第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)は、1939年9月1日から1945年9月2日にかけて、世界の主要国が二つの陣営に分かれて戦争を行なった人類史上二度目の世界大戦を指す。人類史上、最大の戦争になった。
アジア・太平洋地域におけては、日本がイギリス、アメリカ、オランダなどに対して戦端を開いた1941年12月8日(日本時間)から、日本が降伏文書に調印した1945年9月2日までの間の戦争は、大東亜戦争(当時の日本政府による呼び方)、もしくは太平洋戦争(当時の連合国による呼び方)と呼ばれる。
戦争の結果、連合国は軍事力で枢軸国を圧倒し、領土ならびに覇権領域の拡張という目的を実現した。連合国の中でも本土の被害を殆ど受けずに国力を維持したアメリカは、国際連合やブレトンウッズ体制をつうじ、世界を自らの覇権下におく戦後諸制度を構築するとともに、日本にその影響下におくことに成功した。またソ連は、領域の拡張および東欧を影響下に置くことに成功した。 他方、敗戦国であるドイツと日本は、欧州ないしアジアでの覇権を失った。
なお、1931年の満州事変から1945年の日本の降伏までの中国大陸における十五年戦争は、連合国参戦以前の日本と中華民国との間の単独の戦争であり、1939年のソ連軍のフィンランドへの侵攻は一般には第二次世界大戦には含まれないという説もある。
パリ講和会議における「民族自決主義」は不貫徹なものであるが、国際法の一部となった。ハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニアはこの時に独立を認められた。また、イギリスは1921年に長年支配下にあったイランを、1922年にエジプトを独立させている。ベルサイユ体制は単なる列強の論理の具現ではないと言える。
列強各国は経済不況を打開するために世界各地の自国の植民地を用いた。植民地を持つ大国は自国と植民地による排他的な経済圏いわゆるブロック経済を作り、植民地を持たない(もしくはわずかにしか持たない)国々は新たな植民地を求めるべく近隣諸国に進出することとなった。前者はイギリスのスターリング・ブロック、フランスのフラン・ブロックである。後者は日本による傀儡政権の満州国の設立、イタリア王国によるエチオピアの侵略やナチス・ドイツによるオーストリアの無血占領(併合)である。また、後者の国においては、経済の停滞による政情不安によりファシズム的思想の浸透やそれにともなう軍部の台頭、人種差別的志向の台頭が顕著なものとなった(これはイギリスやアメリカなどにおいても見られる現象であった)。
1930年代当時の主な産油地域としてはアメリカ(テキサス州やカリフォルニア州)、ソビエト連邦(バクー)、オランダ領インドネシア(ボルネオ島)などがあげられる。日本はアメリカなどの産油国からの輸入に、ドイツはルーマニアのプロエステ油田に頼っている状態であった。なお、この時点においては現在の一大産油地域である中東地域や北海などにおける石油資源の多くは発見されておらず、これらの地域は産油地域としてはさほど、もしくは全く重要視されていなかった。
その後もドイツの軍備拡張への対応が遅れていたイギリスは、ネヴィル・チェンバレン政権下においては軍備を整える時間稼ぎのため、ミュンヘン会談に代表される宥和政策を取り続け、事実上ヒトラーの軍事恫喝による国土拡張政策(旧ドイツ帝国領の回復)を黙認していた。このためヒトラーはさらに軍拡政策を推し進めることになる。
ついには、1933年に行われた総選挙で圧勝したヒトラーは首相に就任。全権委任法(国会の承諾がなくても首相ヒトラーが自由に立法できる法律)を制定、ワイマール憲法を停止させたものの国民の多くはこれをも支持し、ドイツはナチズムへの道を進み行くことになる。翌年、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の死去を受け、ヒトラーはドイツの大統領・首相・ナチス党首を兼ねた「総統」に就任する。
その後1935年にヒトラーはドイツ再軍備宣言し、クルップやダイムラー・ベンツ、メッサーシュミットなどの軍需企業の協力を得て、国家の総力を挙げた大々的な再軍備を開始するとともに、ドイツ国民の圧倒的な支持の元、妄想的「人種」と優生学を国家の根本として、「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別をもとにした迫害を強化してゆく。ユダヤ人に対する迫害政策は1936年に行われたベルリンオリンピックの開催前には一時的に休止されるものの、オリンピックの終了とともに再度強化されてゆく。
1938年にドイツはオーストリアを軍事的恫喝を背景に無血併合(アンシュルス)する。その前にはイタリア王国とともに国際連盟を脱退し同盟(ベルリン-ローマ枢軸)関係を結び、同じく国際連盟を脱退していた日本との間にも日独防共協定を結んだ。その後これらの3国の関係は日独伊三国軍事同盟に発展することになる。
ドイツ民族が在住している地域を併合していく先は最終的に東プロイセンとの間にあり、ダンツィヒを含むポーランド回廊に向けられることとなる。ミュンヘン会談の合意を反故にされたイギリス、フランス両国はここに至り、急速にドイツとの対決姿勢をみせることになる。
当初、ムッソリーニは自己の勢力圏内と考えてきたオーストリアに進出を企てるヒトラーに敵意を抱いていたが、ヒトラーはムッソリーニに好意を抱いており、終始ムッソリーニに対し友好的に接していた上、イタリアがエチオピア戦争によって国際社会から強い非難を受け、国際連盟を脱退するなど次第に孤立するようになると、ドイツのオーストリア併合を認めるなど急激にドイツとの提携を図るようになった。また、それに併せてドイツの友邦である日本との関係強化も図るようになって行き、ついには3国の間で日独伊三国軍事同盟を結ぶことになる。
なお、ドイツのヒトラーは、ヨーロッパ諸国から新しい政治スタイルであるファシズムを推し進めるリーダーとして賞賛されていたムッソリーニの政治方針やそのスタイルから大きな影響を受け、ムッソリーニを手本としていた。
また、多くの国際的社会主義組織を始めとする反ファシズム運動が、「国際旅団」の名の元に人民戦線側の支援を目的に結束し、アメリカの作家のアーネスト・ヘミングウェイやフランスのアンドレ・マルローなどが参加した。ただし、「国際旅団」の結成にはコミンテルンが深く関わっており、構成員の85パーセントは共産党員で、それ以外の多くもそのシンパだったように、事実上ソビエト連邦の傀儡組織であった。
1936年にはレオン・ブルム人民戦線内閣が成立したものの、その後は政治的混迷期が続き、隣国スペインで行われた内戦など、戦争の足音がヨーロッパを覆って来たにも拘らず本格的な戦争への準備はなされないままであった。
その様な状況下でスターリンは、軍事強国であるドイツとの対立を回避しながらポーランドやバルト3国、フィンランドなどを手に入れるために、天敵とまで言われたドイツのヒトラーと1939年8月23日に独ソ不可侵条約を結び、世界を驚かせた。
その後、1939年にドイツとソ連の間で締結された独ソ不可侵条約の付属秘密議定書での取り決めによって、ポーランドの分割が合意された。
こうした中、恐慌による経済的混乱を打開することが出来なかったハーバート・フーヴァーに代わり、修正資本主義に基いたニューディール政策を掲げて当選した民主党のフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領は、公約通りテネシー川流域開発公社を設立。フーヴァー・ダム建設などの公共投資増大による内需拡大政策や農業調整法、全国産業復興法を制定し、更に諸外国における戦争に参戦をしないことを公約の一つとして掲げ、三選をはたした(アメリカが不況から脱出したのは第二次世界大戦開始後である)。
しかし、1930年代に入りドイツによる脅威がヨーロッパで高まる中、地理的に近いことなどから南アメリカを「自国の裏庭」と考えるアメリカは、それらの企業に対する乗っ取りや政府による接収を行なわせることによって、それらのドイツ系企業からドイツ人を追放させ、基幹分野においてのアメリカの影響力を維持した。
だが、第一次世界大戦が終結しまもなくヨーロッパ経済が平穏を取り戻すと、戦勝国であり同じく国土に直接的な被害を受けなかったアメリカと同様に、戦争特需による好景気を謳歌していた日本の経済は不況となった。さらにシベリア出兵における日本の積極的な軍事行動により、東アジアに利権を持っていた列強諸国を中心にその領土拡大の野心が疑われる。シベリア出兵による膨大な出費と、1923年に起きた関東大震災がそれに追い討ちをかけることとなって日本の経済状態がさらに悪化するとともに、政情が次第に不安定なものとなって行き、1930年代前半頃より政治テロや五・一五事件、二・二六事件などの陸海軍の将校によるクーデター未遂事件が度々発生するようになる。
