浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、鎌倉初期、法然の弟子親鸞が、法然の教え(浄土宗)を発展させて作った仏教の日本独自の宗派。宗派の成り立ちの経緯から、真宗とする宗派もある。別名に一向宗とも言われる。
法然の教えを真宗(真の宗教)と呼んで継承した親鸞も、本願・念仏に対する解釈の違いから、浄土宗西山派などからの批判を受け、形としては浄土宗からの離脱を余儀なくされ、親鸞の還浄(没)後に一派となった。親鸞の教えを継ぐ者には自らの教義こそ浄土への往生の真の教えとの思いは有ったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られ兼ねないため、当時はただ真宗と名乗った。
教義以外で、浄土真宗の他の仏教宗派に対する最大の違いは妻帯が許されるという点にある(明治まで、妻帯の許される仏教宗派は浄土真宗のみであった)。親鸞は僧として初めて公式に妻帯し子を儲けた。そのため、浄土真宗は法脈(師弟関係)と血脈の2つの系図が存在した。
浄土真宗はただ南無阿弥陀仏を唱えれば全ての人は往生することが出来るとする教えなど、他の宗派と比べ多くの宗教儀式にとらわれないことから庶民に広く受け入れられたが、他の宗派からはかえって反発を買い「門徒物知らず」(門徒とは浄土真宗の信者のこと)などと揶揄される事もしばしばであった。
やがて応仁の乱が起き、当時越前国にあった本願寺の根拠吉崎御坊の北、加賀国で東軍・西軍に分かれての内乱が起きた際、一向宗にとって異端である専修寺派が西軍に組した富樫幸千代に味方したため、一向宗は越前大名の朝倉孝景の仲介で、加賀を追い出された前守護で幸千代の兄である東軍の富樫政親に味方して幸千代を追い出した(つまり、加賀の一向一揆は、最初は真宗内の勢力争いでもあった)。しかし、加賀の一向宗徒はこの勝利に奢って政親をないがしろにするようになり、政親が怒って一向宗討伐軍を差し向けると、結局政親を自刃に追い込んで自治を行うまでになった(但し、富樫氏一族の富樫正高は一向一揆に同情的で、守護大名として象徴的に居座っている)。門徒のパワーはその後朝倉氏に奪われていた吉崎の道場奪回に向けられ、北陸全土から狩り出された門徒が何度も朝倉氏と決戦している。
畿内では、はじめ京都山科本願寺が一向宗の本拠であったが、一向宗の武力を恐れた細川晴元は日蓮宗徒らと結託し、天文元年8月に山科本願寺を焼き討ちし滅ぼしている。これにより京都の本拠を失った一向宗徒は、蓮如が隠居先に選んだ大坂石山の地を新たな本拠とした。石山はこれにより大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられた。
永禄11年に織田信長が畿内を制圧し、征夷大将軍となった足利義昭と対立するようになると、本願寺門主の顕如は義昭に味方し、元亀元年9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。また、これに呼応して各地の一向宗も蜂起し、伊勢長島願証寺の一揆は尾張の小木江城を攻め滅ぼしている。この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるが、顕如は義昭などの要請により何度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、ほとんどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、最後は信長が天皇による仲介という形で提案した和議を承諾し、本願寺が武装解除し、顕如が石山を出て行くことで石山合戦は終結した。
ただし、当時の浄土真宗全体が一向一揆を支持していたわけではない。本願寺以外の浄土真宗諸派の中にはこれと対立するものもあった。
明治維新後の宗教再編時に、大教院に対し宗教団体として公的な登録を行う際に、現在の浄土真宗本願寺派のみ浄土真宗として申請し、他は真宗として申請したことが、現在の名称に影響している。
また、親鸞の念仏道場の時代、既に異端が生じているほどであるので、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。
浄土真宗の本山には阿弥陀仏を安置する本堂(阿弥陀堂)とは別に、宗祖親鸞を安置する御影堂がある。