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神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日紀元前711年2月13日) - 神武天皇76年3月11日紀元前585年4月9日))は、日本の初代天皇(在位:神武天皇元年(紀元前660年1月1日 - 同76年(紀元前585年3月11日)。日本神話に相当するとされる初代天皇。歴史的実在について実在説、否定説がある。 Emperor Jimmu.jpg神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)・始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)・若御毛沼命(わかみけぬのみこと)・狹野尊(さののみこと)とも。

系譜


Emperor family tree0.png 父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫
古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では四男。第三の一書のみ三男と作す。なお生年月日の記述は記紀にはない。

即位年月日


明治紀元節旧暦である天保暦の正月とはならないようにするため、神武天皇即位の日を新暦に換算して、紀元節を新暦の特定の日付に固定するため、文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。

干支は暦法に依存せず60の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。神武天皇の即位年の「辛酉年」は日本書紀の編年を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年立春に最も近い庚辰の日を探すと新暦2月11日が特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。なお、日本書紀はこの日が「」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。余談であるが、現代の天文知識に基づき当時の月齢を計算すると、偶然ながらこの日は天文上のに当たる。

諡号・追号・異名


「神武天皇」は、762年天平宝字6年)~764年淡海三船により選定され追贈された漢風諡号である。

和風諡号は次のとおり。

日本書紀』の神武紀には「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)と曰す」とある。また、神代紀第十一段の第一の一書に「次に狭野尊(さののみこと)。亦は神日本磐余彦尊と号す。狭野と所称すは、是、年少くまします時の号なり。後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有(しろしめ)す。故、復号を加へて、神日本磐余彦尊と曰す」とあるが、第二の一書に「次磐余彦尊、亦號神日本磐余彦火火出見尊」、第三の一書に「次神日本磐余彦火火出見尊」、第四の一書に「次磐余彦火火出見尊」と似た名を挙げている。一方『古事記』には、「若御毛沼命(わかみけぬのみこと)」「豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)」「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)」の名が見える。

神日本は美称で、聖徳を称えた表現。磐余は大和の地名。奈良県磯城郡桜井村・阿部村・香具山村付近(今、奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井市谷には磐余山がある。5世紀から6世紀にかけ、磐余はたびたび皇居の地に選ばれた。

東征


詳細は神武東征を参照。

「神倭伊波禮毘古命【自伊下五字以音】與其伊呂兄五瀬命【上伊呂二字以音】二柱 坐高千穗宮而 議云 坐何地者 平聞看天下之政 猶思東行 即自日向發 幸御筑紫」

神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)、その同母兄(いろせ)五瀬(いつせ)命と二柱、高千穂(たかちほ)宮に坐しまして議(はか)りて云(の)りたまひらく、「何地(いずこ)に坐(ま)さば、平らけく天の下(あめのした)の政(まつりごと)を聞こしめさむ。なほ東(ひんがし)に行かむ。」とのりたまひて、すなわち日向(ひむか)より発(た)たして筑紫に幸行(い)でましき。(『古事記』)。これは、『古事記』のいわゆる神武東征のはじめの部分である。45歳のとき九州日向国を発って4年後河内国に入り大和国を拠点とする長髄彦と衝突、一時撤退し熊野などを経由したのち大和国に入りナガスネヒコを降して大和国を征服に橿原宮で即位したとされている。

初代天皇


明治時代以降、神武天皇は初代天皇として顕彰され、即位したとされる紀元前660年紀元とする神武天皇即位紀元(皇紀)が使われるようになり、1874年より2月11日紀元節に定められた。また、1889年には畝傍橿原宮があったとされる奈良県橿原市畝傍山近くに、神武天皇を祭神とする橿原神宮が建立された。

皇居


都は橿原宮(かしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮が伝承地)。『古事記』に「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」とする。「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、1888年明治21年)に郷土史家の西内成郷が内務大臣山県有朋宛に宮跡保存を建言。翌年に勅許が下り、「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の拝殿辺り)に橿原神社1890年に神宮号宣下)が創建された。

陵墓・霊廟


『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されている。また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したと言う記事がある。

『延喜式』によると、神武陵は、平安の初め頃には、東西一町、南北二町で大体百×百メートルの広さであった。中世にはその所在が分からなくなっていた。

江戸時代の初め頃から神武陵を探し出そうという動きが起こっていた。一方、水戸光圀が『大日本史』の編纂をはじめた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。

元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。その時神武陵に指定されたのが、畝傍山から東北へ約七百メートルの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第二代綏靖陵に治定されている。)。しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので別な説が出てきた。それは、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデン(神武田)というところにある小さな塚である(現在の神武陵)。その後また、丸山という説も出てきた。これが最有力説であったが、神武陵は、1863年(文久3)にミサンザイに決まった。幕府が一万五千両を出して修復した。このとき神武陵だけでなく、百いくつの天皇陵全体の修復を行った。神武陵は転々としてきた歴史がある。

陵墓は、奈良県橿原市大久保町の山本ミサンザイ古墳が、畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)だと宮内庁により定められている。現在、橿原市大久保町洞にあり、大正時代には、高市郡白檮(かし)村大字山本であったが、同じ場所である。大久保(大窪)または山本である。畝傍山から約東北に三百メートル離れていおり、東西五百メートル、南北約四百メートルの広大な領域を占めている。毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。

また、全ての天皇は皇居宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。

関連項目


日本の天皇 | 日本神話の人物

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