五・一五事件で護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅首相が暗殺され、二・二六事件でも高橋是清大蔵大臣などの政党人が暗殺された結果、日露戦争後に大正デモクラシーと呼ばれるような政党政治及び議会制民主主義が根付き始めていたにも拘らず、急速に軍部が実権を握ってゆくことになる。
一方で、第一次世界大戦の勃発という東アジア地域でのヨーロッパの列強勢力の影響力行使の空白期間は、国内の経済的危機状態を近隣諸国への進出により打破しようとしていた日本にとっては非常に有利に働くこととなる。第一次世界大戦の戦勝国であった日本による、敗戦国であるドイツの中国大陸や南太平洋諸島における植民地の獲得と、中華民国への21ヶ条要求などは、この時期であるからこそできたことであり、特に中華民国に対する強硬な姿勢は中国大陸における抗日運動の火種となった。この頃より日本軍(関東軍)は、地元の軍閥である張作霖とも友好関係を築いていたが、張作霖が中国共産党へ接近し始めると、それに反発する関東軍は1928年に張作霖爆殺事件を起こした。
なお、日露戦争の結果、ロシアが有していた旅順や大連の租借権と長春-旅順間の鉄道及び支線や付属設備の権利・財産を日本が獲得している。1906年に日本は国策会社である南満州鉄道を設立し、これ以降日本は中国大陸の北部(満州)における権益を急速に固めることになる。その後日本は、1931年に勃発した満州事変などのそれまでの軍事行動の結果として、中国大陸北部を中心とする土地をさらに占領し、1932年には元首として清朝の愛新覚羅溥儀を執政(後に1934年に皇帝に即位する)とした満州国を建国していた。
しかしながら、これらの日本の行動に抗議する中華民国は国際連盟に提訴し、国際連盟はイギリスのヴィクター・リットン卿を団長にするリットン調査団を派遣する。当時、蒋介石率いる中華民国は度重なる内戦により治安が悪く、緩衝材としての満州国の必要性があることからリットンは日本の満州における特殊権益は認めたが、満州事変は正当防衛には当たらず、形だけでも満州を中華民国に返すように報告書に記した。その後1933年2月に行われた国際連盟特別総会においてリットン報告書(対日勧告案)が採決され、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)の賛成多数で可決された。可決の直後、松岡洋右日本全権は「この様な勧告は受けいることが出来ず、もはや日本政府は国際連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、その場を退席した。松岡は帰国後国民の盛大な歓迎を受けた。その後日本は国際連盟を離脱し、1936年には日独防共協定をドイツとの間に結ぶなどイギリスやアメリカなどと対決する姿勢を鮮明にしてゆく。
この様な日中の対立を背景に、1937年には盧溝橋事件を契機として日中戦争が勃発した。その後、内戦状態にあった中国国民党と中国共産党は、日本に対抗するための抗日民族統一戦線である国共合作(第二次国共合作)を構築する。その後日中戦争が激化した結果、日本政府は1940年(皇紀2600年)に東京で国際博覧会と同時に開催される予定だった夏季オリンピック、東京オリンピックの開催権を1938年7月15日の閣議決定により返上するなど、国民総動員で臨戦体制を固めてゆく。
1939年9月には、日独伊三国軍事同盟を結んでいた友邦のドイツがポーランドへ侵攻し、直ちにフランスやイギリスがドイツに宣戦布告し交戦状態に入り、その後1940年にはドイツ軍がフランス全土を占領した。これに伴い日本軍はフランス領インドシナへ進駐したものの、これにアメリカやイギリス、さらに本国をドイツに占領されたオランダなどが反発し、これらの国々と日本の関係は日に日に険悪さを増していった。
この様な状況下で、日中戦争の開戦以降日本軍と戦っていた中国国民党の指導者である蒋介石総統とその妻である宋美齢によるロビー活動を受けたアメリカは、1940年頃より蒋介石と親しく親中派として有名なルーズベルト大統領の公認の下、「アメリカ合衆国義勇軍」(フライングタイガース)などの名目で、中華民国軍に最新のアメリカ製戦闘機やアメリカ軍の戦闘機パイロット(一時的に軍を退役し個人としての資格で参戦)を派遣し、中華民国軍の訓練教官及び軍事アドバイザーとして派遣されたアメリカ陸軍航空隊の将校のクレア・リー・シェンノートの指揮下で日本軍との戦いを開始する準備を行っていた。
また、1940年10月には、すでに軍部が完全に主導権を握った日本において、軍部の圧力を受けた近衛文麿らの指導の元、国民の統制や強大な政治体制を目的とした大政翼賛会が結成され、全ての政党は解体されこれに吸収された。これを持って日露戦争後に日本に根付きかけた政党政治及び議会制民主主義体制はここに完全に崩壊した。なお、この後1941年に近衛は第3次近衛内閣の陸軍大臣である東条英機によって首相の座を追われ、その後継首相には東条が就任することになる。
この様な状況下にあった日本が、日中戦争がすでに膠着状態に陥っていたにも拘らず、新たにイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリアなどの連合国との開戦に至ったのは以下のような経緯がある。
しかし、まもなくドイツがフランスを占領し親独政権であるヴィシー政権が成立すると、ヴィシー政権と同じく親独政策を取る日本軍がヴィシー政権下のラオスとカンボジアに進駐すれば、フランスに対する領土返還要求を実現することが不可能になると見て、9月にはラオスとカンボジアに対する攻撃を加え始めた。1941年1月にはシャム湾でもタイ海軍とフランス海軍の軽巡洋艦が交戦する事件が発生し、これを見た日本は5月に泰仏両国の間に立って居中調停を行い、フランスにラオスのメコン右岸、チャンパサク地方、カンボジアのバッタンバン、シエムリアプ両州をタイに割譲させた。
その後、日本軍が12月8日未明の対連合諸国参戦の1時間前にイギリス領マラヤのコタバルに上陸し、マレー半島を北上してタイ南部へ進出した。この様な状況下でもタイ王国は中立を堅持していたが、12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となった。
中でも、イギリス領インドのスバス・チャンドラ・ボースやラス・ビハリ・ボースなど独立運動家の幾人かは、宗主国と対立する日本やドイツなどと結託する姿勢を取るなどして宗主国の政府に揺さぶりをかけ続けた。
しかし、数世紀の長きに及ぶ植民地支配に対する反感が根強くある上、日露戦争における、有色人種国家である大日本帝国による白人国家であるロシアに対する勝利に勇気付けられたオランダ領インドネシアやアメリカ領フィリピン、上記のイギリス領インドなどでは当時から独立の声が高まっており、いくつかの国では独立運動指導者による組織的な独立運動も起こっていた。その結果、フィリピンは1944年に独立することが決定された。
この様な状況下に置かれていた為、欧米諸国の植民地下に置かれていたこれらの国々の国民や地元政府の意思は、第二次世界大戦への参戦に対しては直接的には大きな影響力を持つものとはならなかった。
これに先立つ8月23日にドイツとソビエト連邦は独ソ不可侵条約を結んでおり、この際の密約に基づいて9月17日にはソ連軍もポーランドを東方から侵攻したが、ソビエト連邦によるポーランド侵攻に対してフランス・イギリスは宣戦布告には至っていない。次にソビエト連邦はフィンランドに侵略を開始した(「冬戦争」)。この行為により、ソビエト連邦は国際連盟から除名処分となる。
総兵力こそ100万を超えるものの、戦争の準備が全くできておらず、近代的な軍備にも乏しく小型戦車と騎兵隊を中心としたポーランド陸軍はドイツの急降下爆撃機と戦車部隊の連携による電撃戦により殲滅された。国際連盟管理下の自由都市であるダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦のシュレースヴィッヒ・ホルシュタインによる砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、開戦から1ヶ月にも満たない9月27日には首都ワルシャワも陥落。ポーランド政府はフランスのパリに亡命した。また、ドイツ軍のポーランド侵攻直後から、ドイツ軍の占領地域に在住するユダヤ人のゲットーへの強制収用が始まった。
