亀甲獣骨文字 (きっこうじゅうこつもじ)とは、中国・殷(商)の時代に行われた漢字書体の一つで、知られる限り最古の漢字。甲骨文字、甲骨文とも。亀の甲羅(腹甲)や牛や鹿の骨(肩胛骨)に刻まれた。その字は絵文字様であるが、抽象性もすでに高く、文字と呼んでよい。一番古い漢字の用例であるため、甲骨文に現れた形から、なぜこのような字形になったかという字形解釈の典拠にされている。その解釈を巡って、白川静が古代の風俗なども含めた再解釈を提示しているが、幅広く受け入れられているとは言いがたい。例えば「文」という字について、衣服を重ねたものとの解釈が古くからあるが、白川は胸に入れ墨を入れたさま、とする。
殷の卜占では、これらの骨・甲羅などの裏側に小さな穴を穿ち、熱した金属棒(青銅製であったといわれている)を穴に差し込む。しばらくすると表側に卜形のひび割れが生じる。事前に占うことを刻んでおき、割れ目の形で占い、判断を甲骨に刻み付けた。また、のちに占いに対してどのようなことが起こったかが刻まれた。その際に使われた文字が甲骨文である。現在まで知られている金石文などは主にその青銅器が作られた経緯、所有者などが記録されたのに対して、発掘された甲骨文はもっぱら占いの内容が記録されている。但し、現時点で解読されている甲骨文字は発見された史料の20%程度であるといわれている。前14世紀ごろのものから残っている。
甲骨には朱が塗りこめられ、神と交信する地位としての王の神聖性などを示す意味があったともいう。董作賓による書風の分類では
1899年、当時の清の国子監祭酒であった王懿栄は、持病のマラリアの治療薬として、竜骨と呼ばれていた骨を薬剤店から購入していたが、粉にする前のその骨に何か文字が書いてあることを発見して、驚いて薬剤店から竜骨を大量に買い集め、同じことを知った研究者たちも竜骨を買い集めたというのがよく言われる逸話である。この逸話が真実か否かは不明であるが、研究が始まったのが1899年の前後であること、その先駆者も王懿栄であることには変りない。
その後、甲骨を買い集める人が増えたのに目をつけて、何も書いていない骨に文字を刻み付けて売ることが多くあったと言われる。甲骨が出土していたのは殷墟(河南省安陽市の近郊、小屯村の近く)であり、かなり前から農民により発掘されていたが、価値を知らない農民は大部分を捨ててしまっていたという。
19世紀末期の中国古代史界では、疑古派と呼ばれる『過去の記録を疑う』方針の考えが強かった。『史記』には殷の帝の系譜が並べられているが、これも全て架空の存在と考えられていた。ところが、発見された甲骨に、『史記』とほぼ一致する帝の名前が確認されたことで、殷の実在性が疑いのないものとなった。
甲骨文の時代考証
殷王室の卜占に用いられた甲骨文は、あらゆる状況から5つの時代に分類できる。この5つの時代に甲骨文を当てはめる作業を「断代」と呼んでいる。
董作賓は1932年に「甲骨文断代研究例」を著し、10種の標準を示した。
1.世系 2.称謂…殷王家の血統を判断することで、どの代の甲骨か判断できる。称謂とは父・兄・先祖を十干で示したもので、「父乙」を祭った王は当然ながら小乙の嫡子27代武丁・武乙の嫡子33代文武丁・帝乙の嫡子35代帝辛の3人に絞り込まれる。
3.貞人…占いを担当する神官である。代々の王は専属の貞人ら神官団を抱えており、前王が崩御すると前王の神官団を追放して専属の神官団にゆだねる習慣があり、貞人が判明すればおのずと王が誰か断代できる。
4.坑位…新たに出土した甲骨については、どこで出土したかによって祭祀の場所が確定できるため、時代もおのずと断定できる。
5.方国 6.人物…方国とは殷周辺の小国で、友好・敵対関係の変化や勃興・滅亡の変化を読み取ることによって時代が限定できる。神官団に加わっていない后や子など周辺の人物の変遷でも時代を限定できる。
7.事類…戦乱や収穫の変遷、天変地異など占う内容の変遷によっても時代が限定できるとする。
8.文法 9.字形 10.書体…貞人に隷属する書記官も、神官団のメンバーとして王に従い代替わりする。そのため文章を編む書記官の癖によって文法は変わり、下書きをする書記官と字を刻む書記官の癖によっても字形・書体が変わる。董作賓の「雄偉」「謹飭」「頽靡」「勁峭」「厳正」という5代の分類は、この書記官の代替わりによって生じるものである。
この結果
と断代できる。