織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日(1534年6月23日) - 天正10年6月2日(1582年6月21日))は、戦国時代に活躍した武将。
尾張の戦国大名である。織田信秀の嫡子として生まれ、長じて同母弟の信勝(信行とも)との家督争い、周辺の今川氏や斎藤氏との戦いに勝利し、足利義昭を奉じて上洛を果たす。その後、義昭により武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺などから成る反信長包囲網が結成されるもこれを破り、以後は天下布武を進め、楽市楽座、検地などの政策を取るが、本能寺の変で家臣の明智光秀に襲われ自害した。
既存の権威や勢力の否定、家柄門地によらない人材登用、新兵器の活用などを通して、戦国時代を終結に導いたが、延暦寺焼き討ちなどの苛烈な政策は恐れられ、魔王(第六天魔王)とも呼ばれた。
生涯
大うつけ
尾張国の
戦国大名である
織田信秀の三男として、
1534年(
天文3)、尾張勝幡城(那古野城説もある)に生まれる。母
土田御前が正室なるを以って嫡子となり、2歳にして那古屋城主となるが、幼少から青年時には奇矯な行動が多く周囲から
尾張の大うつけと称されていた。
鉄砲伝来により日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。
まだ世子であった頃、表面的には家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の清洲織田家の支配する清洲城下にたったの数騎で火を放つなど、父の信秀も寝耳に水の行動をとり、若き頃からの鬼才にして豪胆さを見せていた。また、三河の戸田康光が今川から織田に寝返った折、敵方の人質として護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期をともに過ごし、両者は後に堅い盟約関係を結ぶこととなる。
1546年(天文15)、古渡城にて元服し織田上総介(織田信長)と称し、父信秀が没すると家督を継承したが、その葬儀では祭壇に抹香を投げつける(抹香を投付けた事に関しては後年の創作とする説もある)。1553年には宿老の平手政秀が、自らの死をもって信長を諌めようと切腹。信長は嘆き、沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。
1548年には父信秀の代に激しく争った宿敵美濃国斎藤道三と和睦し、道三の娘帰蝶と結婚した。その後信長は聖徳寺で道三と会見。その際に道三はうつけ者として悪名の高かった信長の真の器量を見抜いたとの話がある。
しかし1556年(弘治2)4月、義父の斎藤道三がその嫡男である義龍との戦に敗れて死去する。信長も道三への援軍を出したが、間に合わなかったと言われている。
織田一族、骨肉の争い
同年8月24日、謀反を起こした同母弟の
信行、
林秀貞、
林美作守、
柴田勝家らを破り(稲生の戦い)、末盛城に篭もった信行を包囲するが、生母の
土田御前の仲介により赦免する。しかし、信行は翌年に再び謀反を企て、勝家の密告によりこれを知った信長は、病気と偽り信行を清洲城に呼び入れ暗殺する。
当時、尾張国は守護職の斯波氏の権威が衰えており、織田氏も未統一で三河国の松平氏、水野氏などや駿河国の今川氏が国境線をうかがう状態であった。信長の家は、親子3代にわたって尾張下四郡守護代である織田大和守家(信長の代に於ける当主は織田信友)を名目的には主君としてきた。
しかし信友は、信長一族が庶家であり家臣とはいいながら、主家を圧倒する勢力を持っていることから、警戒しこれを滅ぼさんと画策していた。ところが、日ごろ守護代の権威維持のために傀儡化されていた尾張守護斯波義統との不仲が一層進み、信友が信長暗殺を企てると、義統はこれを信長に密告。主家として一定の不可侵を保ってきた信友も信長に攻撃される口実を与えることとなってしまった。これに腹を立てた信友は義統の子斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙を縫って義統を殺害した。
義銀とその一族(弟には後の毛利秀頼、津川義冬など)が信長を頼って落ち延びてくると、信長は長年、当家の目の上の瘤であった清洲織田家を守護を殺害した謀反人として追討することに成功。信長の叔父で守山城主の織田信光によって信友は討たれ、ここに長年、主家であり本家であった清洲織田家は滅んだ。これにより庶家であった信長一党が織田家の頭領となった。
さらに、信長は同族の犬山城主織田信清らを従え、旧主清洲織田家の宿敵で織田一門の宗家であった上四郡守護代織田信安を合戦で破り(浮野の戦い)、追放した。1559年には尾張国内の支配権を確立する事となった。
守護大名・斯波氏の追放
信長は宗家追討の傀儡であった
斯波義銀に「近隣の諸大名との講和のため」として、名目的に斯波氏と三河守護
吉良氏と駿河守護の
今川氏との間で同盟を結ばせる。しばらくの間、平穏な状況が続いたが、守護の斯波義銀が斯波一族の
石橋氏と、同じ足利一門にあたる
吉良氏と通じ信長追討を画策して、発覚。斯波氏の宗家にあたる
足利将軍家の住まう京都に義銀を追放する。
かくして斯波氏・清洲織田家の存在がなくなった尾張国は名実ともに信長が手中に入れることとなった。(『信長公記』貴種有毒 吉良・石橋・武衛三人御国追出しの事に詳しい。)
桶狭間の戦い
尾張統一を果たした翌年の
1560年(
永禄3)、
足利将軍家の庶流で
吉良氏の一族にあたる駿河守護の
今川義元が二万とも四万ともいう大軍を率いて尾張へ侵攻、三河の
松平氏を先鋒に織田方の城砦を陥落させていった。
織田家衰亡の危機に、信長は家臣が右往左往する中、静寂を保ち、深夜に思い立って幸若舞『敦盛』を舞った後、たったの数騎で熱田神宮に参拝。後からつき従ってきた家臣をひっさげ、2千の軍勢で戦勝に溺れる今川軍の陣中に強襲をかけた(桶狭間の戦い)。馬廻の服部小平太と毛利新助によって今川義元はあえなく討ち死にを遂げ、今川軍は領国駿河に潰走していった。こうして信長は天下に名を轟かせた。信長、26才の時である。
桶狭間の戦いの後、1562年には今川家の支配から独立した三河国の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と清洲同盟(=織徳同盟)を結んで背後を固めた。
