第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英: World War I, 独: Erster Weltkrieg)は1914年から1918年にかけて戦われた初めての世界規模の大戦争である。ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の大多数の国が参戦した。諸国はドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリアの同盟国(英語では中央同盟国と称する)と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国(協商国)の二つの陣営に分かれ、日本、イタリア、アメリカも後に連合国側に立ち参戦した。勃発時は短期戦に終わると見られていた戦争は国家経済を総動員する総力戦となり、従来の常識をはるかに超える物的・人的被害をもたらした。戦争終結時には史上二番目に流血の多い戦争として記録された(史上一位は太平天国の乱)が、この記録は第二次世界大戦によって塗り替えられることになる。900万人以上の兵士が戦死し、それ以上の人数が食糧不足と虐殺のために銃後で死亡した。また初めて大規模な空爆が行われ、20世紀における大規模な非戦闘員殺害の先駆けとなった。
当初戦争は速やかに(「クリスマスまでには」)終わると思われていた。しかし大量の機関銃の組織的運用に代表される兵器の攻撃力の増加により、従来行われていた騎兵や歩兵による突撃では大量の兵士を浪費するだけになった。その結果弾幕を避けるために塹壕を掘りながら陣地を進め、後方からは敵塹壕を重砲で砲撃する戦闘が主流となった(塹壕戦)。塹壕は互いに相手の裏側に回り込もうと掘り進められ、大西洋からスイス国境に至る長大な陣地が構築された。塹壕戦により敵陣突破は不可能となり、戦線は膠着。戦争の長期化は交戦国に国家総力戦を強いることとなった。
国力に劣る同盟国が長期戦により経済が停滞した。1918年に入るとトルコ、オーストリアなどが降伏し、1918年11月にドイツのキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結した。
この様な状況について、当時のイギリス海軍大臣で後に首相となったウィンストン・チャーチルは、「第一次世界大戦以降、戦場から騎士道精神が失われ、戦場は単なる大量殺戮の場と化した」と評した。
オーストリア継承戦争による敗戦後、"1867年のアウスグライヒ"によりオーストリア=ハンガリーが誕生し、ハプスブルク家はオーストリア皇帝およびハンガリー王となる一方、ハンガリーは議会を獲得し一定の地方自治権を得た。この妥協は帝国の維持のためにフランツ・ヨーゼフ1世および他のドイツの貴族によって同意された。しかしこの改革によっても帝国内の民族問題は解決されなかった。当時の二重帝国内には少なくとも9言語を話す16の民族グループおよび5つの主な宗教が存在していた。
政府を主導するオーストリア人およびハンガリー人は、台頭するスラブ人の民族主義に深い疑いと憂慮を持って見ており、1912年から1913年にかけて行われたバルカン戦争の結果、隣国のセルビアの領土が約2倍になったことを警戒していた。一方でセルビアの民族主義者はオーストリア=ハンガリー帝国の南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。この民族主義的政策は、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアにおいて一定の支持を与えていた。オーストリア政府や軍は、帝国南部におけるセルビア人民族主義運動が帝国内の他の民族グループへと伝播し、さらにロシアが介入する事を危惧していた。
6月28日に発生したサラエボ事件に対し、オーストリアのレオポルド・フォン・ベルヒトルト外相は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7月23日セルビア政府に10箇条の最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア政府はオーストリア官警を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、最後通牒の要求すべてに同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日国交断絶に踏み切った。躊躇するイシュトバン・ティサ首相と皇帝の反対を押し切る形で7月28日にセルビアに対し宣戦布告が行われた。