なお、フランスとイギリスはドイツに宣戦布告したものの、その軍隊をポーランド方面に進めることはせず、この年の間、西部戦線に大きな戦闘はおこらなかったこともあり、イギリス国民の間には、「クリスマスまでには停戦だろう」と言う、根拠の無い期待が広まっていたと言われる。また、ヒトラーは戦前宥和政策に終始していたフランスとイギリスが本気で宣戦布告してくるとは想定していなかった。
11月8日にはミュンヘンのビヤホール「ビュルガー・ブロイケラー」で、反ヒトラー派によるヒトラー暗殺を狙った爆破事件が起きるが、ヒトラーは早めに演説を切り上げたため難を逃れた。なお、その後も数度にわたりヒトラー暗殺計画が実行されるものの、ヒトラーは全て間一髪で難を逃れることになる。
西部戦線では長い沈黙の後、5月前半に急遽ドイツ軍が強力な軍隊を持たないが戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルグといった所謂ベネルクス諸国に侵攻、相次いで制圧し、国を追われたベルギー政府およびレオポルド3世国王をはじめとする王室はイギリスに亡命。5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。また、5月15日に降伏したオランダ政府も同じく王室ともどもロンドンに亡命した。
まもなくフランスとの国境へ迫ったドイツ軍は、フランス国民から信頼されていた巨大要塞・マジノ線を機甲師団を駆使して迂回し、フランス東部に侵攻する電撃戦にて瞬く間に制圧(ドイツ軍のフランス侵攻)した。ドイツ軍の破竹の進撃を受けて大西洋沿岸に追い詰められたイギリス軍・フランス軍は主な重装備を放棄し、5月27日より貨物船やカーフェリーからヨットまでありとあらゆる舟艇を動員し、段階的にダンケルク海岸よりイギリスへ撤退(ダンケルクの戦い/ダイナモ作戦)し、6月4日には撤退作戦を完了した。しかし、この際にドイツ軍が、撤退作戦の妨害に当時世界最強を誇った陸軍機甲部隊を投入しなかったために、イギリス軍は結果的に3万人ほどの捕虜を出し、撤退時にダンケルク周辺に多くの兵器を廃棄したものの精鋭兵を維持した。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦の成功を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述した。
6月10日にフランス軍は首都のパリを全面的に放棄し、14日には組織的な抵抗も受けずにドイツ軍がパリに入城した。その後22日には、パリ近郊のコンピエーニュの森にドイツ軍により特別に用意された、第一次世界大戦時に当時のドイツ軍が連合軍に対する降伏文書に調印した食堂車の中で、フランス軍がドイツ軍への降伏文書に調印した。なお、この際に、その生涯で殆ど国外へ出ることがなかったヒトラーが自らパリへ赴き、パリ市内を自ら視察した。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後に、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いる親独政権であるヴィシー政権が樹立される。
この様な動きに対し、フランスの敗戦後にロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンスを支援した(法的にはペタン率いるヴィシー政府は合法的な正統政府であり、ド・ゴールの自由フランスは、新政府の方針に反旗を翻し脱走した陸軍将校ド・ゴールによる非合法的な亡命政府ともいえる)。また、対フランス戦の末期には、枢軸国の一員であるイタリアも、この勝利に相乗りせんとばかりに正式にイギリスとフランスに対し宣戦布告をした。
また、7月にはイギリス軍とアメリカ軍がフランス領アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス海軍の艦船を、ドイツ側の戦力になることを防ぐことを目的に突如攻撃し、大きな被害を与えた(「カタパルト」作戦)。この時期のフランス領アルジェリアのフランス海軍の艦船はヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず連合国軍が攻撃を行って多数の艦船を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスでさえ連合国首脳に対し猛烈な抗議を行った。
ヨーロッパ大陸から連合国軍を追い出し勢いをつけたドイツは、イギリスへの上陸を目指し、7月頃よりイギリス上陸作戦である「ゼーレーヴェ(アシカ)作戦」の前哨戦として始まった対イギリス航空戦「バトル・オブ・ブリテン」が行われる。
ドイツ空軍の爆撃機による昼夜を問わない連日の爆撃に、ウィンストン・チャーチル首相に率いられたイギリス空軍とイギリス国民は国家を挙げて必死に抵抗し、スピットファイアやホーカーハリケーンなどの戦闘機や、当時本格的な実用化がなされたばかりのレーダーなどを駆使し、当時世界最強といわれたドイツ空軍に大打撃を与えた。その結果、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にし、あわせてドイツ空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングが、被害の大きい昼間の爆撃も中止するなど、事実上イギリスが勝利を収める。
また、アフリカ前線においてはフランスが降伏したことに伴い、北アフリカにあるフランスの植民地であるアルジェリアとチュニジア、モロッコがヴィシー政権の管理下となった。その後、1940年9月にイタリア軍は北アフリカにおける連合軍諸国の影響力の低下に乗じてリビアからエジプトへ侵攻したが、イギリス軍に撃退され逆にリビアに攻め込まれてしまった。これに対しドイツのエルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツ・アフリカ軍団」を投入して2月にトリポリに上陸する。その後は北アフリカのイギリス、フランスの植民地に対し次々に侵攻(クルセーダー作戦)し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を破りトブルク要塞を包囲しつつエジプト国境に迫った。
6月22日には、ドイツ軍が1939年8月に独ソ不可侵条約を結んでいたソビエト連邦に対して、突如バルバロッサ作戦と呼ばれる対ソビエト連邦侵攻作戦を開始し、ここに独ソ戦が始まった。ドイツ軍は300万近い兵士を事前に移動させ、航空機による偵察を念入りに行なうなど準備を進めていたにも拘らず、独裁者であるヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦はこの攻撃をまったく予想せず、侵攻に備えていなかったために前線は混乱した。ソ連軍(赤軍)は敗走を重ね、それに乗じてドイツ軍は瞬く間にソビエト領内を進軍して行った。
これに先立ちドイツは、日本に対して東方での対ソ戦を行うよう強く働きかけるものの、資源確保に比重を置いた日本政府および軍部は南方・太平洋方面への進出の決意を固め、対ソ参戦計画を破棄する。この頃、日本に送り込んだスパイ、リヒャルト・ゾルゲの情報により日本が対ソ戦を展開しないことを知ったソ連は、4月に日本との間で日ソ中立条約を結び、その結果日本(と満州)軍に対抗するために極東に置いた軍の一部を対ドイツ戦に振り分けることができ、これがその後の対ドイツ戦に大きな影響を与えることとなった。
しかし、情報部からドイツ軍の動きに対する警告が繰り返されたにもかかわらず、スターリンはこれらの情報はドイツとソ連の間の戦争の口火を切ることを目指したイギリスから意図的に流された誤情報であると考えて、直接的にドイツ軍の侵攻に備えることをしなかった。そのために年末までの間にソ連軍は一方的な敗北を重ねドイツ軍に首都・モスクワの近郊にまで迫られてしまう。
また、この年の現地時間12月7日に起きた真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、日本がアメリカやイギリス、オランダなどの連合国との間に開戦し、それを受けて12月11日にドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、これまでヨーロッパ戦線においても虎視眈々と参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦した。日本と中国(国民党と中国共産党)の戦いである日中戦争以外は平静を保っていたアジア太平洋地域においても、イギリスやオランダ、アメリカなどの列強を巻き込んだ戦いが始まり、ヨーロッパ戦線にも5大国の一端を担うアメリカが参戦した事により、名実ともに世界大戦となった。なお、これに先がける8月にはアメリカとイギリスが大西洋憲章を発表していた。