美濃攻略
その後は
美濃国の
斎藤龍興攻略に専念。1564年には北近江の
浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強めた。その際信長は妹の
お市を輿入れさせている。
1566年には攻めあぐねていた墨俣において木下藤吉郎(羽柴秀吉)に命じて墨俣城(いわゆる一夜城)を築かせ、そこを拠点としたと言われる。(墨俣城の実態については諸説あり、実在を疑う論もある。)
さらに西美濃三人衆(稲葉、氏家、安藤、の各氏及び竹中氏などの縁者、他にも蜂須賀氏、前野氏、金森氏など)を味方につけた信長は、ついに斎藤龍興を敗走させ、1567年(永禄10)美濃国を手に入れた。こうして尾張・美濃の2カ国を領する大名になったとき、信長は33才であった。
「美濃を制するものは天下を制する」と言わしめた同国を手中にした信長は長く美濃国の旧主であった土岐氏・斎藤氏の拠点、井ノ口を中国周朝が岐山より立ち、前朝を倒して天下を制した故事にちなんで地名を岐阜と改めた。このころから『天下布武』の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。美濃国と国境を隣りあわせとする甲斐信濃の大名武田信玄に対しては、嫡男の信忠との婚姻関係を模索し、友好関係を保つ姿勢だった。
上洛
1565年かねて京都を中心に畿内をほしいままにしていた
管領細川氏の執事三好氏の有力武将である
三好三人衆と
松永久秀は、十四代将軍として傀儡の
足利義栄を奉じ、幕府権力強化に務めて何かと三好氏と対立を深めていた十三代将軍・
足利義輝を討った。その弟
足利義昭も命を狙われ、その後は
越前国の
朝倉氏に身を寄せていた。しかし、当主の
朝倉義景が三好氏追討の動きを見せないと知ると、1568年7月にはしびれをきらして美濃の信長へ接近を図ってきた。同年9月信長は天下布武への大義名分として十五代将軍に
足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。
1568年9月、義昭に服しない近江国の六角義賢率いる六角氏一党を攻め立てて追放した。その後京を牛耳っていた三好義継や松永久秀は信長に従属。三好三人衆は阿波国へ逃亡。こうして信長は電撃的に上洛を果たしたのである。
そして、義昭を15代征夷大将軍に擁立すると、信長は将軍権力に制限をかけて信長の意向により天下への号令を行う。上杉謙信など、親幕府の勢力はこれによく応えた。しかし、程なくして信長は「殿中掟五箇条」の遵守強要など義昭の傀儡化を図る様になる。やがて、足利義昭と信長の対立は決定的なものになっていく。
上洛と共に堺に二万貫の矢銭と、織田家の服属を要求。堺会合衆は三好三人衆を頼りに信長に抵抗するが、1569年に三人衆が撃退されると信長に降伏した。
また1567年あたりから伊勢国にも侵攻した。1568年には神戸氏を屈服させ、息子の信孝を神戸氏の跡継ぎとさせた。1569年には伊勢国司北畠氏攻略を果たし、息子の信雄を北畠の跡継ぎとした。伊勢の有力氏族に息子を送り込む事によって、信長は伊勢国の大半を手に入れる事に成功している。
信長包囲網
1570年4月、三河国の盟友
徳川家康と共に、以前より対立していた越前国の
朝倉義景攻略の軍を起こす。織田徳川軍は朝倉の城を次々と落としていくが、金ヶ崎へ進軍したあたりで突然北近江の盟友
浅井長政に裏切られ、織田徳川軍は背後を突かれる形となった。突然の窮地に追い込まれた信長だが、
しんがりを務めた
木下秀吉(藤吉郎より改め)、
徳川家康らの奮闘(金ヶ崎の退き口)もあり、なんとか京に逃れている。
足利将軍家を継ぎ、室町幕府再興を図った足利義昭は信長の傀儡の実態に我慢ならず、間もなく武田信玄・朝倉義景・浅井長政・三好三人衆などの大名や延暦寺・石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成した。その後信長に従属していた三好義継・松永久秀なども包囲網に呼応して反旗を翻している。
1570年(元亀元)6月、近江国姉川河原で徳川家康と共に浅井・朝倉連合軍と戦う(姉川の戦い)。浅井方の先鋒磯野員昌に15段の備えの内13段まで破られるなど苦戦するが、徳川家康や美濃三人衆の奮戦もあり、浅井・朝倉軍を破った。その後の近江坂本の戦いでは浅井・朝倉・延暦寺連合軍に苦杯を喫し、織田信治、森可成を討ち取られてしまう。
だが1571年9月には延暦寺を焼き討ち、高僧女子供まで4000人を皆殺しにするなどして対抗した。この焼き討ちについて武田信玄は「信長は天魔の変化である」と非難し、公家の山科言継も「仏法の破滅。論評できない。天皇を敬う王法はどうなるのだろうか」と嘆いている。
1572年(元亀3)、足利義昭に呼応した甲斐国(山梨県)の武田信玄は上洛を決意し(異説あり)、2万7000の兵をもって徳川家領内に侵入。北近江で浅井長政・朝倉義景と対峙中であった信長は、この報を聞くと軍を木下秀吉に任せ岐阜に退却。その後徳川家康から援軍依頼を受けるが、北近江の浅井・朝倉に兵を裂いている信長は兵力に余裕がなく、3000の兵を出すに留まった。武田軍は、織田・徳川連合軍を三方原の戦いで一方的に破り、その後も徳川領への進軍を続けた。
が、この年の冬、朝倉義景が北近江の戦場からいきなり離脱した為、信長は北近江に縛り付けられていた兵を引き上げる事に成功。もともと織田軍より兵力面では劣勢で、朝倉義景の北近江派兵を計算に入れた上で家康・そして信長との対決に挑もうとしていた信玄の動きは鈍った。その後信玄は、義景へ書状を送り再挙兵を促しつつ、ゆっくりと徳川領内への進軍を続けるが、1573年5月に志半ばで病死。武田軍は甲斐に撤退し、信長包囲網が破綻した。
これにより勢いを得た信長は、同年7月、二度にわたって挙兵し、信長に反抗していた足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした。8月に朝倉義景の軍をさんざんに打ち破りそのまま滅亡させると(一乗谷城の戦い)、返す刀で浅井長政を9月に攻め滅ぼした。この時長政に嫁いでいた妹のお市の方を引き取っている。さらに三好三人衆を討ち果たし、11月には佐久間信盛の軍勢が河内の三好義継を自刃に追い込んでいる。その後松永久秀を降伏させている。武田信玄の病死からわずか半年足らずで、信長包囲網に加わっていた大名の大半は信長に滅ぼされた。
