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永久欠番えいきゅうけつばん)とは、背番号を使用するプロスポーツの団体競技において、多大な功績を残した人物の使用した背番号を、その人物の栄誉と栄光の歴史を末永く称えるために、団体内で二度と使用しないように欠番にした番号をいう。

野球界の永久欠番


日本プロ野球界の永久欠番

読売ジャイアンツ

阪神タイガース

中日ドラゴンズ

広島東洋カープ

横浜ベイスターズ

  • 100-球団に対して貢献のある複数の著名人 1997年11月11日

北海道日本ハムファイターズ

  • 100-大社義規(日本ハム球団初代オーナー) 2005年5月1日

東北楽天ゴールデンイーグルス

  • 10-イーグルス・ファン 2004年12月17日

※右記の日付は制定年月日

失効・消滅となった永久欠番
西鉄ライオンズ 大阪近鉄バファローズ

準永久欠番及び期間限定の欠番
ヤクルトスワローズ
  • 1-若松勉(外野手) 1990年~1991年
  • 8-大杉勝男(一塁手) 1983年11月9日、永久欠番に制定、1985年後任に禅譲し消滅
  • 22-高津臣吾(投手) 2003年~2005年

オリックス・ブルーウェーブ→オリックス・バファローズ

北海道日本ハムファイターズ

広島東洋カープ

読売ジャイアンツ

西武ライオンズ

福岡ソフトバンクホークス

千葉ロッテマリーンズ

  • 8-有藤道世(三塁手) 1987年~1991年
  • 26-マリーンズ・ファン  2005年~

横浜ベイスターズ

パシフィック・リーグ審判員

セントラル・リーグ審判員

備考
  • 黒沢俊夫の背番号4については、本人がシーズン中に病死した事情もあり、「4は死に通じて不吉だから永久欠番にした」という説があるがこれは俗説千葉茂の著書や証言に拠れば、ほとんどの主力選手を軍隊に取られた戦時下の巨人に球団史上初のトレードで移籍後、4番を打ち、戦後も病に倒れるまで5番・6番打者として活躍した本人への感謝の意として千葉を中心とする選手有志が提案し、沢村栄治と共に永久欠番になったとの事。黒沢が遺言として「私が死んだら、遺体に巨人軍のユニフォームを着せて葬って欲しい」と残したとも言われる。
  • 沢村栄治の背番号14は、1943年までは沢村が着用していたが、戦後のプロ野球再開時である1946年には今泉勝義、坂本茂が着用。その後、永久欠番に指定された。
  • 服部受弘は1960年に背番号10が永久欠番に制定されているが、その栄誉に人一倍重きを置いていたと言う。OB戦に出場の際、背番号10のユニフォームを裏返して参加。「僕は永久欠番をもらっている。簡単に陽の目にさらすような真似はできない」とコメントしたという。その為か、1977年に2軍監督として球界復帰時は、10番を着用している。
  • 金田正一は、国鉄スワローズでも背番号34を付けていたが、それは欠番ではない。巨人での永久欠番は、日本人として初めての400勝を達成したことを記念してのものといわれている。国鉄でも欠番となる余地はあったが、1965年に球団が産経新聞社に身売りしたと言う事実が大きい。その後、永久欠番とならなかった背番号34は現在、リック・ガトームソンが着用。
  • 村山実は1972年に背番号11が永久欠番に指定されている。彼は永久欠番の名誉を終生誇りとしており、引退後サインを求められると必ず「阪神タイガース永久欠番」と書いていた。
  • 西鉄ライオンズの永久欠番6(中西太)、永久欠番24(稲尾和久)は、福岡野球株式会社への球団身売りの為に失効した。当時、黒い霧事件などによる球団内部の混乱もあり、身売り後の措置について取り決めを行わなかった為に、引き継がれなかったと言われている。現在、6は後藤武敏、24は松永浩典が着用。
  • 板沢峰生は1979年に入団し、将来を嘱望されていた。しかし、1980年オフ、帰省中に急性心不全の為に逝去。現役選手の突然の死に、西武ライオンズは翌年以降1989年に至るまで、背番号59を9年間欠番とし、彼の死に報いた。現在は山本歩が着用。
  • 大杉勝男の背番号8は、ヤクルト初の日本一に貢献、前人未踏の両リーグ1000本安打、球団初の2000本安打の快挙に、1983年、ヤクルトの永久欠番となるが、1985年に入団してきた広沢克己に自らの意志で、背番号8を与えた。現在は武内晋一が着用。
  • 吉田義男が1969年に現役を引退した際、背番号23は、この番号に相応しい守備力をもった選手が入団するまで一時的に欠番となった。しかし、吉田の守備と比較できるほどの名手は二度とあらわれず、監督として日本シリーズ優勝を経験した後、1987年に正式に永久欠番に指定された。