この大敗北の余波もあり、対ソビエト戦線においてモスクワの直前まで迫っていたドイツ軍は徐々に後退を始めることになる。またこの頃、北アフリカのエル・アラメインの戦いにおけるイギリス軍などの連合軍に対する敗北など、北アフリカ戦線においての形勢も逆転しつつあった。これらの各方面における相次ぐ敗北により、同盟国として頼りないイタリア軍はいるものの、事実上一国のみでヨーロッパ戦線において連合諸国軍と戦うドイツは自らの攻勢の限界を見ることとなり、この頃より、対ソビエト戦や北アフリカ戦での連合国軍に対するドイツの勢いが徐々に収まってゆく。
また、この頃ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートがイギリスとアメリカ合衆国を結ぶ海上輸送網の切断をねらい、北大西洋付近を中心に多くの連合国の艦船を沈めた他、アメリカ合衆国やカナダの大西洋沿岸やカリブ海沿岸にも度々その姿を見せ多くの艦船に攻撃を加えるなど大きな脅威を与えた。しかし、その後アメリカ、イギリス両海軍が航空機や艦艇によるUボート対策を強化したために、逆に多くのUボートが沈められることとなり、その勢いは急速に削がれることとなる。一方で北アフリカ戦線ではロンメル将軍率いる、ドイツ・イタリア連合軍が快進撃を続けた。
なお、この年の7月から、1933年の選挙での勝利による政権取得以降、国民の支持を元にユダヤ人迫害政策を進めていたドイツ政府による、ポーランドやユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキアなどのドイツ軍の占領域内のゲットー住民に対するアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への移送と、ガス室などを使った大量殺戮が始まり、ドイツによるユダヤ人絶滅計画・ホロコーストの実行が本格化することになる。
ドイツによるユダヤ人への大量殺戮は、ドイツの敗色が濃くなりドイツ全土が連合国に占領される直前の1945年初頭まで継続的に行われた。最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にもシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者など数万人も含まれる)の死者は数百万人にわたると言われている。
連合国軍の本土上陸を許した上に、植民地のエチオピアを含む北アフリカでの戦いにも敗北し、連合軍に対して完全に劣勢に立たされたイタリアでは、元駐イギリス大使でムッソリーニと関係の深かった王党派のディーノ・グランディ伯爵が、7月24日に行われた大評議会において開戦とその後におけるムッソリーニの指導責任を追及した。この動きに対しムッソリーニの義理の息子でもあるガレアッツォ・チアーノ外務大臣ら多くの閣僚がこれに賛同し、孤立無援となったムッソリーニは失脚、同日憲兵隊に逮捕され即座に投獄された。
逮捕されたムッソリーニの後任として国王エマヌエーレ3世に任命されたピエトロ・バドリオ元帥率いる新政権は、9月8日に連合軍に対して休戦した。しかし、逮捕された後に新政権によってアベニン山脈のグラン・サッソホテルに幽閉されたムッソリーニは、同月12日にヒトラー直々の任命により救出に駆けつけたナチス親衛隊のオットー・スコルツェニー大佐が率いる特殊部隊によって救出された。その後、かつての盟友であったヒトラーの保護下に降ったムッソリーニは、まだ連合軍の侵攻を受けていなかった北イタリア地域でナチス・ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国(サロ政権)」の樹立を宣言し、同地域は直ちにドイツの支配下に入ることとなった。
なお、このイタリアにおける戦いと、その後のヨーロッパ戦線における戦いでは、アメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団が、アメリカ軍における人種差別を跳ね除け、死傷率314%という大きな犠牲を出しながらもアメリカの陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど、歴史に残る大きな活躍を残している。
また、この頃より完全に勢いを失ったドイツ軍に対して連合軍が指導権を握った北アフリカ戦線では、フランスの降伏以降自由フランスを指揮していたド・ゴールが、アルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地を中心とした北アフリカ戦線で、残存していたフランス軍を率いてイギリス軍やアメリカ軍などの連合国軍と協調しながら対独抗戦を指導した。
この年に、カサブランカとカイロ、テヘランにて、イギリス、アメリカ、中華民国、ソビエト連邦などの連合国各国の首脳による、今後の戦争の方針と戦後の処理が話し合われる会議が相次いで行われた。
連合軍は、フランスへの再上陸を果たした後はレジスタンスの協力を受け進軍を続け、8月には1940年以降ロンドンにあったフランスの亡命政権「自由フランス」の指導者であったシャルル・ド・ゴール将軍率いる自由フランス軍とレジスタンスを先頭にパリが解放され、後にフランス全土が解放された。連合軍によってフランス全土が解放されたことにより親独的中立のヴィシー政権は崩壊し、ヴィシー政権の指導者であったフィリップ・ペタン将軍は逮捕され、その後死刑判決を受けた。また、ドイツ軍の占領に協力したいわゆる「対独協力者」の多くが死刑になったり国外に逃亡した。
なお、ノルマンディー上陸作戦と同時期に、東部戦線においてソビエト連邦軍によりバグラチオン作戦が行われ、この戦いにおいて虚を突かれたドイツ中央軍集団は崩壊し、勢いをつけたソビエト連邦軍はドイツとの国境付近まで迫った。敗北を重ねるドイツでは、ヒトラーを暗殺して連合軍との講和を企む声が日増しに増し、7月20日には、予備軍司令部参謀長のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵らを中心にした反乱グループによるヒトラー爆殺計画が実行されたが失敗した。度重なる暗殺計画の発覚に疑心に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約4000人を処刑させた他、アフリカ戦線の指揮官で陸軍元帥でもあるエルヴィン・ロンメルを暗殺グループの一員と疑い自殺に追い込んだ(なお、陸軍の英雄であるロンメルの死の真相は公にされず、戦傷によるものと発表され祖国の英雄として盛大な国葬が営まれた)。
この後、ドイツ軍は、ベルギーのアルデンヌ地方の森林地帯を舞台としたバルジの戦いで西部戦線において最後の反攻を試みる。ドイツ軍は、連合国軍に比べ圧倒的に少ない戦力ながらも、綿密に計画された反攻計画が功を奏し、突然の反撃にパニックに陥った連合軍を一時的に押し戻した。しかし、その後体勢を立て直した連合国軍の反撃に遭うと後退を余儀なくされるなどドイツ軍は東西から攻勢を受け次第に撤退を余儀なくされる。
またこの頃、度重なる敗北で完全に劣勢に陥ったドイツ軍は、かねてから開発中であった世界初ジェット戦闘機であるメッサーシュミットMe262や、同じく世界初の飛行爆弾であるV1飛行爆弾と、次いで超音速で飛行する世界初の弾道ミサイルであるV2ロケットを実用化させ、イギリスおよびヨーロッパ大陸へ次々と上陸してくる連合軍に対し使用したものの、圧倒的な物量を元にすでにヨーロッパ大陸内に深く入り込んだ連合軍の勢いを止めるには至らなかった。
その後ライン川を突破されたドイツ軍は、3月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と、ハンガリー領内の油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な連合軍の物量を前に失敗する。この作戦により完全に兵力を失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、連合軍の侵攻が近いドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発するが、アルベルト・シュペーア軍需相は聞き入れずほぼ回避された。なお、この頃以降ヒトラーはラジオ放送も止めベルリンの地下壕にとどまり、国民の前から姿を消すことになる。