一向衆への苛烈な攻撃
1574年(
天正2年)には
伊勢長島一向衆を水陸から完全に包囲して兵糧攻めに追い込む。この戦いは激戦となり織田信長も鉄砲に撃たれ負傷するほどであったが、最後には一向衆を降伏勧告に応じさせた。しかし信長は一揆衆に対し降伏を許した振りをして、素直に一揆衆が投降してきた所を騙し討ちにし焼き殺し、結果20000人の人間が死亡した。一揆衆には交戦能力を持たない女子供や老人が多数含まれていたという。なぜ信長がこのような行動に出たのかというと、長島一揆衆との戦いで信長が信頼する織田一族や家臣達が多数敗死したために、信長が一揆衆に対して感情的になっていたとの説が有力である。この殺戮劇によって信長は長島一向衆の息の根を止める事に成功した。
- 長篠の戦い
1575年(天正3)、信玄の後継者であった
武田勝頼は、自分を裏切り
徳川家康についた
奥平信昌に対し激怒。1万5000の軍勢をもって信昌の居城
長篠城に攻め寄せた。信長は家康の救援依頼に応じ、援軍として駆けつけた。織田軍3万+徳川軍5000の連合軍は、武田軍1万5000を完膚なきまでに叩きのめした(
長篠の戦い)。この戦いで武田軍は1万を超えるとも言われる膨大な戦死者を出した。信長は鉄砲隊を三つに分け、鉄砲の弾込めによるタイムロスをなくす三段撃ち戦法を使ったと言われているが、この戦法が実際使われたかどうかには諸説があるようだ。またこの戦いでわずかな手勢で武田の大軍から
長篠城を防衛した
奥平信昌は、信長から一字を拝領している。
さらに同年、信長は柴田勝家を総大将とした軍勢を越前に派遣し、朝倉氏滅亡後に越前で起こった一向一揆軍を破りこれを大量虐殺した。織田軍に殺された死者は老若男女を問わず、数万人規模にまで及んだという。このとき、信長は村井貞勝に対して、越前府中の凄惨な有様を書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候。見せたく候。」と書き記している。このとき従軍した前田利家の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり、そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり。御成敗は、はっつけ、釜煎られ、あぶられ候。かくのごとくに候。一筆書きとめ候。」
- 安土城築城
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1576年(天正4)、
近江国琵琶湖々岸に
安土城の造成を開始。1579年には五層七重の豪華絢爛な城が完成した。天主内部は
吹き抜け構造となっていたと言われている。イエスズ会の宣教師は「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長はかつての居城
岐阜城を嫡子信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はこの城を拠点に
天下一統(近年、俗に天下統一とも言う)事業に邁進する事になる。
1576年、石山本願寺が挙兵。一時押されるものの、信長はわずか3000の兵で敵方15000を破り(天王寺合戦)、その後完全に石山御坊を包囲した。そして石山への兵糧補給の為に援軍として訪れた毛利水軍と木津川河口で海戦を行う(木津川の戦い)が、織田水軍は火攻めに苦しみ完敗。信長は石山から兵を引く羽目になってしまった。だが1578年に行われた二度目の海戦では、九鬼嘉隆に命じさせ作らせた火の燃え広がらない鉄鋼船を用い、毛利水軍との海戦に完勝している。
方面軍団長の活躍
1577年に
紀伊国を攻め、
鈴木孫市ら
雑賀衆を降伏させている。同年、家臣の
羽柴秀吉に中国地方の攻略を開始させた。信長は秀吉以外にも各地に軍団長を置いている。
同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が、このときの織田家には備わっていたのである。
やがて友好関係にあった上杉謙信と能登などの領有について対立を深めた。信玄没後に最強の敵となっていた上杉謙信は手取川の戦いで柴田勝家軍団を大敗せしめ、それを契機に松永久秀が大和で再度反旗を翻すなど、再び危機に見舞われたが、信長は即座に大和に軍勢を派遣して久秀を討った。上杉謙信は1578年(天正6年)3月に上洛を計画中に病死する。
1579年(天正7年)には、羽柴秀吉軍団によって備前・宇喜多直家が服属。明智光秀軍団によって丹波国の波多野秀治も下した。ただ光秀が苦心して投降させた波多野秀治を、信長が処刑してしまった事で禍根が残った。一説によると信長のこの処遇で、波多野方に人質として預けていた光秀の母が殺害されたとの話もある。
伊勢国の出城構築を伊賀国国人に妨害された事に立腹した伊勢国主北畠信雄は、独断で伊賀国に侵攻。しかし痛烈な反撃を食らい敗北。信長はわが子信雄の暴走を厳しく叱責すると共に、伊賀国人への敵意をも募らせていく様になる。(第一次天正伊賀の乱)。
この年に畿内の別所長治や荒木村重が謀反を起こすもその後鎮圧している。
またこの年、盟友家康の嫡男徳川信康と、信康の母であり家康の妻である築山殿に自害を命じている。
この二つが理由とされているが、本当に乱行や内通があったのかはよく分かっていない。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれ激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康はこの二人の命を絶つことにした。
1580年(天正8年)、信長にとって長く懸案だった石山本願寺・顕如に対して、4月に正親町天皇の勅命のもとに有利な条件で和睦して、大坂から退去させた。同年8月には、佐久間信盛・林秀貞・安藤守就・丹羽氏勝ら重臣を唐突に追放している。
1581年(天正9年)には、羽柴秀吉軍団によって毛利輝元方の因幡・鳥取城が陥落、その後秀吉軍は備中国に攻め入っている。
この年、信雄を総大将に任じ、6万の軍勢をもって伊賀国への侵攻を再び開始。伊賀者であれば女子供であろうが容赦なく殺害する根絶やし作戦で、1万人を超える人間が犠牲となった。伊賀国からは人が消え、物が消え、すべてが壊滅した。こうして伊賀国は織田家の物となった。(第二次天正伊賀の乱)
