民族(みんぞく)とは一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体をいう。土地、血縁関係、言語の共有(国語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となる。日本語の民族の語には、近代国民国家の成立と密接な関係を有する政治的共同体の色の濃い nation の概念と、共同体の形成の有無とは別に同一文化集団として認識される ethnic group の概念の双方が十分区別されずに共存しているため、その使用においては一定の注意を要する。
中国の古典では「民族」は一定のグループをなす人々の共同体を指す。近代的な、文化的な固有性というニュアンスでの「民族」の用例の最も早い例としては、六世紀の南斉書列伝三十五の「高逸伝・顧歓伝」中の「今諸華士女、民族弗革、而露首偏踞、濫用夷禮」(氏族につくるものもある)という記述をあげることができる。(なおこれは、士大夫やその子女までも北朝の異民族の風俗に染まっていると述べている部分である。) しかし、この歴史書は南史編纂後は読まれる事が少なくなったと言われており、現代日本の民族概念に影響を与えている確証はない。これはあくまでも中国語における民族の語源を示すものであって、日本語の社会科学の概念としての民族をいかに定義するかの問題とは混同されてはならないだろう。
訳語としての「民族」は、nation に対するものであるとされている。しかし、西欧語としてのネーションの、政治的自己意識、統合性、独立性、主権性といった概念をも含む語義とは、日本語としての「民族」は完全には一致せず、国家のなかの、あるいは国家以前の、同一文化集団、民族誌学的な意味での、文化・生活様式を基準とした集団である種族にも同じように通用される。文化的・民俗的帰属意識と政治的同胞意識は必ずしも一致しないが、日本語の民族はどちらの区分による用例かはしばしば判然としない。
(この区別は、同一文化集団は容易に政治的帰属意識を獲得しうる為に日々動揺する。しかしこのことは、同一文化集団が政治的自己意識を獲得する以前からあらかじめ潜在的にすでに「眠れる」 nation であるということではない。事後的に、始めから nation であったことになるのである。)
なお、当初は、nation の訳語としては「種族」や「人民」もひろく使用された。アダム・スミスの『国富論』に見られるように、国民の訳も用いられた。ヘボン『和英語林集成』(三版)は nation の訳語に、国民、人民だけをあげている。 もちろん、戦前において既にウッドロウ・ウィルソンの民族自決権の思想などが紹介されており、早い時期から民族がnationの訳語として用いられていた点にも注意すべきである。
現代日本語では、nation は民族、国民、国家、国民国家、ネーションなどと強調されている側面に応じて訳し分け、他方でethnic 系統の語は民族で訳すことが多い。しかしエスニック・グループは、社会科学の分野では、エスニック集団などと訳し、民族という語を避ける場合も多い。(なお台湾などの中国語圏でも、民族nation概念に対して、ethnic groupは"族群"と訳され、民族との訳語を避けることが多く、日本でも族群概念を導入した論文もある。) 日常語では何の問題もない「少数民族」という言葉も、社会科学では極めて問題含みの言葉として批判されることもある。
こうした日本語「民族」の多義性を、現代において露呈してきたエトノスとネーションの複雑な関係性を統一的に表現可能な言葉だとして肯定的に評価する立場もあるが、エトノスがネイションの下位区分として導入された点を重視し、両者を訳し分けるべきだとする考えもある。しかしその場合にも、民族を、どちらの語義にひきつけて定義し、新語をどちらに当てるかには、一致した見解は得られていない。したがって社会科学的な概念として民族概念を使用する場合には、それぞれの論者がいかなる意味で用いるのかを明らかにすべきだろう。その場合、単純に原語をエトノス、エスニック・グループなどと音訳して使うという立場も便宜的ではあるがしばしば見られる態度である。
リーア・グリーンフェルド(『ナショナリズム』1992)よれば 英語では nation は以下のような五段階の変化を経てきた。
