石川 淳(いしかわ じゅん、1899年3月7日 - 1987年12月29日)は日本の小説家。東京府浅草生まれ。本名淳(きよし)。中学時代、通学途上の電車のなかで、出勤する森鴎外の顔を見たというエピソードがある
1921年7月から10月まで横須賀海軍砲術学校講師。1922年7月から1923年3月まで海軍軍令部に勤務。1923年9月から1924年3月まで、慶應義塾にて仏語講師。このころ、いくつかの習作がある。1924年4月、旧制福岡高等学校(現在の九州大学教養部)の仏語講師として福岡に赴任。年俸は1600円(2006年の貨幣価値で800万円ほど)。
教師時代の入学試験の作文の問題に〈新聞紙〉というタイトルがあり、その答案が文系の志願者はすべてがジャーナリズムとしての新聞について、理系の志願者はすべて用紙としての新聞の紙についての答案だったことに困惑したというものがある。このことをエッセイとして発表すると、花田清輝が、自分はそのときの受験生だったということを文章に書いている。
1925年11月21日、文部省から派遣された法学博士蜷川新の講演会がきっかけで学生運動が発生。石川は、この事件に関連して左翼学生に加担したとの理由で辞職を勧告され、1926年3月に依願退職した。東京に戻った後はアンドレ・ジッドの『背徳者』(L'Immoraliste)などの翻訳を行う。
小説家としての再出発は、1935年の「佳人」発表からである。1936年、『普賢』で第4回芥川賞を受賞。その直後、1938年の1月号の雑誌『文学界』に発表した「マルスの歌」が発禁処分を受けたこともあって、戦時中は創作に制約を受け、鴎外における史伝の意味を明らかにした『森鴎外』などの評論や、江戸文学の研究に没頭する。
終戦後は旺盛な活動を始め、『焼跡のイエス』『処女懐胎』などの作品を発表。太宰治、織田作之助らと共に無頼派と呼ばれた。その後安部公房に師事されるようになり、安部の作品集『壁』に序文を寄せている。その他エッセーも多く残した。1967年、中国の文化大革命の際には、川端康成・三島由紀夫・安部公房とともに共同声明を発表し、中国を批判した。大岡信・丸谷才一らとともに歌仙連句の興行をはじめ、現代文学における共同制作の追求も行った。
石川の作品には、和漢洋にわたる学識を背景にした現代社会への批判精神があふれている。そこに、若いころにかかわったアナキズムの考え方がくわわり、一見奇想天外とも思える設定のなかに、〈精神の運動〉と評価されるダイナミズムをみることができる。1970年代に石川のブームが起き、文庫本も次々に刊行されたのは、当時のラテンアメリカ文学のマジック・リアリズムとよばれた雰囲気と、石川の作品との間に流れる共通性が読者に感得されたことが、大きく貢献している。
晩年まで旺盛な活動を続け、『蛇の歌』連載中に死去した。
代表作に、『紫苑物語』『狂風記』など。