武田家滅亡
1582年(天正10年)3月、織田信忠軍団は、武田領に侵攻、
信濃国、
駿河国を落としたあと、
武田勝頼を
甲斐国天目山に追って自害させ
武田氏を滅ぼした。甲斐武田氏滅亡後に信長は、武田に属していた者は例え恭順の遺志を示そうと容赦なく一族まとめて根絶やしにせよ、とするいわゆる「武田狩り」を命じた。信長の命令にどうしても承服しがたいものがあった
徳川家康や一部の織田重臣は、命がけで武田遺臣を匿った。江戸時代以後も存族した武田ゆかりの者のほとんどは、この時の「武田狩り」からかくまわれた遺臣の末裔である。俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、
明智光秀が「ここまで来れて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたとも言われている。
柴田勝家軍団は、上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝に対して、能登・越中をほぼ奪うまでに追いつめている。
さらに四国の長宗我部元親攻略に、息子の神戸信孝・重臣の丹羽長秀の軍団を派遣する準備を進めていた。この時、四国攻めを任ぜられなかった明智光秀が、「自分は干されている。林や佐久間のようになるのではないか」と不安感を持った、とする説がある。また光秀は以前に長宗我部元親とのとりなしを信長に命じられ、配下の斎藤利三の娘を元親と婚姻させるなど関係改善に奔走しており、武力討伐という方向転換で、光秀は面目が潰され屈辱を感じた、とする説もある。
景勝、勝頼と対立する240万石の大勢力である北条氏政に対しては、滝川一益を上野に、河尻秀隆を甲斐に、森長可を信濃に置き北条方への抑えとしつつも、かつての信玄や謙信に対したのと同じ平和外交に徹し、同盟関係を保っていた。
本能寺の変
1582年5月15日、
駿河国加増の礼の為に
徳川家康が安土城に訪れた。そこで信長は
明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日まで渡って家康を手厚くもてなした。
家康接待が続いている最中に、信長は備中高松城攻めを行っている最中の羽柴秀吉の使者より援軍依頼を受けた。「毛利方が大軍を率い、高松城への救援に向かう動きがある」との事であった。
信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。『明智軍記』によると、光秀の接待内容に不満を覚えた信長が、小姓の森蘭丸に光秀の頭をはたかせた、と記されている。
信長は5月29日に毛利遠征の出兵準備の為に上洛し、その後は本能寺(京都市)に逗留していた。だが秀吉への援軍を命じていたはずの明智光秀軍が突然京に現れ、本能寺を急襲。信長は6月2日に自害した(本能寺の変)。しかし信長の死体は見つからなかったと言われている。
年表
人物
- 西洋伝来の物を好み、正親町天皇を招いて開催された『馬揃え』にビロードのマントや西洋式の帽子を着用して参加した。晩年は戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けることが常だったと言われている。ヴァリニャーノの使用人であった黒人に強い興味を示し、身元を譲り受け彌介(やすけ)と名付け側近にしている。イエズス会の献上した地球儀、時計、地図などをよく理解したと言われる(当時はまだこの世界が丸い地球という物体であることを知っている日本人はいなかったと言われ、地球儀が献上された際も家臣の誰もがその説明を理解出来なかったが、信長だけは「理にかなっている」と言って即座に理解したという)。好奇心が強く、鉄砲があまり一般的でない頃から火縄銃を用いていたことは有名。苛烈な性格で知られる信長であるが、ルイス・フロイスには普通の人物に見えたようだ。
- 青年の頃は女性とみまがう美男子であった。他の戦国武将と同様に男色も嗜み、小姓の前田利家、堀秀政、後には森蘭丸ら多くの稚児と関係を持ったと伝わる。また、側室は権力の強大さにくらべて少ないが数多くの子をなしている。
- 囲碁、幸若舞を好み、猿楽(能)を嫌った。『敦盛』の一節「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか」という部分は、信長の人生観と合致していたのか、特に信長のお気に入りで、よく舞ったと言われている。大の相撲好きで、安土城などで大規模な上覧相撲をたびたび開催した。水泳、鷹狩、馬術、弓道などの身体鍛錬、武術鍛錬に繋がるものを趣味としていた。
- 肖像画
- 愛知県豊田市の長興寺にある。このほかヨーロッパから来た画家によって写実的な肖像画が描かれていた(天童市三宝寺蔵)が、第二次世界大戦時の空襲により消失した。現存する写真によれば、太く力強い眉毛、大きく鋭い目、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、男らしくたくわえられたヒゲなど、現代想像される信長像に近いものがある。
政策
天下布武
- 訓読すれば「天(あめ)の下、武を布(し)く」となる。「武力を持って天下を取る」という風に解釈されることが多いが、近年の研究では「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に取ることが多い。上述のように信長は居所を岐阜と改名した頃からこの印を用いているが、岐阜の命名は中国の周の文王(ぶんおう)が岐山(きざん)に拠って天下を臨んだことにちなんでおり(阜は丘の意味)、その志が窺われる。
- 日本の中世では権力として、公家と寺家、武家が複雑に絡み合っており、信長の志した天下布武とは、その公家、寺家を廃して本格的な武家政権を作るという意味をもっていたと考えられる。その実現のために寺家対策として、一向一揆を叩き、本願寺の顕如らを石山合戦で破ったのである。また、室町幕府は京都にあるという地理的条件からも公家との結びつきが強く、そのために足利義昭を追放したと考えることも出来る。
宗教政策
- 宗門は法華宗を公称していたが、一向一揆や延暦寺に対する苛烈な攻撃や、安土城の石垣に地蔵仏や墓石を用いたこと、ルイス・フロイスの記載などから唯物論的思考法を身に付け、神仏の存在や霊魂の不滅を信じることはなかったとも言われている。
