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秋田県(あきたけん)は、
東北地方の県のひとつで、
日本海に面する。
県庁所在地は
秋田市。
地理
人口密度
位置
地域区分
- 中央:秋田市、潟上市、男鹿市、南秋田郡、由利本荘市、にかほ市
- 県北:能代市、山本郡、北秋田市、大館市、北秋田郡、鹿角市、鹿角郡
- 県南:大仙市、仙北市、仙北郡、横手市、湯沢市、雄勝郡
と3区分するのが一般的。旧由利郡地域を県南とすることもある。
地形
自然公園
気候
歴史
現在の秋田県は
令制国での
出羽国(明治初年に
羽後国)と
陸奥国(明治初年に
陸中国)の一部。「秋田」の名前の由来は土壌が稲作に向かなかったため付けられた「悪田」が転じたものだといわれている。また、秋田は
日本書紀に「齶田(あぎた)」「飽田(あくた)」の名前で初めて登場するが、この「齶」がアゴであり、アゴに似た地形から来たものだとする説もある。天平時代に「秋田」の名で定着した。
地方豪族の成長
縄文時代より、おそらくマレーポリネシア系と思われる
縄文人によって、現在の秋田県域にも縄文文化が栄えた。西日本では、この縄文人に加え
弥生時代頃から
弥生人と呼ばれる
ユーラシア大陸東部からの移住民が増えた。雑多な民族は次第に統一され、
ヤマト民族としての統一国家が近畿地方を中心に形成された。これが後に
朝廷と呼ばれるようになる。朝廷は8世紀に国号を「日本」と改めた。現在の秋田県を含む東北地方北部はこの時点で、朝廷に属していなかった。そのため朝廷はこの地方への征服活動を進めた。
8世紀の前半に朝廷により出羽柵が設置されるが、733年(天平5)12月26日、出羽柵は秋田村高清水岡(現在の秋田県秋田市)へ移設された(続日本紀)。出羽柵は760年頃に秋田城に改称される。780年には出羽国府が秋田に移されたが、エミシ民族(蝦夷:縄文人の末裔とも、朝廷に属さないヤマト民族ともいわれる)の反撃によって秋田城が陥落し、出羽国府は再び移されることになった。秋田城はこの後朝廷側によって再建され、北東北日本海側征服の一大拠点となる。この頃になると墾田の私有が認められ、地方豪族の勢力はいっそう発展した。9世紀頃には太政官命令で、勝手に開墾地を私有し農民を困らせてはならぬとの規則が出るほどになる。
878年(元慶2年)元慶の乱が起こった。これは重い税や労役の苦しみに耐えかねた蝦夷の秋田城主に対する反抗であった。秋田城や民家は焼き払われ、多くの物資や兵を失った。朝廷は急いで陸奥国から五千人の援軍を派遣したが平定に失敗し、新任出羽守の藤原保則を派遣した。保則は反乱の平定に蝦夷をもって当たらせることで成功した。この後、城の修復や兵力の増強をはかったが、939年(天慶2年)には再び天慶の乱が発生した。当時はこのように蝦夷に対する朝廷の力は絶対的なものではなく、「俘囚の長」と呼ばれたヤマトに服属するエミシ民族の地方豪族の力は加速度的に強大になっていった。
前九年の役と後三年の役
中央の
律令政治が衰えるとともに、私有地の占領が次第に増え、農民は有力豪族の保護を求めるようになり、蝦夷地の各所には豪族を中心とする武士の集まりができた。豪族は更に、重要地点に分家を配して勢力を拡げて団結を強固にした。その中の有力だったものが陸奥の安倍氏、出羽の清原氏である。
北上川中流以北に勢力を広げていた安倍氏は朝廷に対する貢租・徴役を怠り、横暴な態度であるというので朝廷は討伐を行った。これが
前九年の役(1051~1062)である。しかし、当時の陸奥守や秋田城介の力では討伐ができず、新興武士であった
源頼義が陸奥守として向けられ、七年以上にわたり戦いを繰り広げた。頼義も自軍のみで討伐できずに横手付近に根拠をおいた豪族
清原光頼に臣下の礼の形を取り参戦を依頼した。光頼は弟の
武則を大将とする一万余の兵を出し、遂に討伐に成功した。源頼義、
義家の兵力はわずか三千であったが、この清原氏が出した兵力だけでもその武力を伺い得る。しかしこの後、清原武則の孫の代にいたって一族争いが起こり、
家衡が出羽の国、沼の柵(現在の