  • 福本豊の背番号7は、1984年に通算盗塁の世界記録を達成した際に永久欠番となることが決定していたが、永久欠番にはなっていない。当時、現役だったために本人が固辞したと言うことと、その後阪急ブレーブスが身売りしたことの要因が重なっている。オリックスで打撃コーチ・二軍監督を務めた時も引き続き背番号7を着用する。1991年退団後、愛称の変わったオリックス・ブルーウェーブでは2000年までの10年間、田口壮小川博文イチローの3名が背番号7を打診されるも全て固辞、欠番となっていたが、2001年進藤達哉が福本公認の下、背番号7を着用し、欠番ではなくなった。進藤が引退した後、オリックス・ブルーウェーブ最後の年となった2004年は、日高剛が着用。オリックス・バファローズとなった現在は水口栄二が着用。
  • 原辰徳の背番号8は、1995年に原が現役引退した際、巨人一筋15年、ON後の巨人を牽引した四番打者に対し、背番号8を永久欠番にとの署名が多く集まったため、フロントが「準永久欠番」に制定。以後、背番号8は生え抜きの選手のみに着用が許される番号となった。現在は仁志敏久が着用。
  • 横浜ベイスターズは、背番号100を球団に対して貢献のある著名人に与えている。初めて与えられたのは1997年11月11日、前宜野湾市長の桃原功。
  • ミゲール・デルトロは2001年に西武ライオンズに在籍したが、帰国後に交通事故のために急逝。西武ライオンズでは同年限りでの解雇が決定していたが、正式発表前の事故死であった為に「所属選手」とし翌2002年、背番号32を1年間の期間限定で、欠番に制定した。現在は石井義人が着用。
  • 大阪近鉄バファローズの永久欠番1(鈴木啓示)は、オリックス・ブルーウェーブとの合併による球団消滅により、消滅した。後継球団のオリックス・バファローズでは、現在は後藤光尊が着用。これはオリックス・ブルーウェーブ時代から後藤が背番号1を着用していたため。
  • 東北楽天ゴールデンイーグルスは背番号10を、ファンのための背番号(レギュラー9人に続く10人目の意味)として永久欠番としている。サッカーでは同様の理由で12番を欠番とするチームがいくつかあるが、日本プロ野球では初の試みである。いずれの場合においてもファンを重視する視点において評価すべき事例である。なお、千葉ロッテマリーンズは2005年度、背番号26を同様に、ファンのための欠番(一軍登録者の25人に続く26人目の意味)としている。
  • 北海道日本ハムファイターズは、2005年5月1日、同年4月27日に死去した大社義規前オーナーのユニフォームに付けられていた背番号100を、永久欠番に制定した。日本球界において、球団オーナーの背番号を永久欠番にするのは極めて異例。
  • 野村謙二郎の背番号7は、2005年9月16日に広島東洋カープの永久欠番にする事を打診したが、本人が断ったため、野村自身が推薦する選手が出るまで永久預かり(準永久欠番)とした。
  • 以上の永久欠番以外にも、偉大な功績をあげた前任者を讃えて、また在籍中に不慮の事故や病などで急逝した選手への哀悼の念をこめて一時的に使用を見合わせる準永久欠番を指定している球団もあり、最近では福岡ダイエーホークスに在籍し、2000年に現役のまま病没した藤井将雄の15番、読売ジャイアンツからニューヨーク・ヤンキースへ移籍した松井秀喜の55番、オリックス・ブルーウェーブからシアトル・マリナーズへ移籍したイチローの51番などが準永久欠番扱いになっている。
  • 該当選手が監督などとしてチームへ復帰した場合、その永久欠番を使用する事がある。現在まで、西沢道夫(1963年-1966年)、稲尾和久(1970年-1972年)、服部受弘(1977年)、村山実(1988年-1989年)、長嶋茂雄(2000年-2001年)、山本浩二(2001年-2005年)の例がある。
  • 審判員が着用する肩番号(審判番号)はまずパ・リーグが1977年に、続いてセ・リーグが1988年に制定したが、退職以降他の審判に引き継がれることがなく今に至っている番号が存在するため、これらは事実上の永久欠番となっている。
  • 景浦安武は水島新司の漫画「あぶさん」に登場する架空のキャラクターだが、連載開始当初、パ・リーグを扱った漫画が少なかったことなどから背番号90は球団側の配慮で欠番扱いであり、藤原満がコーチ就任の際、背番号90を打診されるも「これはあぶさんの番号だからつけられない」と断った逸話がある。