- また一方では安土城天主内の天井、壁画に仏教、道教、儒教を題材とした絵画を使用したり、浄土真宗や延暦寺の宗教活動自体は禁止しなかったことからも、宗教自体を否定しているのではなく天下布武事業の一環として、既存の宗教との政教分離や政治上の宗教の統一を考えていた可能性もある。
- 安土城内に信長に代わる『梵山』と称する大石を安置して御神体とし、家臣や領民に礼拝を強要したと伝えられる(→ルイス・フロイスの『日本史』)。
- これに関しては「入城に際して検問を行い、入城の代金を徴収していたことが、宣教師の目には寺社の賽銭のように見えただけである」とする意見もある。
朝廷政策
- 信長は天正6年(1578年)4月、右大臣を辞した後、朝廷の官職に就こうとはしなかった。この前月には信長を恐れさせた最後の強敵・上杉謙信が49歳で死去している。謙信が死去した後、京を窺う地方に信長と互角に戦える勢力はなくなった。石山本願寺もすでに戦力を失いかけており、武田氏や毛利氏、大友氏にも往年のような力はない。関東240万石の後北条氏と同盟関係に入り、当主の氏直に室を送る動きを起こしていた。これは信長が、すでに朝廷の力を借りることが必要なくなったと考えたためとの考えもある。
- 信長は朝廷に対しては金を出すが、口も出すという施策を採った。自分の言いなり、つまりは傀儡になるような天皇の擁立を望んでいたようで、天正元年から、正親町天皇に対して譲位を要求していた。正親町天皇は老練な天皇であり、決して信長の言いなりとなるような人物ではなかったからである。当時は信長も各地に強敵がいたため、天皇が拒否するとあっさりと引き下がった。天正9年の京都御馬揃えは、織田軍の力を見せ付ける軍事行進であったと同時に、正親町天皇に対する威圧でもあったと言われている。(ただし軍事的なものではないと主張する人もいる)
- これに対して天皇は、信長に対して征夷大将軍・太政大臣・関白のいずれかを与えるという条件を出すことで妥協しようとした。しかし信長は朝廷から官位を受けなかった(もっとも、この条件提示は本能寺の変直前であったため、返答できなかったという考えもある)。謙信が死去したことですでに恐れるべき敵もいない信長は、朝廷の力を借りずに天下布武を実現しようとしていたとの考えもある。このため、本能寺の変に朝廷関与説を主張する者もいるのである。
商業政策
商工業者に
楽市・楽座の朱印状をあたえ、不必要な
関所を撤廃して経済と流通を活性化させるとともに、
検地を徹底して領国支配を確立し、家臣を城下に居住させて常備軍を編成した。ただ、すべての座をなくさせたわけではない。これはそんなことをすると当時の流通が麻痺するからである。したがって楽座にできるところは楽座に、京都のように座がちからを持っているところは座を利用した。
人事政策
能力主義を重視して、
足軽出身の
木下藤吉郎、浪人になっていた
明智光秀、
滝川一益などを登用する一方で、譜代の
重臣佐久間信盛や
林秀貞らを追放した。佐久間や林にはそれなりの実績があったが、同様の譜代家臣ながら北陸方面軍の指揮官として活躍する勝家などと比すと物足りないものがあった。重臣として織田家に居座りつつ、活躍以上の利権を自己主張する佐久間や林に対し、懲罰的粛清を断行したと見る向きもある。
現代の日本は「終身雇用制」から「能力主義」へと移行しつつあるが、信長は400年以上も前に、もう同じ事をやってのけていたとも言える。ただ当時としては革新的に過ぎて、周りが信長の思考を理解できなかった可能性も否定はできない。
当時流行した茶の湯を家臣団掌握の手段など、政治的に活用し、一国に値する程の価値があった『名器と称される茶道具』を領地、金銭に代わる恩賞として与えたりもした。恩賞と領地加増の関係については、どの大名にとっても多かれ少なかれ頭の痛い問題であったのだが、信長はそれをうまく改善してのけたと言える。当時関東に領地を持っていた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号と上野一国の加増でガッカリしたという逸話さえある。信長が茶の湯に対する権威付けを以前からしっかり行っていたからこそ、家臣もそれに高い価値を見出す事ができたのである。
評価
対人評価
- 信長は、人間を巨視的に捉えた社会を指導する技量には優れていたが、ごく周囲の人間の理解を得ようとする努力には関心が無かったらしい。周りに自らの政治姿勢を理解させる努力が信長に足りなかったと言えるかもしれない。
- 他の大名に対する偵察もしっかり行っており、上杉謙信、武田信玄は最大の脅威と認めていたようで、贈り物をするなどして友好関係を築こうとしていた。実際上杉謙信、武田信玄との戦には一度ではあるが敗れている。もし信長が謙信、信玄と同世代ならば天下統一へは進めなかったとも、仮に謙信、信玄のどちらかしかいなければどちらかが天下統一をしていただろうともいわれている。
- 本能寺の変が起きた原因については、軍事・政治両面においても当時において前代未聞のことを行い、また延暦寺の焼き討ち・幕府を滅亡させるなど、当時では大悪人といってもいいことをも行っていた信長は、常識人の明智光秀からすると規格外すぎてついていけなかったのではないかという説がある。
- 信長を実際に裏切った者の多くは信長が上洛してからの、いわば外様の家臣が大半であり、尾張・美濃時代から仕えていた譜代の家臣の中で、信長を裏切った者はほとんど見受けられないという側面もある。
- 1580年、信長は老臣である林秀貞を「25年前に自分に逆らい弟の信行についた」、佐久間信盛を「大して成果を出していない」という理由で追放。信長の家臣全員に大きな衝撃を与えた。秀貞の件はただの言いがかりでしかない。信盛の件も攻略目標が堅城で名高い石山本願寺であり、信盛の軍団だけではいかんともしがたいものがあった。(ただ、信盛にも何も落ち度がないわけでもなかった。)美濃三人衆のひとりとして信長の美濃統一に貢献した安藤守就は、武田氏への内通と言いがかりをつけられ追放、丹羽氏勝は秀貞と同じく25年前の逆心や、武田家への内通疑惑を理由に追放された。老臣重臣が唐突に追放されていくのを目の当たりにし「次は自分の番では」と織田家臣団は疑心暗鬼に陥った。丹波近江領の突然の召し上げという理不尽な沙汰を下された光秀が、「次は自分だ」と切羽詰った上で謀反に及んだという説も根強い。