ロシア政府は1909年にオーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していたが、皇帝ヴィルヘルムとロシア皇帝ニコライ2世(戦争準備を主張する軍部に圧力を掛けられていた)の間の重大な電報交渉(「ウィリーとニッキー」書簡として知られる)の決裂を受けて、7月30日にその予備軍を動員した。
ロシアはオーストリア・ハンガリー帝国のセルビアへの宣戦布告に対して、部分動員では手遅れになる場合を想定し、7月31日総動員令を布告した。7月31日ドイツはロシアに動員解除を要求したが、ロシア政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻すことは難しいと考えたため、要求に応じなかった。
独墺同盟に基づき相談を受けたオーストリア・ハンガリー帝国に対し、ドイツ政府はセルビアへの強硬論を説いた。ロシア帝国が総動員令を発すると、露仏の二正面作戦を強いられるドイツは、ロシアの動員が完了するまでに西部戦線において決定的な勝利を収めるもくろみから、参謀総長小モルトケがシュリーフェン・プランに基づき8月1日総動員を発令し、同時にベルギーに対し無害通行権の要求を開始するなど、3大国を相手にした戦争の準備を開始した。翌日にはロシアに対し宣戦布告が行われた。
フランスは露仏同盟とドイツのベルギー侵入を受け参戦した。
イギリスは伝統的にブリテン島対岸のフランドルを中立化させる政策を実行してきた。1839年のロンドン条約においてイギリスはベルギー独立を保証していた。ドイツがベルギーに侵入したのを確認するとイギリス政府は外交交渉を諦め8月4日にドイツに宣戦布告した。
戦艦ドレッドノート建造を機に発生したドイツとの建艦競争と植民地を巡る対立から、ベルギーの中立に関わらずイギリスの参戦は不可避であったとの意見も存在する。
モンロー主義を掲げるアメリカは交戦国との同盟関係は無いために大戦に参加する理由も、直接国益に関わる程の影響もなかった。さらに開戦時にアメリカは中米諸国においてメキシコ革命に介入するなど軍事活動を行っていたため、当初は中立を宣言していた。政府のみならず、国民の間にも孤立主義を報じる空気が大きかった。大戦中には両陣営の仲介役として大戦終結のための外交も行なっていた。
しかしルシタニア号事件やドイツの無差別潜水艦作戦再開、チンルマン電報事件を受け、世論ではドイツ非難の声を高まりウィルソン大統領は連合国側に立ち参戦を決定した。またフランスやイギリスが敗北した場合に両国への多額の貸付金が回収できなくなることを恐れたとの見方もある。
日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった日本は、イギリス政府から要請されて連合国側として参戦した。当時の総理大臣大隈重信は派兵要請を受けると御前会議にもかけず、軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定してしまった。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍の関係悪化を招くことになる。
北欧諸国は、大戦中一貫して中立を貫いた。1914年12月18日スウェーデン国王グスタフ5世は、デンマーク、ノルウェーの両国王を招いて三国国王会議を開き北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただしロシア革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している。
