3世の墓には、製パン所と思われる壁画があり、パンとともに「ウテント」という渦巻き状の揚げ菓子と思われるものが描かれている。墳墓の副葬品として、食物を作る人々の像や食物も出土しており、それらの研究から当時14種類の菓子があったとも推測されている。
紀元前2000年頃に地中海で海洋文明として成立したエーゲ文明はアジアの文物を媒介し、後継であるミケーネ文明をさらに引き継いだギリシア時代には、誕生日を祝う現代のバースデーケーキにあたるものなど100種を数える菓子があったと言われている。紀元前二世紀頃からはバターも知られはじめ、チーズの製造にも工夫が重ねられ職人も存在しており、獣脂やガチョウなどの卵も菓子製造に利用されたようで、菓子作りの基本となる食材が揃い始めた時代でもあった。
文明の勃興期、穀物を製粉加工する粉食は世界各地で多発的に起こったとも考えられている。ユーラシア大陸の各所で派生した文化が成熟し、ギリシアとペルシアのように争いを含め様々な形で交わっていく過程で、菓子はさらに多様化し広まっていった。現代のアラブ諸国に見られる揚げ菓子も、ギリシアで婚礼菓子として用いられていた蜂蜜入りの揚げ菓子が由来であると考えられている。
帝政となりローマは更に繁栄を極め、菓子に用いられる材料もますます多様になっていった。紀元前のアレクサンドロス3世による東方遠征時、インドにサトウキビの絞り汁を発酵させた「葦の茎からとれる蜜」があると報告されていたが、その発酵物を固めたと思われる「サッカラム」も蜂蜜や果糖と同様に菓子作りに用いられていたと考えられている。
さらに、312年頃には市内にパン屋と菓子屋が合わせて254軒もあったと伝えられており、合わせ型による焼き菓子や工芸菓子も登場し、富裕層や貴族階級の宴席を飾っていた。カトリックの洗礼式などで用いられる「ドラジェ」や、イタリアのクリスマスに欠かせない「パネトーネ」もローマ時代が起源と言われており、あらゆる物品が集うと言われ世界第一の都市であったローマにおける菓子の隆盛が、現代菓子の基礎となったと考えられている。
イスラム教成立以降キリスト教世界との対立は続き、ヨーロッパにおいてようやく国家的安定が得られはじめた11世紀から13世紀までの200年間、聖地奪還を掲げて幾度もキリスト教圏から東方へと十字軍の遠征が行われた。人の往来は交流を生み軍路の発達は物流を助け、結果として砂糖や香辛料をはじめとする東方の物産がヨーロッパに広まる事となった。だが、イタリア諸都市を通じ地中海貿易でしか得られない砂糖は、貴族や富裕層の間でしか手にできない貴重品であり、そのほとんどが滋養のためのいわば薬用として処方されるもので、菓子製造に利用するのではなく、当初はわずかにふりかけるといった用いられ方だったとも考えられている。また、貴重品であった砂糖の取引はやがて教会の許可制となり、修道院などで薬酒として作られていたリキュール酒の材料として香辛料と共に用いられる事となり、後年、甘いリキュール酒として菓子作りに活かされる事となった。
砂糖だけでなく、十字軍のもたらした文物はヨーロッパの菓子作りに様々な影響を与える事となった。 小麦の育たない寒冷地でも栽培できる穀物、ソバも十字軍によってヨーロッパにもたらされたもので、フランスではサラザンと言われている。中世においてアラブ諸民族を指すサラセンに由来した名だと考えられており、現代でもクレープなど様々な菓子に利用されている。また、フランス南西部に伝わる「パスティス」とモロッコに伝わる「パスティリャ」や、オーストリアの「シュツルーデル」とトルコの「バクラヴァ」の形の類似などから、広い範囲での交流があったとも考えられている。
食文化の暗黒期とも言われていた中世だが、ローマ時代に基本がほぼ完成していた各種の焼き菓子には、砂糖やリキュールなどによる更なる工夫の素地が用意された時代でもある。さらにインド原産のオレンジやレモン、中国原産のアプリコットなどがイスラム世界を経由して、さらに十字軍により運ばれ、砂糖の広まりとともに砂糖漬けにされた果実が、食後のデザートとして用いられるようになり、糖菓としての確立につながる事となる。そして、ブドウ酒や果実のジュースを入れた容器を塩を混ぜた雪や氷の中で撹拌するといった、現代にも通じる氷菓の製造法も伝来し、アラビア語で飲むを意味する「シャバリ」が語源と言われる、フランスの「ソルベ」、英語の「シャーベット」といった氷菓もイタリアなどで作られはじめた。
現代欧風菓子の、小麦粉などの焼き菓子を主体としたパティスリー(Patisserie)、糖質が主体となった糖菓であるコンフィズリー(Confiserie)と氷菓であるグラス(Glace)といった大別は、中世の十字軍の東方遠征により図らずも育まれた文化交流によって成立していったとも考えられている。
一方、レコンキスタにより1492年、イベリア半島はイスラム支配を脱し、ヨーロッパの他の王朝に先駆けて強力な王権を獲得したスペインとポルトガルは、民族主義意識の高まりを背景にイスラーム勢力の駆逐と領土拡張に乗り出す事となった。新航路の発見は領土と交易品をもたらし、ひいては莫大な富をもたらす。さらに、15世紀にかけてイスラム王朝の一つであったオスマン朝が帝国として台頭、地中海貿易をほぼ掌握したオスマン帝国による貿易関税への不満も加わり、ヨーロッパの各国が外洋へと走り出す、大航海時代となっていった。大西洋を渡り、西インド諸島はヨーロッパ諸国の一大サトウキビ生産地となり、貴重な輸入品であった砂糖をヨーロッパ人自ら精製し手にする事になった。そして、スペインによりチョコレートがヨーロッパにもたらされたのもこの時代であった。