- 信長存命中に彼の側近の中に軍師・参謀的な人物は全く見受けられず、信長の命令を遂行するために必要な堀秀政、森蘭丸というような優秀な秘書官だけが登用されたという例がある。竹中半兵衛や黒田如水らは、信長存命中は名目上は信長の家臣だったが、実際には秀吉の軍師として仕えていたのが、その証左といえる。半兵衛自身は信長を性格的に嫌っていたようだが、如水の場合は信長の実力を高く認めながらも、信長に仕えても軍師として活躍の場が与えられないとして、あえてその下で台頭していた秀吉を選んだのだとされているのが有力である。ここまで成功・改革した人物にそういったものがいないケースはそう多くない。だが信長自身が他人の意見に従う事を好まない独裁者であったことが、周囲の人物が信長の意図を読み取れずについていけなくなっていった要因のひとつであるともいわれている。ただ急速に改革を遂行したい時には独裁者方式は有効な手法であり、意見の分かれるところでもある。
戦略に対する評価
- 信長は、新しい体制を導入し古い体制を打破して数々の改革を行った点で、中世から近世への移行を推進した人物であったことは間違いない。特に、古い体制の欠陥に着目する能力、それを改める能力については群を抜いていると評価する声が多い。このような視点に立つ者は、治世に優れた戦国大名と評されることの多い武田信玄を、あくまで中世の枠における優れた人物であるとし、鉄砲戦術、鉄甲船、人材登用、そして楽市楽座令などの施策を行った信長を、中世の枠を超えた人物であると評価する声もある。
- 信長は戦略としては入念な準備を行い相手の力をそぎ、その上で相手よりも多くの兵によって戦うといったどちらかと言うと慎重な手段を用いることが多く、一種のかけとも言える少ない兵で大軍を破るといった策はあまり取らなかった。特に信長がその存在を恐れた武田信玄・上杉謙信の両名には自分から積極的には兵を出さず慎重に対応していたが、結局両名とも年齢によるところもあり没してしまったので結果的にはこの対応は正解だったといえる。しかし、時には敵の意表をつき寡兵で敵を破るなど臨機応変に変えていったようである。
- 信長は戦略家としてだけではなく、個人的な武勇にも優れていたと言われている。桶狭間の戦いをはじめ、一乗谷城の戦い、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは大名でありながら自らが先頭に立って、奮戦しているほどである(ただし、天王寺砦の戦いではそのために手傷を負っている)。大名自身が最前線に立って戦うことは異例であり、こういったことが当時から数多くの部下、そして現代人を惹きつける一因ともなっている。
- 西洋の物品に対して高く興味を示し、晩年に信長が戦場に赴くときには、南蛮鎧を身に付けることが常だったと言われている。
信長の苛烈な所業
- 信長の事績の内容に対する評価は、時代や解釈する者によって大きな差がある。古い権威を否定するための断行的政策については当時から現代に至るまで非難が多い。そのため、人物的には苛烈な革命家、あるいは狂気の独裁者と評する者もいる。
- 1565年より信長は伊勢国の北畠具教への侵攻を開始した。具教は奮戦するもやがて劣勢となり、信長が提示した条件を受け入れ降伏した。その条件とは、「信長の子、織田信雄を具教の子の北畠具房の養子にする事」であった。こうして伊勢国は織田の物となったのである。伊勢国が手に入った途端に、信長は北畠親子の身の安堵を反故にし、軍勢を差し向けた。北畠具房は捕縛監禁され、わずか数年で死去。北畠具教は信長・信雄の軍勢に惨殺された。「北畠物語」によると具教は、具教の影武者らとともに厠の糞壺に吊るされ、汚物を身に受けながら衰弱死したという。(注・ただこれは後世になって作られた話である可能性もあるようだ。)
- 伊勢国の神戸具盛も同じような目に合っている。神戸氏の養子として織田信孝を受け入れたあとは、具盛は用済みになり、信長に一族家臣の多くを殺されたうえで近江国日野城に幽閉されている。
- 1570年5月6日に杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとした事があったが、未遂に終わっている。1573年にはついに善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の極度に悪い竹製のノコギリで首を引かせ、長期間激痛を与え続ける拷問を科し、なぶり殺しにした。また、これは自分を狙った者に対する威嚇でもあったようである。
- 1571年の延暦寺焼き討ち、1574年9月の伊勢長島の戦い、1575年の越前一向衆などで信長は数万単位の大量虐殺を行った。これらの信長の行為は、豊臣・徳川政権当時から凶行と言われることが多かった。
- かつての義弟、浅井長政を滅ぼした際に、長政の母である小野殿(阿古御料人)の指を一日一本ずつ切り落とし、その後、惨殺した。
- さらに妹お市の方の助命嘆願を無視し、お市の方の子であり、信長の甥にもあたる10歳の幼児万福丸を磔にしたうえで処刑した。
- 浅井長政と浅井久政と朝倉義景の三人の頭蓋骨に金箔を塗り、酒宴の際に織田信長が杯として披露した。但し、これは江戸時代になって作られた織田信長を題材にした小説から引用されたという説が有力な為、実際に織田信長がこのような行為を行っていないと言う。
- ただし、江戸時代から現代まで、これら一連の宗教勢力に対する信長の残虐行為に対する史家や学者の評価は、残虐行為は別としても、その行為自体は評価してしかるべきもの、あるいは新時代を築くためにはやむを得なかった行為と見る意見もある。正徳の治で有名な学者・新井白石などは、信長の宗教勢力に対する残虐行為に対して、
- 「そのことは残忍なりといえども、長く僧侶の凶悪を除けり。これもまた、天下の功有事の一つと成すべし」
- と、評価しているのである。このように、残虐行為は別としても、当時の宗教勢力が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたこと、なおかつ僧侶の腐敗を鑑みると、賞賛してしかるべき、やむを得ない行為であったとする白石のような意見を持つものもいた。しかし、多くの場合、非難の対象されるのは、寺院への攻撃自体よりも、その時々に行われた僧侶や女子供の虐殺といったまさに「残忍な行為」についてであり、この件については意見が分かれがちなところでもある。