一方ヨーロッパにおいてはドイツとオーストリア=ハンガリーの間で、緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツは開戦前にオーストリア=ハンガリーのセルビアへの侵入を支援することを保証していたが、ロシアとフランスの参戦が明らかになると、シュリーフェン・プランに基づきドイツが西部戦線でフランスと対峙する間にオーストリア=ハンガリーがその軍隊の大部分をロシアに対して集中させる計画を立てた。対セルビア戦を準備していたオーストリア=ハンガリー軍は既に動員が完了していた軍を北方のロシア軍に対峙するために分割せざるを得なくなった。南から進軍するセルビア軍は1914年8月12日にツェルの戦いでオーストリアの陸軍に遭遇した。
セルビア軍は、オーストリアに対する防御陣地を構築し、8月16日にオーストリア=ハンガリー第21師団と、セルビア軍混成師団の間で戦闘が発生した。夜戦を含んだ激しい戦闘は一進一退を繰り返し、ステパ・ステパノヴィチがセルビアのラインを回復するまで続いた。3日後にオーストリア軍は、16,000人のセルビア側死傷者に対して、21,000人の死傷者を受けドナウ川を渡って退却した。これは戦争における連合軍の初めての勝利であった。オーストリアはセルビアを除去するという主目標を達成できず、ロシア戦線に加え二正面におよぶ戦闘を強いられることになる。
事前に策定されていたドイツの防衛計画(シュリーフェン・プラン)は、まずフランスを倒し、そして次に動員の遅いロシア軍に対処するという戦略であった。対フランス戦においては、両国の国境を通過して東フランスに直接侵入するのではなく、ベルギー・オランダを通過して北フランスへ侵入することを決定していた。ドイツ政府はベルギー政府にたいして無条件通過権を要求した。ベルギーはこれを拒絶し、ドイツ軍はルクセンブルクを占領した後ベルギーに侵攻した。ベルギー政府はドイツに宣戦布告し、ベルギーの都市リエージュを中心として軍を配置したが質量ともにまさるドイツ軍に圧倒された。イギリスは、陸軍大臣にホレイショ・キッチナーを任命し、フランスへ英国遠征軍 (BEF) を派遣した。フランドルにおいてドイツ軍と英仏両軍の最初の戦闘が行われ、このフロンティアの戦い(1914年8月14~24日)でドイツ軍は大勝利を収めた。
しかしベルギー、フランスおよびイギリス軍の抵抗による遅延と、予想外に迅速であったロシアの動員により事前の計画との間には差が生じつつあった。ロシア軍はまず動員の完了した二軍をもって東プロイセンを攻撃した。タンネンベルクの戦い(8月17日~9月2日)として名高い一連の戦闘においてパウル・フォン・ヒンデンブルク指揮下のドイツ軍はロシア軍を壊滅させた。しかし西部戦線においてはマルヌ会戦においてフランスと英国によりパリへの侵攻を最終的に阻止され、ドイツ軍は一時的に撤退した。その後ドイツ軍は占領したフランス北東部に防衛陣地を構築し持久戦へと移行した。これらの戦闘においてフランス、イギリス両軍は230,000人もの戦死者を数えた。
参戦国の国民は、戦争の興奮によって想像力を掻きたてられた。宣伝と民族主義の熱情に押されて、多くの人が冒険を求めて戦列に参加した。しかし彼らのほとんどがその前線において実際に遭遇する事に対する準備ができていなかった。
およそ800,000人のイギリス兵が常時西側戦線にいた。攻撃が進行中でない場合一ヶ月周期の4交代で運用するというシステムで、1,000個の大隊がベルギーからアーネまでの戦線のそれぞれ担当の防衛区域を占拠した。その戦線は6,000マイル以上の塹壕を持っていた。各大隊はおよそ1週間その防衛区域を担当し、その後支援ラインに移動、それから1週間予備ラインに入り、その後戦線外へ移動する体制だった。戦線外の時間はしばしばPoperingeあるいはアミアン地域で過ごした。
ロシア陸軍は一般にコーカサスに精鋭部隊を置いていた。トルコ軍最高司令官エンヴェル・パシャは非常に野心的な男で、中央アジアを征服する夢を持っていたが、実務的な軍人ではなかった。彼は1914年12月に100,000人の兵をもってコーカサスのロシア軍を攻撃し始めた。冬のさ中、山中のロシア陣地に対する正面攻撃を強行して、エンヴェルは彼の兵力の86%を失った。 1915年秋、新しいロシア軍前線指揮官ニコラス大公が新しい活力をもたらした。1916年の主要な攻撃によってトルコ軍を今のアルメニアの大部分から追い出したが、それは東アナトリアのアルメニア人住民に対する悲劇的な追放と虐殺の原因になった。ニコラスは黒海南岸の一部を制圧したことにより、補給を運ぶための鉄道の建設を進めた。彼は1917年春の攻勢のための準備ができていた。もしそれがそのまま進んでいたなら、かなりの確率でトルコは1917年夏の戦争で倒されていただろう。 しかし、ロシア革命のためにニコラス大公は解任され、ロシア軍はそれからまもなく崩壊した。