アメリカメジャーリーグベースボールの永久欠番

アトランタ・ブレーブス

ロサンゼルス・エンゼルス(旧アナハイム・エンゼルス、カリフォルニア・エンゼルス)

アリゾナ・ダイアモンドバックス オークランド・アスレティックス(旧フィラデルフィア・アスレティックス)

カンザスシティ・ロイヤルズ

クリーブランド・インディアンズ

コロラド・ロッキーズ

サンディエゴ・パドレス サンフランシスコ・ジャイアンツ(旧ニューヨーク・ジャイアンツ)

シアトル・マリナーズ

シカゴ・カブス

シカゴ・ホワイトソックス

シンシナティ・レッズ

セントルイス・カージナルス

タンパベイ・デビルレイズ

テキサス・レンジャーズ(旧ワシントン・セネターズ{第二次})

デトロイト・タイガース

トロント・ブルージェイズ

ニューヨーク・メッツ

ニューヨーク・ヤンキース

ピッツバーグ・パイレーツ

ヒューストン・アストロズ

フィラデルフィア・フィリーズ

フロリダ・マーリンズ

ボストン・レッドソックス

ボルチモア・オリオールズ

ミネソタ・ツインズ(旧ワシントン・セネターズ{第一次})

ミルウォーキー・ブリュワーズ

ワシントン・ナショナルズ(旧モントリオール・エクスポズ

ロサンゼルス・ドジャース(旧ブルックリン・ドジャース)

備考

韓国プロ野球界の永久欠番

MBC青龍→LGツインズ
  • 41-金龍洙(キム・ヨンス) 通算251Sの韓国記録(当時アジア記録) 1999年 現野球解説者

OBベアーズ→斗山ベアーズ(身売りでなく名称変更)

  • 21-朴哲淳(パク・チョルスン) 長年チームを支えたエース チーム創立21年目の2002年
  • 54-金栄伸(キム・ヨンシン) 若手期待の捕手であったが、1986年水難事故で逝去。韓国球界初の永久欠番 1986年

ヘテ・タイガース起亜タイガース

三星ライオンズ

ピングレ・イーグルス→ハンファ・イーグルス

  • 35-張鍾薫(チャン・ジョンフン) チーム一筋で、実働年数、出場試合、通算本塁打、通算打点など野手のほとんどの韓国記録を樹立

備考
  • 起亜タイガースは2001年、ヘテからの身売りの際に宣銅烈の永久欠番18を返上、新人投手に与える。 このことが韓国球界およびマスコミなどで猛反発を招き、同2001年、元通り永久欠番に指定する。