- 茶坊主に何らかの不手際があり、信長が激怒した事があった。茶坊主は怒りを恐れ棚に隠れたが、信長は棚ごと茶坊主を切り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「圧切長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられたという。
- 天正元年(1573年)11月、足利義昭の帰洛の交渉のため、毛利輝元から信長の元に派遣された毛利家の安国寺恵瓊は、国許にあて書状を送っている。信長の傲慢な性格を皮肉った内容で、「信長の代、5年、3年は持たるべく候。来年あたりは、公家などに成らる可しと見及び候。左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」とある。ただし、この発言は信長の死後に流布したものであり、喧伝の可能性もある。
- 1578年、畿内の高野聖1383人を拉致・捕縛して虐殺した。高野聖に成りすまし密偵活動を行うものがいた事に手を焼いた末の行動であると言われているが、無実の罪で殺害された善良な高野聖も相当数にのぼると思われる。
- 1582年に武田氏が滅びた際、武田遺臣をかくまった塩山恵林寺を焼き討ち。寺も僧達もすべて焼き尽くした。その際に恵林寺の住職快川紹喜が放った「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉は現在にまで残っている。
- 天正10年(1582年)4月10日、信長が琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発った。安土城と竹生島は距離があるため、信長は今日は帰ってこないと思った侍女たちは桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと、安土城を空けていた。だが一泊すると思われていたはずの信長は日帰りで帰還。侍女たちの外出を知った信長は激怒し、侍女を数珠つなぎにした上で、老若問わずすべて惨殺した。 侍女の助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じ方法で信長に殺されている。
- 天下統一後の豊臣秀吉は、かつての主君をこう評したという。
- 「信長公は勇将であったが、良将ではなかった。剛が柔に勝つ事はよく知っておられたが、柔が剛を制する事をご存知ではなかった。」
- 「一度背いた者があると、信長公はその者への怒りがいつまでも収まらず、一族縁者まとめて皆殺しになされた。降伏する者さえも躊躇なく殺すため、信長公への敵討ちはいつまでたっても絶えることがなかった。これは信長公の人間としての器量が狭かったせいであろう。」
- 「強さや怖さで人に恐れられはしても、敬愛されることはない。例えて言えば信長公は虎や狼のようなもの。人は自分が噛み殺されるのを防ぐために、猛獣を殺そうとするであろう。」
ただ秀吉は信長の残虐さを批判する事で、織田家を乗っ取った形で基盤を受け継いだ豊臣家や徳川家の正当性を主張しようとした、という可能性も考えられる。
- 秀吉や家康は信長のお陰で出世できたといっても過言ではないにも関わらず、その恩を無視した行動をとっており、矛盾点があることからも私情抜きでの言動であるか疑問である、と唱える者もいる。
- だが、信長に近い所に数十年も居続けた秀吉の言葉であるからこそ、より信憑性が高い言葉であると言える、と主張するものもいる。
- 例外
- 信長は弟の織田信行や松永久秀の裏切りに対し一度目は許しているという実例も存在し、また凋落や情報戦などにも力を注ぎ力押しの戦いばかりしたわけではなかった。柴田勝家に対しては、家督相続のときに信行を支持して敵対したにも関わらず、その罪を許し織田氏の筆頭家老として用いた。これは本来ありえないことであり、勝家も信長の恩義を終世忘れず、信長没後も織田氏に尽くしている。ただ勝家と同じ理由で1556年に信長に敵対した林秀貞は、信行擁立を理由に1580年に追放されている。1555年に守山城にこもり信長に対抗した過去を持つ丹羽氏勝も、守山城での一件を理由に1580年に追放された。秀貞や氏勝は使えなくなったから切る、勝家はまだ使えるから残すという信長の徹底的な合理主義の一環だという可能性も考えられなくはない。また、信長に対し謀反を企てた荒木村重が結局かなわず逃亡したのち、信長は残された荒木家の女子供500人以上を生きたまま焼き殺した。悲鳴や号泣などが周囲にこだまし、さながら地獄絵図の様相であったと言われている。
- ただし、信長の敵勢力に対する残虐行為の大半について当時から現代の史家における評価は、当時の常識で言うと残虐とまではいかないむしろ普通といえる事件もあり、また信長のように苛烈な行為が行わなければ、戦国時代の争乱はまだまだ続いたという見方があり、戦国時代を早く終わらせるためにはやむを得ない行為であったという評価もある。
内政
- 敵大名や一揆衆や自らの配下には苛烈であった信長だが、地味な内政や民心掌握に敏腕を発揮しており、信長が支配下に置いた尾張・美濃などの多くは信長によって終生、善政が敷かれていたと言われている。桶狭間の戦いにおいても信長が勝利することができたのは、領民の支持があったからだとも言われている。相次ぐ戦乱で荒廃した京都の町人たちも、厳正な信長の統治に対しては歓迎したと言われている。京都の治安を乱す行為をした織田軍の足軽を、信長自身が手討ちにしたという挿話もある。また、本能寺の変の後に、明智光秀に靡いた国人層が少なかったことも、これを裏付けている。
- 楽市楽座は信長が最初に行なった施策と言われることが多いが、実際には近江南部の戦国大名であった六角定頼(信長に滅ぼされた六角義賢の父)が最初に行なった施策であり、信長は楽市楽座をさらに大規模な施策としたにすぎない。だが、信長には楽市楽座をはじめ、琵琶湖などを中心とした流通による商業発展を目指すなど、当時としてはあまりに先見的な内政を行なっている面がある(流通による商業政策が重視されはじめたのは江戸時代後期であり、それまでは年貢が重視されていた)。
総論
- 革命児、第六天魔王など、色々言われる人物ではあるが、信長の登場で応仁の乱以降に日本各地で続いた長い戦乱の収束が早まったと主張する声もあり、戦国時代を事実上終焉に導いたのは、信長であるという評価が現在では高い。