大筋では、イタリア軍は数で勝っていたが装備は貧弱だった。これに対し、オーストリア=ハンガリーの国防はたいてい山が多い地形を利用して攻撃を阻んでいた。氷雪戦線はその戦争の間大部分が何の進展もしなかった。一方、オーストリアのカイザーシュッツェンとシュタンドシュッツェンとイタリアのアルピニでは、夏の間は過酷な近接戦闘を行い、さらに冬の間はその高山中で生き残ろうとした。1915年の始めに、イタリア軍はイソンゾ戦線(トリエステに最も近い国境の一部)に17回の大攻撃を開始したが、すべては斜面の山側を持っていたオーストリア=ハンガリー軍によって挫折させられた。 1916年春、オーストリア=ハンガリーはアシアゴのアルトピアノからベローナとパドヴァに向かって反撃した (Strafexpedition) が、どちらもほとんど前進できなかった。夏に、イタリア軍はゴリツィアの町を攻略してイニシアティブを取り戻した。この小さな勝利の後は、いくつかのイタリアの攻撃にもかかわらず、イソンゾ前線は全体的に再び1年以上の間ほとんど安定したままでいた。 1917年秋に、東部戦線の状態が好転したおかげで、オーストリア軍は、ドイツ軍の強襲部隊を含む大きい増援を受け取った。10月26日に、彼らは決定的攻撃に着手し、カポレットーの戦いの勝利を得た。ここでイタリア陸軍は総崩れになったが、100キロメートル以上後退した後に再編成して、ピアヴェ川の戦いにおいて抵抗することができた。1918年にオーストリア軍はこのイタリア軍の防衛線を破ることができず、11月に協商軍に投降した。
オーストリア=ハンガリーの参謀総長コンラッド・フォン・ヘーツェンドルフは、イタリア人を国家への最大の脅威と見なして深い憎悪を持っていた。1914年のイタリアの裏切りが彼をますます逆上させた。彼のイタリア人への憎悪はいろいろな面で彼を盲目にし、対イタリア戦で戦略的、戦術的な愚かな間違いをいくつも犯した。
1917年3月に、サンクトペテルブルグで起こったデモンストレーションは、ロシア皇帝ニコライ2世の退位、および弱い中道派臨時政府(それはペトログラードのソビエトの社会主義者と連立していた)の指名で最高潮に達した。 このように権力を分散したことにより、戦線と国内の両方で手の付けられない大混乱を引き起こした。軍隊はドイツに抵抗するのには次第にそれほど有効でなくなった。 その間に、戦争と政府はますます支持を失った。また、ウラジミール・レーニンが指導するボルシェビキ党は、こうした不満を、権力を獲得するために戦略的に使用した。
11月のボルシェビキの勝利に続き、12月に休戦およびドイツとの交渉が行われた。 初めは、ボルシェビキは、厳しいドイツの条件を拒絶したが、ドイツが戦争を再開し、無傷でウクライナを横切った時、新政府は1918年3月3日にブレスト・リトフスク条約に同意した。それはロシアとの戦争を終結し、同盟国へフィンランド、バルト地方、ポーランドおよびウクライナを含む広大な領土を割譲するという内容だった。
ロシアが戦争から最初に離脱した後、協商国はロシアへの小規模侵入を行うに至った。この侵入は、第一次世界大戦から離脱したことに対するロシアへの懲罰、およびロシア革命に対抗する皇帝派を支援する意図で行われた。軍隊はロシアのアルハンゲリスクと、太平洋沿岸の別の都市に上陸した。初めは、協商軍はドイツの軍隊から補給物資を守るために上陸したと自称していたが、実際には、彼らは共産主義ロシア軍からそれらを守っていた。 この出来事を記念する記念碑が、ミシガン州トロイのホワイトチャペル墓地に存在する。 この軍は、ウラジオストックに拠点を置いた多くのカナダ人も含んていた。カナダ軍は砲兵を含んでいたが、ほとんど戦闘は行わなかった。
カポレットの戦いでのドイツの決定的勝利により、作戦と行動を調整するためベルサイユで連合国最高会議を組織することが、協商国側のラパッロ会議において決定された。 これ以前は、英国とフランスの軍隊は個別の指揮系統の下で行動していた。