度重なる敗北で反抗の力をほとんど失い敗走を重ねるドイツ軍は、東のソビエト軍と西のイギリス、アメリカ軍の両方から挟み撃ちにあい、4月16日から17日にかけて、正面のゼーロウ高地以外の南北の防衛線を大幅に突破された。また、同時期にはソビエト軍に首都であるベルリンに迫られ、4月後半に入ると完全に包囲されるまでに陥った。この様な状況下でドイツ軍は、武器らしい武器すら持たない少年や老人の志願兵を中心に最後の抵抗を進めていた。なお、この際に、ベルリンに多くのチベット人僧侶がおり、その殆どがベルリン陥落後に自決したことが戦後明らかになっている。このチベット人達は、大戦前に二十世紀の神話という本に影響を受けたヒトラーが、アーリア人のルーツを辿ると称して頻繁にチベットに探検隊を送り、その後研究の為直々に招待したものであった。
この様な絶望的な状況の中、次期総統の座を狙うマルティン・ボルマンにそそのかされたヘルマン・ゲーリングは4月23日にヒトラーに指導権を要求し、その結果ヒトラーが激怒しゲーリングは失脚。その上でヒトラーはオーベルザルツブルグの警察指揮官にゲーリング逮捕を命令するが、まもなくゲーリングが連合軍に投降したため果たされなかった。
なお、枢軸国の同胞であり、イタリアの降伏後はドイツによる傀儡政権の首領となっていたムッソリーニは、ドイツ軍とともに逃亡している最中にイタリア国内でパルチザンによって捕らえられた。その後4月28日にパルチザンによって愛人のクラレッタ・ぺタッチとともに処刑され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。
長年共にいた側近の多くが降伏、もしくは国内外に逃亡し追い詰められたヒトラーは、4月30日にベルリンの地下壕内で前日に結婚したエヴァ・ブラウンとともにピストル自殺し(毒薬を飲んでとの説もある)、死体は遺言に沿って焼却処分にされた。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にカール・デーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチス党首および遺言執行人にマルティン・ボルマン党総務局長を指定した。しかし、ソビエト軍がその後スターリンの指示によりヒトラーの遺体を発見したことを隠し続けたため、ヒトラーが国外逃亡したのではないかという疑惑を呼ぶことになる。
その後、5月8日にヒトラーの遺言に基づき、ヒトラーの跡を継いで指導者となったカール・デーニッツ海軍元帥が連合軍に対して無条件降伏し、ここにヨーロッパでの戦争は終結した。なお、ドイツ降伏の直前に多くの高官がバチカン上層部などの助けを受けて南アメリカ方面やスペインなどの友好国に逃亡した他、多くの将兵が潜水艦などで南アメリカ方面に逃亡したため、ヒトラーもおなじく潜水艦でアルゼンチンやチリ、さらにはまだ戦いを続けていた唯一の同盟国である日本に逃亡したのではないかという噂が出ることになり、終戦後も暫くの間に渡り連合国によってヒトラーの捜索が行われた。
ヨーロッパ戦線の終結に伴い、同年2月に行われたヤルタ会談に次いで、7月17日からは日本降伏後の処理を話し合うためのポツダム会談が、イギリスのウィンストン・チャーチル首相(会談途中に選挙で政権が労働党に交代し、クレメント・アトリーと交代する) と、4月12日のルーズベルト大統領の急死にともない副大統領から昇格・就任したアメリカのハリー・S・トルーマン大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相出席のもと行われる。
その後、12月8日に大日本帝国海軍(日本海軍)によって行なわれたハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃や、同日行なわれたタイ国国境に近いイギリス領マレー半島のコタバルへの陸軍部隊の上陸と、二日後のイギリス海軍艦隊に対するマレー沖海戦などの連合軍に対する戦いで日本海軍は大勝利を収めた。なお、これらの作戦は、これに先立つ11月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の杉山元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。しかし、来栖三郎特命全権大使によるアメリカ政府への宣戦布告が、駐アメリカ大使館の書記官のタイプ遅延などのために外務省の指令時間より1時間近く遅れたため、結果として真珠湾攻撃が「宣戦布告なしのだまし討ちである」と、その後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝されることとなった(なお、1939年9月のドイツとソビエト連邦によるポーランドへの攻撃は完全に宣戦布告が行なわれかったにも関わらず、この様に喧伝されることはなかった。更に言えば戦時国際法では最後通牒を事実上の宣戦布告とみなすことができるとするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられた時点でこれは宣戦布告に等しいとみなす考えもある。最後通牒の項も参照されたし。)。
日本海軍は、真珠湾を起点にするアメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦が真珠湾外に出ており、航空母艦とその艦載機を1隻も破壊できなかったことが後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。また、当時、日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。
しかし、それに対してフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していただけでなく、本土西海岸へ上陸された際の中西部近辺への撤退計画とその後の反撃計画の策定まで行っていた。なお、日本の攻撃を受けルーズヴェルト大統領は、攻撃を受けた翌日に議会において日本に対する宣戦布告決議を行い、宗教的理由で反対票を投じた議員1名を除く全会一致で可決した。
一方、真珠湾攻撃より二日後に行われたマレー沖海戦においてイギリス海軍は、日本海軍機の巧みな攻撃により、当時最新鋭艦であった戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に失った。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる戦艦の撃沈であり、その後の世界各国の戦争戦術に大きな影響を与えることとなる。なお、後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、この事が「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。
この後日本軍は、連合軍の拠点(植民地)であるマレー半島(イギリスの植民地)、フィリピン(アメリカの植民地)、ボルネオ(現カリマンタン)島(イギリスとオランダの植民地)、ジャワ島とスマトラ島(オランダの植民地)などにおいてイギリス軍・アメリカ軍・オランダ軍などの連合軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、日本陸軍も瞬く間にイギリス領であったシンガポールやマレー半島全域、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの重要拠点を奪取した。なお、このような状況下でフランス本国政府のドイツ軍への降伏に伴う前年の日本軍の進駐以降、ジャン・ドクー提督率いるフランス領インドシナの植民地政府は、日本とヴィシー政権の友好条約に基づき日本との協力関係を継続し、日本に対し戦略物資となるゴムや石炭、米などを供給し続ける。
これに先立ち日本軍は、中国戦線において北京や上海などの主要都市を占領し、中国国民党の蒋介石総統率いる中華民国政府の首府である南京をも陥落させたが、アメリカやイギリス、ソ連邦からの軍需物資や人的援助を受けた蒋介石は首府を重慶に移し、国共合作により中国共産党とも連携して徹底した反日抵抗戦を展開した。日本軍は、豊富な軍需物資の援助を受け、地の利もある国民党軍の組織的な攻撃に足止めを受けた他、また中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦争を駆使し、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、各地で寸断され泥沼の消耗戦を余儀なくされた。
