満州国(満洲国、まんしゅうこく、Manchukuo)は、1932年から1945年の間、満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)に存在した国家で、その建国には日本の関東軍が大きく係わっており、今日では日本本土及び当時支配下だった朝鮮半島の防衛と大陸での権益確保のために作った傀儡国家と見なすのが一般的である。第二次世界大戦(大東亜戦争)での日本の敗戦とともに消滅した。
満州国は国家理念として、満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満州人、満人」による民族自決の原則に基づき、また、満州国に在住する主な民族による五族協和を掲げた国民国家であることを宣言した。
しかし現実には満州国は満州事変(1931年)以降この地域を実効占領している大日本帝国の関東軍の強い影響下にあった。当時の国際連盟加盟諸国は、「満州国は日本の傀儡政権であり、満州地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。このことが、1933年に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。日本人が特権的な地位を得ていたように考えられることが多いが、実際には法制化された特権はなく、満鉄を中心とする経済運営も順調であったたために、日本統治による衛生環境の改善で人口が増加していた朝鮮や、経済の困窮が続いていた中国からの移住者も多かった。またロシア人も引き続き多数が居住し、満州国は多民族が共生する国家であった。
しかし1945年8月15日の第二次世界大戦の日本の敗戦により満州国は崩壊する。その6日前の8月9日に侵攻してきたソ連の支配下となり、次いで、満州地域は中華民国の国民党政権に返還され、国共内戦を経て中華人民共和国が統治する事になった。「満州国」は現在の中華民国(台湾)や中華人民共和国では偽満州国あるいは偽満と呼ばれ、正当な国家ではないとしており、この地域一帯も「東北」と呼んでいる。日本では通常、公の場では「東北部」かまたは注釈として旧満州という呼称を用いている。
1917年、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立する。日本はシベリア出兵で満州の北にあるロシア極東に内政干渉を行うも失敗。共産主義の拡大に対する防衛基地として満州の重要性が高まり、日本の生命線と見なされるようになった。
一方、満州は清朝時代には帝室の故郷として漢民族の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷・山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいた。これに目をつけたのが清末の有力者・袁世凱であり、彼は満州の自勢力化を目論むとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満州で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立した。満州を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満州における日本の権益を確保しようとしたが、反復常ない張の言動に苦しめられた。さらに中国内地では蒋介石率いる国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満州に及ぶことを恐れた。こうした状況の中、1920年代の後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって長城以東の全満州を国民党の支配する中華民国から自立させ、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。
また、日本国内の問題として、昭和恐慌(1930年)以来の不景気から抜け出せずにいる状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、明治後半以降、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていた。ところが1924年にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満州事変が発生すると、当時の若槻礼次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。
その後1934年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満州国は帝制に移行した。(元号は康徳に改元〈当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更〉)。首相には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。
9月15日に斎藤実内閣のもとで政府としても満州国の独立を承認、日満議定書を締結して満州国の独立を既成事実化していた日本は、リットン報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーブで開かれた国際連盟に送り満州国建国の正当性を訴えたが、総会において賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム、後のタイ王国)により報告書が採択されると、日本は1933年3月に国際連盟を脱退する。
しかし、日本の敗戦の色の濃くなった1944年に入ると、同年7月29日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地がアメリカ軍のB29爆撃機の盛んな空襲を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(44年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満州飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで下がった。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招く事になった。
5月には同盟国のドイツが降伏し、日本はたった1国でイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの連合国との戦いを続けることになる。第二次世界大戦もいよいよ大詰めとなり、太平洋戦線では前年のフィリピンに続き3月には硫黄島が、6月には沖縄が連合国の手に落ち、日本の敗戦はすでに時間の問題であった。
ソ連の侵略の犠牲となったのが、主に満蒙開拓移民団員(後述)をはじめとする日本人居留民たちである。ソ連軍の正面にさらされ、ソ連軍や満蒙開拓団に恨みを持つ満州族と漢族によって殺害され、また、前途を悲観して集団自決したり、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された。この混乱の中、一部の日本人の幼子は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身によって現地人に預けられたりして戦後も大陸に残り、いわゆる中国残留日本人孤児として育ち苦難に満ちた人生を送る事となる。