18世紀に始まった産業革命にともない、精糖産業にも変革が訪れる。16世紀に寒冷地でも栽培できる甜菜(サトウダイコン)からも砂糖が精製できる事が発見されていたが、サトウキビを越えて広まる事はなかった。だが、1806年イギリスを封じ込めヨーロッパの経済支配を狙ったナポレオンの大陸封鎖令により砂糖が入手できなくなった事から、甜菜の栽培による砂糖生産が奨励される事になる。19世紀中頃に生産が軌道に乗り精糖産業の工業化が進んだ。この事は様々なコンフィズリーは元より、ビスケットやチョコレートなどの普及へと繋がり、ローマの昔から富裕層や特権階級の享受するものだった甘い菓子が、ヨーロッパ中に豊富に出回りはじめるきっかけとなった。
パティスリーそしてコンフィズリーの普及と完成を助けた産業革命だが、氷菓やアイスクリームこそ産業革命の申し子と言える菓子であった。1867年ドイツで製氷器が発明され、アイスクリーム製造の機械化は一気に進んだ。アメリカでは企業で量産されるようになり、後にアメリカの国民食と言われるほどの普及を見る。以降、グラス(氷菓)は、デザートやアントルメとしてのヨーロッパ式と、量産システムによるスナックとしてのアメリカ式の二つの傾向に別れて発展する事になった。
現代、世界で菓子として認識されている食品を、中国の食において一括りにするのは難しい。中国の食は、食事をするといった意である「吃飯」と、軽食をとると言った意味合いの「吃点心」に大別できる。吃点心の中でも、粉を練って作った皮で餡を包み込んだものを点心と言い、さらに甘味のものを甜点心としており、「月餅」や小豆餡の饅頭である「豆沙包子」などが良く知られている。同じく吃点心の中で、果物を意味する果子があり、果物の砂糖漬けや、果汁で作った糖菓子などはこれに含まれる。「杏仁豆腐」は本来は「吃飯」の菜で宴席料理の甜湯であるが、少量を供した場合は小食として吃点心としても扱われる。アイスクリームや氷菓は食では無く、飲に属し喝の冷飲として扱われている。
黄河文明期、紀元前3000年頃の仰韶文化期において石臼や杵が使用されており、穀類を砕き加工し調理する技術は中国でも古代から知られていた。だが、粉食が中国食文化に浸透しはじめたのは、前漢武帝の時代、匈奴を挟撃するべく大月氏に使者として送られた張騫が、紀元前126年に小麦とその製粉技術を持ち帰ってからとされている。北魏の末、500年頃の著作『斉民要術』には、粉食としての点心が詳細に記述されており、小麦を加工した「餅(ピン)」などの記述も見られるが、当時の製粉技術は石臼と杵であり、7世紀初頭から10世紀初頭に栄えた唐の時代、水車を使った大規模な製粉技術がもたらされて後、中国食文化が本格的に粉食主体となったと考えられている。さらに、唐時代はイスラム帝国が勃興する時代と重なっており、世界交易の拠点でもあった長安にはペルシア人も頻繁に訪れた。長安の都にはドーナッツのような揚げ物である「環餅」や「油餅」などを売る店が並び、ペルシア風の食べ物「胡食」が流行した。精糖技術も伝わり甜点心は更に発展した。茶を飲み点心・小食を食べるいわゆる飲茶という食習慣が全国に普及したのも唐の時代と考えられている。以降、元代には蒙古族の食習慣が取り入れられ、乳や酪といった素材を用いた甜点心が作られた。清代には1840年のアヘン戦争に前後してヨーロッパの菓子も流入した。ビスケットは「餅乾」として普及し、ケーキは欧風菓子を意味する「西式点心」として区分されていた。
続いて、室町時代から安土桃山時代にかけて茶道の隆盛に伴い、点心としての菓子が求められはじめた。中国では肉類を用いて作られている羊羹や饅頭がもたらされたが、日本では仏教の影響下、肉類ではなく小豆や豆類など植物性の素材に置き換えて作られるようになった。これが後に、和菓子の方向性を決定したとも考えられている。
一方、足利時代末から鎖国令までの間、世界は大航海時代の中にあり、南蛮菓子の輸入時代ともなっていた。カステラ、ボーロ、金平糖、カルメラなど、日本独自の製法が工夫され和菓子として発展した菓子もある。
茶道と伴に発達した点心は京都でさらに発展し、練り羊羹や餅菓子、半生菓子から打物の干菓子まで、工芸的趣向をこらしたものになり京菓子として隆盛を極めた。だが、江戸時代も後期になると京菓子に対抗して江戸文化により育まれた上菓子が隆盛を見せる。また、白砂糖は上菓子のみに用いるといった制限を逆手にとり、駄菓子と言われる黒砂糖を用いた雑菓子類も大きく発展した。
明治維新により鎖国令が解かれると海外から、ドロップ、キャンディ、チョコレート、ビスケットなどが輸入されるようになり、日本の菓子は革命とも言える大転機を迎える事になった。大航海時代時代からの経済発展により完成の域に達したフランス菓子などが伝えられる一方で、産業革命により機械化効率化した菓子製造法まで一気に伝来し、日本の「洋菓子」として幅広い発展を見る事となった。
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