なお、満州帝国(1932年に日本の協力の元に設立された「五族協和」を国是とした日本の事実上の傀儡政権)や中華民国南京国民政府(1938年に日本の協力の元に汪兆銘を首班として設立された政権)も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。
2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍の伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。
日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。まもなく山下奉文大将率いる日本陸軍がイギリス領マラヤに上陸し、2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールが陥落する。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した。また、この頃、日本海軍はアメリカの植民地であったフィリピンを制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。
同月には、当時イギリスの植民地であったビルマ(現在はミャンマー)方面に展開する日本陸軍に後方協力する形で、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加えを撃沈した(セイロン沖海戦)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、同じくイギリスの植民地であったアフリカ東岸のマダガスカルまで撤退することになる。しかし、日本海軍はこれを追いマダガスカルのディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス軍の戦艦を1隻大破、タンカーを沈没させるなど大きな被害を与えた。なお、日本陸軍も3月中にビルマの首都であるラングーンを占領し、日本は連戦連勝の破竹の勢いであった。
その後の方針について日本の陸軍と海軍は意見が分かれたが、4月のアメリカ海軍機による突然のドーリットル空襲により、アメリカ海軍機動部隊を制圧するためミッドウェー島攻略が決定される。その後6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍はアメリカ海軍の空母1隻を撃沈したものの、作戦ミスによりアメリカ空母艦載機による攻撃で空母4隻を失うなど開戦後初の敗北を喫した。空母と多くの艦載機を失ったこの敗北は、翌年になり前線が延びきった日本海軍をじわじわ痛めつけることになる。なお、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするために、この海戦における敗北の事実をひた隠しにする。
また、アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機である零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲し、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。なお、アメリカ政府は、相次ぐ敗北に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与えないために、この爆撃があった事実をひた隠しにする。これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたアメリカ海軍の船艇1隻を撃沈した。
5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。その結果、連合軍はアメリカの空母レキシントンを失うなど一方的な損害を負い敗北した。8月にアメリカ海軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島及びガダルカナル島に上陸し、航空基地を占領した。これ以来、日米両軍の間でガダルカナル島を巡る戦いが始まる。また、同月に行われた第一次ソロモン海戦でアメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍は日本海軍に敗北。10月に行われた南太平洋海戦でもアメリカ海軍は、日本海軍機の猛攻により空母ホーネットや駆逐艦を失った他、他の空母も航行不能に陥り多数の搭載機を喪失するなどの大損害を負い敗北した。これらの相次ぐ敗北のため、太平洋戦線におけるアメリカ海軍の稼働可能な空母は一時的に0隻となった。
なお、各地で激戦が続くこの頃、開戦により敵国に残された両陣営の外交官や駐在員、留学生やそれらの家族を帰国させるための交換船が、日本とイギリス、アメリカの両国との間に数回に渡り運航された。
4月18日には、日本の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将(戦死後元帥となる)が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報部による暗号解読を受けたP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国の宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1ヶ月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ軍の情報部により解読されており、アメリカ軍は日本軍の無線の傍受により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。
その後、7月にソロモン諸島で行われたコロンバンガラ島沖海戦でアメリカ海軍は、日本海軍艦艇の巧みな雷撃により駆逐艦グインが撃沈され、他にも駆逐艦1隻が大破、軽巡洋艦2隻が大破するなどの一方的な大敗を喫する。またこの頃、日本海軍の敗北に終わったガダルカナル島の戦いに続き、ニューギニア島では日本海軍とアメリカ、オーストラリア両海軍を中心とした連合軍の両海軍の激しい戦いが続いていたが、8月頃より少しずつ日本海軍の退勢となり、この年の暮れごろには日本軍にとって同方面最大のラバウル基地は孤立化し始める。戦いは南西太平洋方面の連合国軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦」により島嶼を奪い合うものとなリ、11月には南太平洋のマキン島とタラワ島における戦いに日本海軍が敗北し、同島がアメリカ海軍に占領されることになる。
日本の東条英機首相は、同月に満州国やタイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を内外に誇示した。しかし、この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北からようやく態勢を立て直した上、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく1国で戦う上、相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に問題が出てきた日本軍の勢力関係は急速に逆転して行く。
この頃、連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、アメリカが日本本土に本格的な空襲を行える長距離大型爆撃機(ボーイングB-29)を急ピッチで開発しているとの情報を密かに入手し、本土防衛のため及び戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。