12月に、同盟国はロシアとの休戦協定に署名し、東部戦線から西へ軍隊を転進させる。 皮肉にも、もし同盟国の獲得した領土がそれほど劇的でなかったならば、ドイツ軍はより多くの兵士を輸送できただろう。 西部戦線へ流れ込むドイツの増援軍と、新しいアメリカの軍隊によって、戦争の最終結果は西部戦線で決定されることになった。 同盟国は、もはや延長された戦争には勝つことができないこと、到着するアメリカ軍はますます多くなるのが確実なことを悟っていた。しかし、同盟国の増援および新しい歩兵戦術の使用により、西部戦線で迅速な攻勢に出ることに大きな望みを賭けていた。 更に、同盟国および協商国の指導者は、1899年にイヴァン・ブロッホによって始めて提示された脅威、すなわち工業化された戦争が長引くとヨーロッパ全土で社会崩壊と革命の可能性が高まることをより恐れるようになった。 彼ら双方とも崩壊や行き詰まりを恐れていたために、西部戦線での決定的かつ迅速な勝利を求めた。
1917年の初めにドイツは無差別潜水艦攻撃作戦を再開した。これがツィンメルマン電報に対する世論の怒りと合わさって、同盟国との国交断絶に至った。ウッドロー・ウィルソン大統領は米国議会へ対ドイツ開戦を宣言することを要請し、1917年4月6日に宣戦布告した。上院は戦争決議82-6、下院は決議373-50をもって認可した。ウィルソンは、オーストリア=ハンガリーとは別途平和を保ちたいと考えたが、オーストリア=ハンガリーはドイツへの忠誠を捨てなかったので、合衆国は1917年12月にオーストリア=ハンガリーに対し戦争を宣言した。 戦争へのアメリカの貢献は、特にヨーロッパで増大した合衆国のプレゼンスによって生じた脅威において、顕著であったけれども、合衆国は決して公式に協商国のメンバーであったことはなく「関連国」として参加していた。相当多くのアメリカの兵隊は1918年の夏にはヨーロッパに到着しただけであった。
米国陸軍と州兵はメキシコの「山賊」パンチョ・ビリャを追いかけるために、既に1916年に戦時体制を取っており、それが動員を速めるのに役立った。米国海軍は、英国艦隊に参加するためスカパ・フローに戦艦グループを送り、クイーンズタウンとアイルランドへは多くの駆逐艦を、アゾレス諸島とバントリー湾、アイルランドへはいくつかの潜水艦隊を、護送船団を支援するために送ることが可能であった。 しかしながら、米軍が西部戦線とイタリア戦線に大量の人的資源を寄付することが可能になるまでには若干の時間がいると思われた。
英仏は米国が歩兵部隊で戦線を強化することを強く主張した。その戦争を通じて、米軍自身砲兵、航空機と工兵が不足していた。しかしながら、アメリカ遠征軍指揮官ジョン・J・パーシング将軍はアメリカの部隊を割いて、同盟国が提案したような英仏部隊への増援隊として使うことに抵抗した。また、パーシングは英仏軍ではとうに使われなくなっていた正面攻撃に固執し、結果としてアメリカ遠征軍は1918年夏と秋の作戦で非常に高い死傷率を経験した。
1918年3月21日にミカエル作戦が発動、アミアンの鉄道合流点の英軍に対して攻撃を開始した。この時点ではルーデンドルフの狙いは英軍と仏軍を分断することであった。ドイツの軍隊は60キロメートルという空前の前進を達成した。戦場で行われた作戦行動は1914年以来これが初めてだった。
英仏軍の塹壕は新奇な浸透作戦で破られた。これ以前は、典型的な塹壕への攻撃は長距離砲の砲撃と連続的な前線の大量攻撃によって行われていた。しかしながら、春の攻勢では、ドイツ軍は短時間の砲撃を行い、弱点に歩兵を浸透させ、司令部と兵站エリアおよび強固な抵抗拠点の周囲の場所を攻撃した。それからこうして孤立した拠点を、より重武装の歩兵によって破壊した。ドイツの成功はこの戦術によるところが大きかった。
前線は今やパリの120キロメートル以内まで動いていた。3門のクルップ製超大型列車砲がパリに183発の砲弾を撃ち込んだ。このため多くのパリっ子がパリから脱出した。攻撃の最初の段階は非常に成功していたので、ウィルヘルム2世は3月24日を国民の祝日であると宣言した。多くのドイツ人が勝利が近いと思った。しかしながら、補給欠乏と消耗によりドイツの攻撃が止まった。1918年3月~4月のドイツの死傷者は270,000人に上った。
パーシングが独立した戦力と考えていた米師団が、3月28日に疲弊したフランスと英軍司令部に割り当てられた。ドゥラーズ会議において協商国軍最高司令部が作られた。 同会議で、英国の陸軍元帥ダグラス・ヘイグがフェルディナンド・フォックに彼の軍の指揮を委ねた。
