科挙(かきょ)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで行われた官僚登用試験である。
試験の内容は、時代ごとに変化があるが、儒教的な素養を問うものであった。
学識によって官僚を登用するとの点では、極めて開明的な制度であり、特に王朝の初期においては巨大な行政組織を担う人材を新規・大規模に発掘し登用するために、大きな効果があった。その一方で、時代を経るにつれ、合格者数に対して受験者数が増大し、過度の競争を生じるといった弊害も現れた。カンニングをするために、全体にびっしりと詩文の書かれた下着など、科挙の過酷さを伝える逸話も多い。官吏登用試験制度としては洗練されたものであるが、その反面、「書院」と呼ばれる学校制度の発達を阻碍した面を持っている事は否めない。
又、科挙は、官吏選抜試験という意味の他に、富・地位・名声・権力を手に入れる機会という意味にも解されていた。そのため、科挙は皇帝の一般人民に対する恩恵の一つであり、カンニングや買収などの不正行為は赦し難いものとされ、場合によっては死刑や宮刑などの酷刑まで行われた。
尚、科挙には武官を登用するものもあり、「武科挙」と呼ばれた。しかし、一般に「科挙」というと、文官を登用するもののみを指すことが多い。
科挙そのものは当時において業績性を適える画期的な制度で、属性性社会において成し得ない広範な人材の発掘が可能となり、王朝の制度的疲労を遅延させる役割を果たした。
しかしながら、その試験内容は現実の経世には役立たない、古典の暗記や作文などに偏重する向きもあり、また登用された官吏はマンダリンと外国人に揶揄された尊大さと民衆を睥睨する特権意識によって民衆の社会状況の改善には殆ど役立たなかった。また官吏に対しての給与が法的に制度化されなかったために官僚=汚職という構造を生み出すことになった。
清朝末期、これらの官吏は新しい状況の変化に対応する能力を持たなかったことから、ペーパー試験偏重の登用制度の疑問が指摘されている。
科挙はその後、唐にも受け継がれたが、この時代までは制度の本当の威力は発揮されなかった。何故なら、旧来の貴族層が、科挙の合格者たちを嫌い、なお権力を保ち続けたからである。唐においては、科挙は郷試・会試の二段階であった。会試(貢挙)には、四科が課せられた。それは、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる科目である。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官吏としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、能書家かどうか、文字が美しく書けるか、という点であり、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律・制度を正しく理解しているか、ということを問うた。そこには、貴族政治の名残りが色濃く見られる。
しかし、唐が滅んだ後の五代十国時代の戦乱の中で、旧来の貴族層は没落し、権力を握る事はなくなった。更に、北宋代に入ると宋の創始者趙匡胤の文治政策に則り、科挙に合格しなければ権力の有る地位に就く事は不可能になった。これ以降、官僚はほぼ全て科挙合格者で占められるようになった。又、趙匡胤は科挙の最終試験を皇帝自らが行うものと決めた。この試験は殿試と呼ばれる。これによって、科挙に合格した官僚は、皇帝自らが登用したものという感が強まり、皇帝の独裁体制を強めるものとなった。
宋代当初は、受験科目が進士科と諸科に大きく分けられていた。しかし、王安石の行った科挙制度の改革によって、諸科はほぼ廃止されて科目が進士一科に絞られた。本来、進士科は詩文などの才能を問う要素が強かったが、この時より経書・歴史・政治などに関する論述が中心となった。また、初めて『孟子』が受験必修の書として定められた。
この頃、答案が誰の手により作成されたものかを事前に試験官に分からない様、答案の氏名を糊付して漏洩を防止する糊名法や、記述された答案の筆跡による人物判別を防止するため答案を書き改めた謄録法も出現した。呉自牧著『夢粱録』には、南宋における科挙の実施に関する記事が示されている。
元では一時、科挙が廃止された。これによって、読書人階級の立身出世への道は絶たれた。また読書人階級は乞食の1つ上の階級という地位に置かれた。しかし、元末に科挙は復活した。
明代に入り、科挙は複雑化した。科挙の受験資格が基本的に国立学校の学生に限られたために、科挙を受ける前に、童試(どうし)と呼ばれる国立学校の学生になるための試験を受ける必要があった。
清代に入っても、この制度は続き、更に試験の回数が増えて複雑化した。このため、そのシステムの複雑化から制度疲労を起こしており、優秀な官僚を登用するという科挙の目的を果たせなくなってきた。このような弊害を抱えながらも、依然として科挙は続けられた。
だが、西洋列強や日本が中国を蚕食すると、近代化が叫ばれるようになって行った。そして遂に、清末期の1905年に廃止された。
科挙が、中国社会においては一般常識そのものとされた儒学や文学に関して試験を行っている以上、その合格者は中国社会における常識を備えた人であると見なされており、その試験の正当性を疑う声は少数であった。逆に元初期に科挙が行われなかった最大の理由は、中国以外の地域に広大な領域を持っていた元朝にとって見れば、中国文化は征服先の一文化圏に過ぎないという相対的な見方をしていたからに他ならない。
清朝末期に中国が必要としていた西洋の技術・制度は、いずれも中国社会にはそれまで存在しなかったものばかりであり、そこでの常識だけでは決して理解できるものではなかった。中国が植民地化を避けるために近代化を欲するならば、旧弊を引き摺っている科挙は廃止される運命だったのである。
童試は3年に一回、旧暦2月に行われ、順に県試・府試・院試の3つの試験を受ける。県試は、各県の地方官によって行われる。県試に合格したものは、その県を管轄している府の府試を受ける。府試は、各府の地方官によって行われる。さらに府試に合格したものは、皇帝によって中央から派遣された学政による院試を受ける。この院試に受かったものは、晴れて秀才と呼ばれ、国立学校への入学資格を得る。
※郷試、会試、殿試の全ての試験において首席だった者を三元と呼ぶ。これは、各試験での首席合格者を郷試で解元、会試で会元、殿試で状元と呼んだことに由来している。麻雀の役満である大三元は、ここに由来している。
矢の的に当たる本数と持ち上げる物の重さが採点基準となる。学科試験には、武経七書と呼ばれる『孫子』、『呉子』、『司馬法』、『三略』、『李衛公問対』などの兵法書が出題された。しかし、総外れもしくは落馬しない限りは合格だったり、カンニングもかなり試験官から大目に見られたりと文官登用試験とは違う構造をしていた。また伝統的に武官はかなり軽んじられており、同じ位階でも文官は武官に対する命令権を持っていた。
日本でも、平安時代に科挙が導入されたが、受験者の大半は下級貴族で、合格者は中級貴族に進める程度であった。このため、大貴族と呼ばれる上級貴族層には浸透せず、当時の貴族政治を突き崩すまでには至らなかった。その後は、武士階級の抬頭とともに廃れ、江戸時代までは、官僚は世襲制が主となり、科挙が日本の歴史に影響を与えることは無かった。
しかし、明治維新で、日本にも科挙形式の官僚選抜制度が導入された。高等文官試験は科挙をヒントとして作られた制度であり、試験科目は儒教ではなく、西洋の近代学問となった。
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