しかし、6月にその最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに対し反撃すべくマリアナ沖海戦を起こすが、失策が重なりアメリカ海軍の機動部隊に敗北する。その後陸上では7月にサイパン島が陥落し、続いて8月にはテニアン島とグアム島が連合軍に占領され、即座にアメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより日本の東北地方の大部分と北海道を除くほぼ全土が本格的な本土空襲の脅威を受けるようになる。実際、この年の暮れには、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったB-29が東京にある中島飛行機の武蔵野製作所を爆撃するなど、本土への空爆が本格化する。なお、サイパン島陥落の責任を取り、戦前に首相に就任し参戦への音頭を取った東条英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職した。
この頃日本は、昨年末からの相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを失っていたものの、大量生産設備が整っていなかったこともあり武器弾薬の増産が思うように行かず、その生産力は連合軍諸国の総計どころかイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、戦闘機に積む純度の高い航空燃料や空母、戦艦を動かす重油の供給すらままならない状況であった。
この年の10月には、戦争初期に日本軍に大敗し、フィリピンからオーストラリアに逃げ去ったマッカーサーの威信をかけたフィリピン反攻作戦が行われた。これを阻止するために行われたレイテ沖海戦において、日本海軍はアメリカ海軍の空母3隻を撃沈するなどしたものの、圧倒的な手持ち戦力の差と指揮系統の乱れもあり空母4隻と戦艦3隻などの主力戦力を失うなど歴史的な大敗を喫し、ここに一時は世界最強を誇った連合艦隊は事実上壊滅する。なお、この戦いにおいて初めて特別攻撃隊が組織される。
その後、12月にフィリピンのミンドロ島沖で行われた礼号作戦(ミンドロ島沖海戦)で日本海軍はアメリカ海軍に対し勝利を収めるものの、もはや大勢に影響を与えることは出来ず、フィリピン全土は連合軍の手に渡ることになった。南方の要所であるフィリピンを失ったことにより、マレーやインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった。
日本軍は1940年のドイツによるフランス占領より、親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに進駐し続けていたが、前年の連合軍によるフランス解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、進駐していた日本軍は3月9日に「明号作戦」を発動してフランス植民地政府を武力によって解体し、インドシナを独立させた。なお、この頃においてもインドシナに駐留する日本軍は戦闘状態に置かれることが少なかったため、かなりの戦力を維持していたために連合国軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のために目立った戦闘行為を行なわなかった。
また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたものの、集結すると即座に日本軍に対しての攻撃を開始し、同時に他の勢力も一斉に蜂起しイギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を放逐した。
満州国は日本軍がアメリカ軍やイギリス軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたためにソ連邦の間とは戦闘状態にならず開戦以来平静が続いたが、この年に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中国領内から飛び立ったアメリカ軍機の空襲を受け始めた。
その後、5月7日には唯一の友好国であったドイツが連合国に降伏し、ついに日本は一国でイギリス、アメリカ、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙して行くことになる。その頃、アメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合軍は次に沖縄諸島に戦線を進め、多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。なお、沖縄戦は日本国内での降伏前における唯一の地上戦となった。連合軍側は6月23日までに戦域の大半を占領するにいたり、すでに濃厚であった敗戦の見通しを決定づけた。また、沖縄戦の支援のために片道の燃料だけを積み沖縄に向かった連合艦隊第2艦隊の旗艦である戦艦大和もアメリカ軍機の猛攻により4月7日に撃沈され、ここに日本艦隊は完全に壊滅した。
この様な状況に陥ったにもかかわらず、敗北による責任を回避しつづける大本営の議論は迷走を繰り返す一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて、日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだと唱えた。政府はソビエト連邦による和平仲介に期待してポツダム宣言を黙殺する態度に出た。このような降伏の遅れは、本土空襲の激化や沖縄戦、原爆投下などを通じて、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも甚大な惨禍をもたらすことになった。
この頃には、日本近海に迫った連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われるなど、日本海軍も反撃を行うものの、戦争経済に関する大局観を当初から欠いていた日本の降伏はもはや時間の問題となった。アメリカのハリー・トルーマン大統領は最終的に、本土決戦による自国軍の犠牲者を減らすという目的と、日本の分割占領を主張するソ連邦の牽制目的、さらに非白人種への人種差別意識も影響し史上初の原子爆弾の使用を決定。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われた。
その直後に、戦前より日ソ中立条約を結んでいた共産主義国であるソビエト連邦も、ヤルタ会談での他の連合国との密約ヤルタ協約を元に日ソ中立条約を一方的に破棄し、8月8日に対日宣戦布告をし日本及び満州国に対して参戦した(8月の嵐作戦)。また、ソ連軍の急な参戦により満州国を守るはずの日本の関東軍は総崩れとなり、組織的な抵抗も出来ないままに敗退し、逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。また、このソビエト参戦による満州と南樺太などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された(シベリア抑留)。その後この約60万人は国際法を無視したソビエト連邦によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した上に、満州・南樺太・朝鮮半島に住む日本人女性は流刑囚から多く結成されたソ連軍によって集団的に強姦されるなどして日本は多大な被害を被った。
このような事態にいたってもなお日本軍部指導層は降伏を回避しようとし、御前会議での議論は迷走した。しかし昭和天皇の和平を尊重するという意思を受けた日本政府は、8月14日にポツダム宣言の受諾の意思を提示し、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された。
敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明に宮内庁などを襲撃する事件を起こしたものの、玉音放送の後には、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊したりして抵抗した他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。
翌日には、連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かうなど、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土の略奪を画策していたスターリンの命令によりソ連軍はその後も停戦を無視し、8月末に至るまで南樺太・千島・満州国への攻撃を継続し、後の北方領土問題を引き起こす原因をつくった。また、日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した溥儀皇帝は日本への逃命を図るも、侵攻してきたソ連軍によって身柄を拘束された。