皇帝溥儀たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い通化省臨江県大栗子に避難していたが、8月15日の玉音放送によって戦争、そして自らの帝国の終わりを知ることとなる。2日後の8月17日、国務院は満州国の解体を決定、翌18日には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満州帝国は建国より僅か13年で地上から消滅した。
なお溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に逃亡する直前に、ソ連軍の空挺部隊によって拘束・逮捕され、即時にソビエト領内の収容施設に護送された。
一方、逃避行の果てに、ようやく内地の日本へ帰り着いた入植者を含む日本人「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、さらに治安も悪化していたため、非常に苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓移民団 や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いづれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。
国民政府は、行政区分を満州国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。後の1949年に設立された中華人民共和国は、新たに内モンゴル自治区を新設した。
満州国の崩壊から60年を経た現在では、満州族も数ある周辺少数民族の1つという位置付けになり、「満州」という言葉自体が中国国内でも多用されない言葉になっている。今日、満州国の残滓は歴史資料や文学、そして一部の残存建築物などの中にだけ存在している。
関東州(現在の遼寧省の一部)は、満州国建国以前から日本が中国から租借していたが、満州国建国後は満州国の領土の一部とされ、満州国からの租借地として扱われた。
1934年の初めの満州国の人口は3088万人、1世帯あたりの平均人数は6.1人、男女比は122:100と推定されていた。 人口の構成としては、
| ・中国人(満州人) | 30,190,000人 | (97.8%) |
| ・日本人 | 590,760人 | (1.9%) |
| ・ロシア人・モンゴル人等の他人種 | 98,431人 | (0.3%) |
日本側の資料によると、1940年の満州国(黒竜江・熱河・吉林・遼寧・興安)の全人口は43,233,954人(内務省の統計では31,008,600人)。別の時期の統計では36,933,000人であった。
主要都市の人口は下記のとおり。
| ・ 営口 | : | 119,000人 | もしくは | 180,871人 | (1940年) |
| ・ 奉天 | : | 339,000人 | もしくは | 1,135,801人 | (1940年) |
| ・ 新京 | : | 126,000人 | もしくは | 544,202人 | (1940年) |
| ・ ハルビン | : | 405,000人 | もしくは | 661,948人 | (1940年) |
| ・ 大連 | : | 400,000人 | もしくは | 555,562人 | (1939年) |
| ・ 安東 | : | 92,000人 | もしくは | 315,242人 | (1940年) |
| ・ 吉林 | : | 119,000人 | もしくは | 173,624人 | (1940年) |
| ・ チチハル | : | 75,000人 | (1940年) |
統計の主体によって数値に大きな差がある。これは満州国に国籍というものがなく、国勢調査が実質実施不能だったという事によるものである。
また満州国の行政権が及ばなかった主要都市の満鉄付属地の人口を含むか含まないかが、統計によって異なったためでもある。
日本政府は1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画しており、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。(後述)
終戦時、ソビエト連邦が満州に侵攻した際には、実に85万人の日本人移住者を捕獲した。公務員・軍人を例外として、基本的にはこれらの人は1946年から1947年にかけて段階的に日本に送り返されている。
満州国は日本の支援のもと、きわめて短期間で発展し、内戦の続く中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人、そして日本政府の政策に従って未開拓地に入植する日本内地人などの移民が相次ぎ、人口も急激な勢いで増加した。移民政策の成功は五族協和の理想が一定の成功を収めていたことを示すが、一方で日本内地人や朝鮮人には日本国籍を維持させ満州国の国民形成が十分に行われなかった面もあった。しかし同時期のイギリスの傀儡政権であったアフガニスタンやイラクに比べれば、各民族の権利は平等であった。
元首の諮詢機関として参議府、行政機関として国務院を置いた。
このうち、鮎川義介・岸信介・松岡洋右を満州三角同盟ともいう。
(満州国の産業に対する日本の投資については「満州国への日本の産業投資」を参照のこと。)
国幣は中国の通貨と同じく銀本位制でスタートし、国幣1元=法幣1元であったが、1935年11月に日本と同じ金本位制に移行し、日本円と等価となった。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった朝鮮銀行発行の日本円も使用された。
満州国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、1947年に国民政府の中央銀行が発行した東北流通券に交換され、流通停止となった。
その一方で、満鉄は沿線各駅一帯に広大な鉄道付属地を抱え、首都新京(現在の長春)や奉天(現在の瀋陽)など主要都市の市街地も大半が鉄道付属地で、満州国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばなかった。都市在住の日本人の多くは鉄道付属地に住み、日本企業も鉄道付属地を拠点として治外法権の特権を享受し続けたため、満州国の自立を阻害する結果となり、1937年に鉄道付属地の行政権は満州国へ返還された。
法律上、「外地」ではなく「外国」であった満州へ移住した開拓団員たちも、開拓移民団という日本人コミュニティの中で生活していたことに加え、渡満後もみな日本国籍のままであった。そのため、「自分たちは住む土地が変わっても日本人」という意識が強く、現地の住民たちと交流することはあっても「満州国人」として同化することはまずなかった。
また満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず匪情悪化を理由に既存の農村を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、政府がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げて、日本人開拓移民を入植させることが行われた。地元農民は自らの耕作地を取り上げられる強制移住に抵抗したため、関東軍が出動することもあった。 「集団部落」反日組織との接触を断つ為に、地元住民を囲い込む形で建設された。
このため地元住人たちの中には、日本人開拓移民団を自分たちの生活基盤を奪った存在としてあからさまに敵視する者が少なからずおり、開拓移民団員との対立やトラブルに発展するケースもしばしば存在し、抗日ゲリラの拡大につながった。これらは、後のソ連参戦時に開拓移民団員が現地人たちに襲撃される伏線となってゆく。
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