横手市雄物川町沼館)に立てこもる。家衡はここを源義家に攻められ、金沢の柵(
横手市金沢中野)に移ったが、遂に破れた。これが
後三年の役(1083~1087)である。この戦の後に、清衡が
奥州藤原氏として栄えた。
中世
奥州藤原氏は初代の
清衡から二代
基衡、三代
秀衡を経て四代三代
泰衡に至るまでのおよそ一世紀(
11世紀末~
12世紀末)にわたって栄え、
東北の天地は完全に
豪族の支配下になった。当時の秋田では大館地方の河田氏、南秋田郡五城目町付近の大河氏、由利地方の
由利氏が藤原氏の支配下にあった。しかしながら隆盛を極めた藤原氏も、
鎌倉幕府を創設した
源頼朝が
平泉の藤原氏にのがれた弟
義経を追討することによって打ちくだかれる。頼朝は1189年、十九万の軍勢を率いて奥州征伐を行った。藤原泰衡は平泉からから蝦夷地への逃亡を始めたが、途中立ち寄った河田氏の元で裏切りに遭い、
河田次郎によって討ち取られる。同年12月に挙兵した大河氏の
大河兼任も挙兵3ヶ月で討ち取られた。
数世紀にわたった豪族の天下も、この藤原氏の滅亡で幕を閉じ、東北は完全に頼朝の支配下となった。藤原氏を倒した頼朝は、御家人、地頭職を新たに東北各地に配し、東北における大きな政治的転換点となった。頼朝が秋田に配した御家人は成田氏、安保氏、秋元氏、奈良氏、橘氏、浅利氏、平賀氏、小野寺氏などであった。また由利氏は藤原氏に仕えていたが、そのまま由利地方を治めることとなった。これらの豪族はほぼそのまま藩政以前までその地を治めることとなる。
その後、日本海北部に勢力を持った安東氏(安藤氏ともいう)が栄えた。戦国時代になると桧山安東氏と湊安東氏の一族抗争があったが、安東愛季の時代に最盛期を迎えた。横手盆地には戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、小野寺氏などが勢力を持っていた。由利郡は由利氏の一族と地頭であった小笠原氏の子孫等が中小の豪族に分かれ由利十二頭と呼ばれる勢力になった。
近世
詳細は久保田藩、佐竹氏を参照せよ
慶長3年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍を破った徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、幕府を江戸に開いて天下の実権を握った。慶長7、8年の大名国替えによって多くの藩は長年の領主と住民のつながりは切れ、幕府の武家諸法度、参勤交代制度、各大名の労力奉仕などのため、大名の財政は次第に困窮し、反対に幕府の支配力は強化されていった。
慶長7年(1602年)、秋田郡を領有していた秋田実季(安東氏から改姓)と入れ替わりで、関ヶ原の戦いで西軍に内通していた佐竹氏が常陸国から転封される。初代藩主は佐竹義宣。義宣ははじめ湊城(現在の秋田市土崎)に本拠を置いたが、まもなく秋田の神明山(秋田市千秋公園)に久保田城を築いて藩内を治めることとなる。その組織としては、領内統治を担当する家老の下に財政担当の勘定奉行、城下支配の久保田奉行、そのほか能代奉行、各郡の郡奉行、鉱山支配の銅方奉行、山林支配の木山奉行などを配した。このような藩の組織機構の下、直接生産を営む農民と、その中間の商人、職人が位置づけられ、新たな時代の生活が始まった。
佐竹氏は54万石の常陸から、明治まで表高20万石の秋田藩を治めることになったが、実際の内高は開墾などで田地が増し、40万石ぐらいであったとされる。
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| - 初代 義宣 (よしのぶ)(1602-1633)
- 二代 義隆 (よしたか)(1633-1671)
- 三代 義処 (よしずみ)(1671-1703)
- 四代 義格 (よしただ)(1703-1715)
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- 五代 義峰 (よしみね)(1715-1749)
- 六代 義真 (よしまさ)(1749-1753)