台湾プロ野球界の永久欠番

統一ライオンズ
  • 22-曾智偵 台湾を代表する名捕手でチーム一筋10年 1999年 統一ライオンズ球団副社長

兄弟エレファンツ

  • 99-エレファンツ・ファン

野球国家代表の永久欠番

台湾代表
  • 33-郭源治 元中日ドラゴンズ、帰国後も台湾球界で活躍する。 1999年

アメリカ合衆国代表

プエルトリコ代表

ベネズエラ代表

サッカー界の永久欠番


サガン鳥栖 (日本)
  • 17-坂田道孝

ザスパ草津(日本)

FCホリコシ(日本)

  • 30-加藤康祐

ACミラン (イタリア)

インテル・ミラノ (イタリア)

ASローマ (イタリア)

SSCナポリ (イタリア)

アタランタBC(イタリア)

  • 14-フェデリコ・ピザーニ

カリアリ・カルチョ (イタリア)

  • 11-ルイジ・リーバ

ブレシア・カルチョ (イタリア)

  • 13-ヴィットリオ・メーロ

ビチェンツァ (イタリア)

  • 9-パオロ・ロッシ

キエーヴォ・ヴェローナ (イタリア)

  • 30-ジャソン・マイエーレ

リヴォルノ・カルチョ(イタリア)

  • 10-イゴール・プロッティ

ACシエナ(イタリア)

  • 4-ミケーレ・ミニャーニ
  • 8-ステファノ・アルジッリ

ボローニャ(イタリア)

  • 27-ニコロ・ガッリ

マンチェスター・シティ (イングランド)

ベンフィカ (ポルトガル)

ディナモ・ブカレスト (ルーマニア)

  • 11-カターリン・ハルダン

ナシオナル・メデジン(コロンビア)

CRヴァスコ・ダ・ガマ (ブラジル)

釜山アイパーク (韓国)

アルゼンチン代表(暫定)

備考

  • ナショナルチームにおける永久欠番制度はFIFAに認められていないため、大会の規定(例:スターティングメンバーの背番号を1~11番とする場合や、大会に登録できるのは23人で1~23番を使用する場合など)により、やむを得ず使用する場合がある。(特に国家代表が出場する大会でその場合が多い)
  • ロベルト・バッジオの引退に伴い、ブレシアの背番号10番は永久欠番になる予定。
  • サポーターを12番目の選手にたとえる意味で12番を欠番とするチームが複数存在する。
  • 日本のプロサッカーリーグ・Jリーグでは、1997年の固定背番号制度発足に伴い、「選手が着用する背番号は連番とし、欠番を作らないように」という通達が出ていたが、サポーターとしての欠番や、移籍選手の背番号の空き番措置に対して各クラブチームの意思が強くなったために、2004年、連番でなくてもよいと改正された。この改正により、選手個人としての永久欠番が認められるようになった。
  • 2005年1月30日、Jリーグ初の永久欠番が制定された。対象となっている坂田道孝は当時、佐賀大学教授で佐賀県サッカー協会理事長。 1994年、静岡県浜松市にあったPJMフューチャーズを佐賀県鳥栖市に誘致し、 鳥栖フューチャーズを発足させた。クラブチーム中興の祖であり、経営難による鳥栖フューチャーズ消滅後も、設立活動に尽力を注ぎ、チームを復活させた鳥栖最大の功労者。チームの再興を見届け、1999年1月7日逝去。(命日1月7日にちなみ意志を受け継ぐという意味で17番を永久欠番に制定)
  • FCホリコシのGK加藤康祐は2005年2月、練習中の心臓麻痺により急死。 彼の功績を称えて2005年、彼が付けていた30番を永久欠番に指定。
  • ザスパ草津のDF奥野僚右は初代監督で選手兼任。チームをJリーグ昇格に導いた功績により、2005年、彼が付けていた31番を永久欠番に制定。

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영구 결번

 

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