ミカエル作戦の後、ドイツは北の海峡の港に向けたジョルジェット作戦を始動した。 これはそれほど重要でない領土を獲得しただけ終わった。その後ドイツ陸軍のブルヒャー作戦とヨーク作戦が、おおむねパリに向かって南方向に実施された。それからマルヌ作戦が、ランスを包囲する試みとして7月15日に始動され、第二次マルヌ会戦が始まった。これに対抗して行った同盟国軍の反撃は、この戦争初の同盟国の成功した攻撃を特徴づけた。1918年7月20日までに、ドイツ軍はカイザーシュラヒトのスタートラインにいた。この最後のフェーズが終わったあとは、ドイツ軍は再びイニシアティブを握ることはなかった。
一方、ドイツは内部でも崩壊が起こっていた。反戦デモは頻繁に発生し、陸軍の士気は低いレベルにあった。工業生産は1913年に比べて53%落ちていた。
1918年8月8日に、予期されていた反攻が起こった。それはマーク4とマーク5タイプの414台の戦車と120,000人を伴った。協商国軍はわずか7時間でドイツが押さえた領土の中に12キロ侵入した。エーリッヒ・ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍のブラック・デイ」と述べた。
ヒンデンブルク線を奪う試み(ムーズ・アルゴンヌ攻勢として知られる)は9月26日に起こった。260,000人のアメリカ兵がヒンデンブルク線に向かって突撃した。アメリカ連合国遠征軍第79番師団以外すべての師団は、当初の目的を獲得することに成功していた。第79師団はモンフォコンで厳しい抵抗に会って、前進することが不可能であった。この失敗が、ドイツ軍に回復して再編成することを許した。モンフォコンは9月27日に落ちたが、前日にそれを制圧できなかった失敗がキャンペーン全体で最も高価なミスの1つであることが分かった。
10月の始めまでは、ドイツ側にとって物事が計画通りに行かなくなったことは明白であった。多くの戦車が1度ならず故障しており、そして実際に使用可能であった戦車も、地形が戦車で進入できないとわかると戦車指揮官は戦車を破棄した。これにもかかわらず、ルーデンドルフは10月1日までにドイツには2つの出口があると決定していた。すなわち全滅か休戦かである。彼はそのまさに同じ日にベルギーのスパにおけるサミットにおいて上級の人物に後者を進言した。パーシングは同情的になること無しに、疲れ切り当惑しているドイツ人を10月じゅうずっとムーズ・アルゴンヌ前線に沿って襲い続けた。これは戦争の終わりまで継続した。
その間に、ドイツに敗北が切迫しているというニュースはドイツの軍隊の全体にわたって広がった。 反乱の兆しはおびただしかった。海軍提督シアーおよびルーデンドルフは、ドイツの海軍の士気を回復する土壇場の試みを始めることを決定した。 彼は、どんな作戦もマックス・フォン・バーデンの政府によって拒否されると知っていた。したがって、彼はバーデンに通知しないことに決めた。 口頭その他の手段により、切迫した攻撃の情報はキールの水兵まで届いた。 水兵の多くは非公式の外出をとった。つまり自殺の企て以外の何ものでもないとしか思えない攻撃に参加することを拒絶したのだった。 このために滅亡したのは主にルーデンドルフだった。10月26日に皇帝は彼を解任した。
しかしながら、1918年9月の終わりから、ルーデンドルフは彼自身の策略を仕組んでいた。彼自身は伝統主義的保守主義者であったけれども、彼はドイツを「民主化」する新しい改革を提起することによって、政治改革を刺激することを試みることに決めた。皇帝の統治は継続するので君主制主義者もを満足させることができるであろうと踏んだ。彼は、民主化によってドイツ国民に対し政府が変革する準備があることを示し、これが1917年にロシアで見られたような社会主義者スタイルの反乱を起こすチャンスを減らすだろうと信じた。しかしながら、一部の歴史家はルーデンドルフがこの行動に隠れた動機を持っていたと信じている。 彼の改革は、帝国議会のメンバー、特に、当時はマッテヤ・エルツベルガーが率いる与党中道派、リベラル派と社会民主党にもっと多くの権力を手渡すことだった。 したがって、ルーデンドルフがこれらの政党により多くの権力を手渡すことにより、彼らは休戦を求める権限を持つことになる。5,989,758人ものドイツ人死傷者(うち負傷者4,216,058人、死亡者1,773,700人)を出した以上は、彼らに休戦以外の手はなかった。