- このように歴史的評価や人物評が定まることのない人物である。一般人から見ると巨悪とも正義とも受け取られ、天才とも狂気とも映る信長は、規模が大きく魅力的に見えるらしい。そのため現在に至るまで、小説・映画・ゲームなど、信長を主人公とした作品は多く、特に本能寺の変で信長が死ななかったらどうなっていたかというシミュレーション作品も近年では多く作成されるなど、信長の人気は近年大いに高まっている。
系譜
- 先祖
織田氏は
平氏とも
藤原氏とも自称するが、
福井県丹生郡
越前町織田にある
劔神社の関係から古代豪族の
忌部氏と考えられる。
越前に地盤を築き、尾張に派生した。
朝倉氏とは当初からのライバル関係。織田信定から古渡城主で父の信秀の代で守護代を務める本家と同等に渡り合える力を持った。
織田久長-織田敏定-織田信定-織田信秀-織田信長
- 兄弟
- 姉妹
- 息子
- 一門衆
- 織田信定系
- 織田信行系
- 織田信張系
- 織田信光系
- 織田信康系
- 他系
- 娘
- 子孫
- 2005年3月に行われたフィギュアスケート世界ジュニア選手権で優勝した織田信成選手は、信長七男の織田信高の子孫に当たり、信長から数えて十七代目となる。
- 信長の性格は「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」という俳句(信長作ではない)でよく引用されるが、信成はテレビ番組の取材で「鳴かぬなら それでいいじゃん ホトトギス」と詠んで話題となった。
- 信成の母でスケートのコーチを務める憲子氏は、夫の信義氏の実家に仏花を届ける際、うっかり桔梗を送ってしまったという挿話がある。(桔梗は明智光秀の家紋)
- なお最も直系に近い織田氏の末裔は、織田高長の子孫で現在フリーライターの織田孝一氏(本名・織田信孝)であるようだ。
- タレントの織田無道は織田家の末裔を自称しているが、詳しい事は定かではない。
家臣
他に有力重臣として九鬼嘉隆、細川幽斎、荒木村重、池田勝正、松永久秀、筒井順慶、武井夕庵、美濃三人衆などもいる。
墓所・霊廟
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中京区織田信長廟所碑.jpg
以下の場所に、墓所及び霊廟がある。
- 「信長公廟」:京都市中京区の本能寺
- 石造宝篋印塔と入母屋造の廟屋。本能寺の変で焼失した後に、場所を移して再建された本能寺に墓所がある。
- 「織田信長公本廟」:京都市上京区の蓮台山阿弥陀寺
- 石碑。本能寺の変の直後に、住職が寺に葬ったと伝える。
- 「織田信長墓所」:高野山奥の院
- 京都市北区の大徳寺塔頭の総見院
- 五輪塔。一周忌に秀吉が建立した寺院といい、遺骸が見つからなかったため、木像を2体造り、1体を火葬して1体を総見院に安置したという。
- 「織田信長公本廟」:安土城二の丸跡
- 「織田信長公御分骨廟」:富山県高岡市の高岡山瑞龍寺
- 「織田信長父子廟所」:岐阜県岐阜市の神護山崇福寺
- 石碑。市指定史跡。信長の側室お鍋の方が遺品を贈り、位牌を安置したという。
- 「織田信長信忠公供養塔」:大阪府堺市の南宗寺本源院
- 「建勲神社」:京都市北区
- 別格官幣社。秀吉は弔うために船岡山に寺を建てようとして天正寺という寺号を朝廷から賜るが、建立途中で終わる。1869年(明治2)に明治政府は織田信長を祀る神社の建立を指示。1870年(明治3)、天童藩知事の織田信敏が江戸邸宅内に織田信長を祀られ、その後1875年(明治8)に船岡山の山腹に新たに創建。1910年(明治43)に現在地の山頂に遷座。
- 「建勲神社」:山形県天童市
- 「建勲神社」(摂社):岐阜県岐阜市若宮町の橿森神社
- 織田信長が美園で開いた楽市楽座の市神が橿森神社の御神木に祀られた。明治になって境内に建勲神社を勧請した。
- 愛知県清須市の清洲古城跡
- 「南蛮寺の鐘」:京都市右京区の臨済宗大本山妙心寺の塔頭寺院、春光院が所蔵。南蛮寺は信長が京都に建てたキリスト教会堂。
その他各地に、供養塔や建勲神社などがある。
伝説
- 伝織田信長の首塚:静岡県芝川町西山本門寺
- 第18世住職、日順上人の父、原宗安(原志摩守)が本能寺の変の際、戦死した自分の父原胤重と兄原清安(原孫八郎)の首と本因坊算砂の指示で信長の首を本門寺まで持ち帰り柊を植え首塚に葬ったという。
関連項目
- 史料
- 小説
- 映画
- テレビドラマ
- 太閤記(1965年 NHK大河ドラマ 信長:高橋幸治) NHKに信長の助命嘆願が殺到し本能寺の変を描く回が遅れた事で知られる。
- 天と地と(1969年 NHK大河ドラマ 信長:杉良太郎)
- 国盗り物語(1973年 NHK大河ドラマ 信長:高橋英樹)
- 黄金の日々(1978年 NHK大河ドラマ 信長:高橋幸治)
- おんな太閤記(1981年 NHK大河ドラマ 信長:藤岡弘)
- 徳川家康(1983年 NHK大河ドラマ 信長:役所広司)
- 武田信玄(1988年 NHK大河ドラマ 信長:石橋凌)
- 春日局 (1989年 NHK大河ドラマ 信長:藤岡弘)
- 織田信長(1989年 TBSドラマ 信長:渡辺謙)
- 斎藤道三(1991年 テレビ朝日ドラマ 信長:仲村トオル)
- 信長(1992年 NHK大河ドラマ 信長:緒形直人)
- 織田信長(1994年 テレビ東京ドラマ 信長:高橋英樹)
- 秀吉(1996年 NHK大河ドラマ 信長:渡哲也)
- 影武者 織田信長(1996年 テレビ朝日ドラマ 信長:藤田まこと)
- 織田信長 天下を取ったバカ(1998年 TBSドラマ 信長:木村拓哉)
- 利家とまつ(2002年 NHK大河ドラマ 信長:反町隆史)
- 太閤記~サルと呼ばれた男(2003年 フジテレビ年末ドラマ 信長:藤木直人)
- テレビ東京系正月時代劇国盗り物語(テレビ東京、2005年:伊藤英明)
- 功名が辻(2006年 NHK大河ドラマ 信長:舘ひろし)
- 漫画
- 『織田信長』(横山光輝 原作:山岡荘八)
- 『信長公記 - マンガ日本の古典』(小島剛夕)
- 『夢幻の如く』(本宮ひろ志)
- 『信長』(原作:工藤かずや 作画:池上遼一)
- 『内閣総理大臣織田信長』(志野靖史)
- 『TENKA FUBU 信長』(ながてゆか)
- 『MISTERジパング』(椎名高志)
- ゲーム
}}
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