その後8月28日に、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として日本占領に当たることになるアメリカのダグラス・マッカーサー陸軍大将も同基地に到着した。
9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ戦艦ミズーリにおいてイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなど連合諸国17カ国の代表団の臨席の元、日本政府全権重光葵外務大臣と大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに、1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。
一方朝鮮半島では、撤退した日本に替わり、38度線を境に南をアメリカをはじめとする連合国が、北をソ連が統治することになり、その後それぞれ大韓民国と北朝鮮として独立を果たす。しかし、ソ連のスターリンの承認を受けた金日成率いる北朝鮮軍が1950年に突如、大韓民国に侵略を開始。ここに朝鮮戦争が勃発することになる。なお、開戦後50年以上経った現在も南北朝鮮の間の戦争は公式には終結しておらず、北朝鮮と大韓民国側に立つ国連軍との間で一時的な休戦状態が続いている。
日本は、「アジアの列強植民地の解放」と言う名目で、当時列強諸国の植民地であったマレー半島やシンガポール、中国大陸などアジアのほぼ全域に進出、これを解放した。支配地域のなかのいくつかの国々では、日本に友好的な指導者を前面に立てて独立の支援を行った。
しかしその反面、現在中国大陸を統治する中華人民共和国や大韓民国、北朝鮮といった当時、併合した国や保護下に置いた3国との間に非常に強い遺恨を残す事になり、現在もそれに纏わる問題で日本側が非難される事が多い(現在においてもこの様に日本に対する非難を繰り返し行なっているのはこの3国のみであり、その原因として、これらの政府が日本への非難を繰り返すことで愛国心を鼓舞するとともに、自らの内政の失敗による国民の批判を逸らすためのいわば「ガス抜き」として行なっているという説が他のアジア諸国や欧米諸国の間では有力となっている)。
この様に、植民地や統治領ではない独立国家の憲法が諸外国の主導で作成、公布され、その後も使われつけているのは歴史上例を見ない上、内容が国際協力体制による平和維持という現状にそぐわなくなっている事もあり、近年になって、自らの手によって憲法を作り直そうという議論が盛んに行われるようになっている。
一方で、タイへの勢力進出をねらっていたイギリスは敗戦国として処理した。これにより、タイ王国はフランス領インドシナの一部、イギリス領マレーおよびビルマの旧領土を再びフランス、イギリスに取られた形となったが、連合諸国による本格占領とこれに乗じた植民地化を免れ、続いて独立国としての立場を堅持する事になった。
ところが、旧植民地の再支配を謀るフランスは独立を認めず、9月末にはサイゴンの支配権を奪取したことで、ベトミンと武力衝突した。その後、ベトミンはフランスとの交渉による解決を試み、1946年3月にはフランス連合内での独立が認められた。だが、フランスはベトナムが統一国家として独立することを拒否し、コーチシナ共和国の樹立などベトナムの分離工作を行なった。これにより、越仏双方が抱く意見の相違は解決されず、同年12月にハノイで越仏両軍が衝突したことで、第一次インドシナ戦争が勃発した。
この戦争には、元日本軍将兵、約2000名が義勇兵として独立軍に参加している。インドネシアの国営英雄墓地では、その戦争により戦死した約1000名の日本軍将兵が埋葬され、6人の日本人が独立名誉勲章(ナラリア勲章)を受賞した。この戦争の結果、1949年12月のハーグ円卓会議により、オランダは正式にインドネシア独立を承認した(ハーグ協定)。
インドネシアは、日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)締結時に、オランダが日本のオランダ領東インドに対する軍事侵攻に対して「被害者」の立場をとり、その後、賠償責任の枠を超えて日本に個人賠償を請求したことに対して、「(オランダは、侵攻してきた日本に対し被害者ぶるが)インドネシアに対しての植民地支配には何の反省もしていない」として強く批判している。
イギリスは、1946年に発足したマラヤ連合との間で1947年にマレー人の特権を認める連邦協定を結び、1948年にマラヤ連邦が発足した。しかし華僑はこれに不満で、同年主として華僑から成るマラヤ共産党の武装蜂起が始まった。しかし、その後各民族系政党が集まった連盟党が結成され、1955年7月の総選挙で圧倒的な勝利を収め、1957年8月31日にマラヤ連邦はマレーシアとして完全独立を果たした。
一方、シンガポールは戦後イギリスの直轄植民地となり、その後は自治国となり完全独立をめざすこととなった。サラワクと北ボルネオも戦後イギリスの直轄植民地となり、段階的に自治の供与が始まった。多大な地下資源を持つブルネイは保護領のままで、その独立は1980年代まで持ち越されることになった。
その他にも、ヒトラーお抱えの映画監督と言われたレニ・リーフェンシュタールや、ナチス占領下のフランスで、ナチス高官の愛人の庇護のもと自堕落な生活を送っていたココ・シャネルなど、国籍を問わず、ドイツの犯罪行為に加担した芸術家や実業家なども戦後罪を問われ、活動を禁止された者が数多くいた。
この様な政府高官の大量逃亡は、日本など他の枢軸国では見られなかったことから、これらの逃亡したドイツ政府高官らが一時的に他国に逃れてナチス党の再興を目指すのではないかという疑念を呼んだ。
また、ユダヤ人に対する人種差別や積極的な軍拡を売り物にしたナチス党を選挙で合法的に支持・選択し、ユダヤ人の絶滅政策やその他の民族に対しての抑圧、近隣国への侵略を積極的に後押しした当時のドイツ国民に対する批判は多い。しかし、現在のドイツ政府は、基本的には謝罪の姿勢を積極的に示し諸外国への賠償を行ったものの、同時に「それらの政策はナチス党が行ったもので、それを支持し選挙で選択した国民に罪はない」というような矛盾した姿勢を取るため、罪をすでに消滅したナチス党に押し付けることで、国民自らの責任を逃れようとする二枚舌的な姿勢であるという批判が多い。
アメリカのダグラスDC-3やボーイングB-17に代表されるような、量産工場での大量生産を前提として設計された大型航空機の出現による機動性の向上は、ロジスティクス(兵站)をはじめ戦場における距離の概念を大きく変えることになった。また、ジープなどの本格的な4輪駆動車の導入やバイクやサイドカーの導入など、地上においても機動性に重点をおいた兵器が数々登場し、その技術は広く民間にも浸透している。
なお、この様に参戦によってもその差別構造が変わらなかったのは、主に暗号担当兵として多くが参戦したネイティブ・アメリカン(インディアン)も同様であった。
また、対日戦の開戦後、ルーズベルト大統領の指示による日系人の強制収容など、黄禍論に代表されるアメリカにおける日系人に対する差別はより酷くなった。この問題は第二次世界大戦におけるアメリカの汚点の一つであり、問題解決には戦後数十年かかることになる。一方では第442連隊戦闘団などの日系アメリカ人部隊の果敢な戦いぶりは、戦後日系アメリカ人に対する見方を大きく変える原動力となった。
また、敗北した日本軍の武器が、戦後の権力の空白時に独立運動を進める現地の運動家の手に渡ったことなどから、その後の独立運動にとって大きな影響があった。なお、この戦争において戦場とならなかったサハラ以南のアフリカ諸国の独立運動がアジア地域の独立運動から遅れたことは、この戦争の存在と大きく関係しているという意見もある。
しかし戦後の冷戦構造の中でアメリカは、「反共産主義的」であるとの理由だけで、チリやボリビアなどの中南米諸国や、フィリピンや南ベトナムなどのアジア諸国のファシズム的な軍事独裁政権を支援し、その結果これらの国は長きに渡り混乱と貧困の中に置かれた。また、日本占領における過程では暴力団を自らのための暴力組織として使い、他にも東条内閣の商工大臣であった岸信介や、中国大陸で海軍の衣を借りて現地人に対する略奪行為を指揮していた児玉誉士夫などを一度は戦犯として処遇したものの、自らに対し従順で利用価値があるとみるや釈放し復権させるなど、大戦の結果影響圏となった国々で自らの利益のための行動を行なった。
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