- 七代 義明 (よしはる)(1753-1758)
- 八代 義敦 (よしあつ)(1758-1785)
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- 九代 義和 (よしまさ)(1785-1815)
- 10代 義厚 (よしひろ)(1815-1846)
- 11代 義睦 (よしちか)(1846-1857)
- 12代 義堯 (よしたか)(1857-1869)
久保田藩以外としては、
久保田新田藩、亀田藩、本荘藩、矢島藩、仁賀保藩、盛岡藩領鹿角郡がある。
近・現代
1871年(明治4年)
廃藩置県により秋田藩から秋田県となる。 同年11月、亀田県・本荘県・矢島県・岩崎県・鹿角を合わせて現在の秋田県となる。
人口
年齢構成
行政
県令
知事
戦後の公選知事
- 初代 蓮池公咲 (1947-1951)
- 2代 池田徳治 (1951-1955)
- 3代 小畑勇二郎 (1955-1979)
- 4代 佐々木喜久治(1979-1997)
- 5代 寺田典城 (1997- )
司法
- 仙台高等検察庁 秋田支部(秋田市)
- 秋田地方検察庁(秋田市)
経済
経済
産業
農業
漁業
第二次産業
- 清酒(酒造業)
- 秋田は鉱物資源の宝庫であり、かつては銀山・銅山などの鉱業が栄えたが枯渇し、現在は採掘されていない。石油は秋田平野などに油田があり、少ないながらも現在も採掘されている。
秋田県に本社を置く主な企業
社会
女性は色白で美人が多く
秋田美人として有名である。また、少子高齢化による人口減が進んでいる。
気質
- 県民性は他の東北各県に比べると、格好つけ(ええふりこき)で怠け者(ひやみこき)であると言われている(特に男性)。これは対馬海流の影響で温暖な米どころであるため、江戸時代から弘前藩、盛岡藩、仙台藩などの隣藩に比べ飢饉の影響が少なく穏やかに生活していたからだと推測されている。理容室、美容室の数が人口割合で全国一であることも格好つけな県民性を表していると考えられる。
言葉(方言)
食文化
- 米どころであり、酒どころである。日本酒の消費量が多い。酒の飲み過ぎに加えて、雪国のため保存食である漬け物などの塩分過多が加わり、脳卒中などの生活習慣病での死亡率も高くなっている。
- きりたんぽは、もともと県北の食文化であるが、現在は秋田の代名詞として有名となり、全県で食べられるようになった。きりたんぽ鍋の出汁の多くは比内地鶏(天然記念物比内鶏の改良品種)で取っている。
- 魚はハタハタを大量に消費し、一時は絶滅寸前まで追い込んだが、禁漁や漁獲制限などを経て現在では資源が回復しつつあり、再び食卓に並ぶようになった。ハタハタの卵をブリコという。また、ハタハタの魚醤をしょっつるといい、鍋料理が有名。ハタハタをすしにした鰰寿司も祝の席などで食べられている。
- 他に、とんぶりやじゅんさいなどの珍しい野菜も食べられている。一部の地域では納豆に砂糖を入れたり、赤飯にも多く砂糖を入れて作るなど甘みの多い味付けをする所もある(特に県南部で顕著である)。ひきわり納豆の消費も多い。イナゴを佃煮などにして食べる食習慣もある。
祭り
民俗芸能
自治体
- 以下の13市6郡12町4村がある。秋田県では、美郷町、三種町、八峰町が「ちょう」である以外は、町はすべて「まち」、村はすべて「むら」と読む(対等合併によって誕生した町が「ちょう」を名乗る傾向がある)。
{|
| 交通
教育
高等教育機関
マスコミ
新聞
- 秋田魁新報(県域新聞)
- 北鹿新報(北部地域新聞)
- 大館新報(北部地域新聞)
- 北羽新報(能代山本地域)
- 秋田民報(県南部(大仙市・仙北市・美郷町)地域新聞)*
- 北鹿新聞(北鹿地域新聞)
- 秋田県南日々新聞(インターネット新聞)
- あきた北新聞(同上)
放送
金融機関
秋田県を舞台・モデルにした作品
文芸
映画
ドラマ
歌謡
関連項目
外部リンク
県政番組
その他
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