しかしその直後、ルーデンドルフは劇的な心変わりをし、彼が権力を手渡したまさしくその党こそドイツを戦争で敗北させたのだと主張し始めた。これらの政治家は「ドイツを背中から刺した」ことにされた。マックス・フォン・バーデン公爵(社会民主党)が責任者になり、和平交渉が彼の所掌下に置かれた。同時に、彼は立憲君主制かその完全な廃止かの間に心乱れていた。しかしながら、1918年11月9日にフィリップ・シャイデマンが帝国議事堂の最上階のバルコニーからドイツを共和国であると宣言したことによって、この問題は彼の手から離れた。フォン・バーデンは、皇帝自身が心を決める前に、皇帝が退位する予定だと発表した。帝制ドイツは既に死に、そして新しいドイツが生まれた。これがワイマール共和国である。
ドイツ革命の発生の後11月9日に共和国の成立が宣言され、ドイツ帝国は終わりを迎えた。次の日皇帝はオランダに逃げ、オランダは彼に政治的保護を与えた。11月11日にフランスのコンピーニュの列車の車中において、ドイツは協商国との休戦協定に署名した。11月11日11時に公式に軍事行動は停止した。
公式には戦争はベルサイユ条約に署名することによって終わった。
また、1917年10月のロシア革命後の1919年にシベリア出兵を実施した。
これらの功績により、日本も連合国5大国の一国としてパリ講和会議に参加し、ベルサイユ条約により東アジアに於けるドイツの権益(山東省権益と赤道以北の南洋群島)を信託統治領として譲り受けるとともに、国際連盟の常任理事国となった。1915年に「対華21ヶ条要求」で揺れた山東省は、その後中国に返還したが、権益を保持したために中国人の反日感情が高まり、蒋介石の北伐に伴う山東出兵(1927年~1928年)のきっかけとなる。また、シベリア出兵を継続したことで各国の猜疑を招いたほか日本が力をつけたことに対する懸念などで国際的立場が厳しいものとなっていった。
しかし陸海軍とも国際法を厳しく守り、捕らえたドイツ軍俘虜は丁重に扱った。青島で捕獲した俘虜40名は徳島県板東の俘虜収容所に送られたが、ここでの扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、料理をはじめ、数多くのドイツ文化が日本人に伝えられた。ベートーベンの「第九」はこのときドイツ軍俘虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。ドイツに帰還した元俘虜はこのときの扱いに感謝し、各地で「バンドー会」を結成している。
第一次世界大戦は、ヨーロッパの絶対主義の消滅をもたらし、旧世界秩序を決定的に破壊した。ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、そしてロシア帝国の4つの帝国が分解した。ホーエンツォレルン家、ハプスブルグ家、オスマン家、そしてロマノフ家、これらの4つの政権は、十字軍の時代に遡る権力の根源を持っていたが、この戦争中か戦後にすべて倒れた。しかしながら第一次世界大戦はヨーロッパ内部の勢力構造を変化させただけだとも言える。アジア、アフリカに対する植民地支配はかえって強化されており、世界秩序自体を変えるところまでには至らなかった。オスヴァルト・シュペングラーは「西洋の没落」を著し、ヨーロッパ文明の没落を予言した。
戦争の原因と結果をめぐる多くの戦後処理の失敗により、イタリアではファシズム、ドイツではナチズムの台頭を許し、同じ世紀に第二次世界大戦を生む原因を作った。またこの戦争は、ボルシェビキ・ロシア革命を起こす触媒となり、20世紀に社会主義が世界を席巻する契機となった。東洋においては、オスマン帝国が近代的な民主主義国家トルコの基盤を生んだ。中欧では、新しい国家チェコスロバキアとユーゴスラビアが生まれ、ポーランドが復活した(民族自決)。
フランスとイギリスの活動により、旧オスマン帝国の東側にいくつかの現代の衝突を生み出した。アラブ・イスラエルの衝突、キプロスを巡るギリシア・トルコの対立、1980年代のイラン・イラク戦争、そして1990年代の湾岸戦争である。ギリシアとトルコの対立は1924年に終わるが、これが最後の第一次世界大戦の直接の抗争だった。
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