元来、nation はラテン語において「生まれ」を意味する natio ナティオに由来する概念であり、gens ゲンスとならんで血統と出自の女神を意味した(ハーバーマス『事実性と妥当性〔下〕』邦訳275頁参照)。家族より大きく氏族よりも狭い、「同じ生まれに帰属する人々」を指す言葉であった。
中世には、natio という言葉はボローニャ大学やパリ大学をはじめとして、同じカレッジの構成員、または学生たちのグループを指した。かれらは同じ地域の出身で、同じ言語を話し、自分たちの慣習法に従うものとされた互助的な自治組織であった。しかしこれらは国家を基準としたものではなく、あくまでもゆるい地理的な基盤によるものであった。たとえば、1383年と1384年には、パリ大学で神学を学んでいたジャン・ジェルソンは二度にわたってフランス人学生団・同郷団(French nation フランス生まれでフランス語を話す学生たち)の代表に選出された。パリ大学での学生の natio への分割はプラハ大学でも踏襲された。1349年の開校以来、ストゥディウム・ゲネラーレ(studium generale)は、ボヘミア、バイエルン、ザクセン(マイセン)、そして、ポーランドの nation に分割されていた。
中世後期から近世にかけてのヨーロッパでは身分制議会を構成して、必要に応じて国家の案件に同意を与える特権的な身分階層を、集合的に natio と呼んだ。この意味での natio は種族的な出自を問わず、身分や地位によって規定されるもので、高位聖職者や中小の貴族身分などからなっていた。この時期にはエスニックな種族的な意味合いは、主として gens によって担われていた。
この王と国家の支配を分かち合う natio の概念が、近世に絶対主義の成立とともに次第に gens と近づき、あるいは混同されていき、ひとつの言語的・文化的・血統的に規定される gens が、ひとつの natio を構成すべきという思想が成立していった。この natio と gens の語義の融合の原因は、封建国家の機能不全のなかで、 natio の範囲を広げることで広い同意を取り付けることが王権に必要とされたことであった。そのために natio を特権階層から一般民衆まで拡大する上で、gens の種族的な枠組みが援用されたのであった。
イギリスでも同様であったが、とりわけこの特権身分としての nation の一般民衆への意味的拡大はテューダー朝において進行した過程であった。薔薇戦争によって多くの貴族が没落したあとに成立したこの王朝の下にあって、出現した新しい貴族階級は nation を people (民衆・庶民)へと意味的に接近・融合させた。この nation の再定義によって、主として成長しつつあった富農、新興地主階級、ジェントリーなどに実質的にはかぎられてはいたが、身分制に縛られず民衆もまた国政エリートへと上昇しうるものとされ、原理的には主権に与かる nation の一部となった。
また、1611年の欽定訳聖書でユダヤの民を意味するヘブライ語 goi が nation と訳されたこともひとつの契機となった。宗教改革の盛り上がりとともに、清教徒革命による議会の勝利を経て、 国教会を形成するイギリス国民をひとつのあらたな契約の民 nation とみなす傾向・用法が nation に宗教的一体性と種族的独自性という意味合いを付け加えた。
聖書の中のヘブライ人は、理念的・宗教的な一体性と平等性を併せ持ち、ひとつの神的な歴史を共有し、ひとつの国土(ホームランド)と運命的に結び付けられ、ひとつの法(十戒)のもとに結びつき、しかも、普遍的に拡大しうるものではなく、ある特異な、限定された個別的な集団として、他の同様の民族を許容するものであった。この時期のイギリス人は自らを nation として想像する上でまさしくそのようなものとして理解しようとした。これが現在の nation が想像される様式にも大きな影響を及ぼしている。
一方で、nation の基盤になるべき中央集権的な統一を欠いていたドイツにおいて、ヘルダーは言語・歴史・文化を共有する共同体として Volk の概念を主張した。 ロマン主義者やグリム兄弟やヴィルヘルム・フォン・フンボルトなどに影響を与え、民俗学の成立に寄与した。かれの Volk 概念は nation をエスニックに定義する傾向に強い影響を与えた。(エスニック・ナショナリズム、原初主義)しかしこの概念には nation に含まれていた人民主権の意味は薄弱であった。のちにナチスが第三帝国で強調したのは人種主義的に解釈された Volk であり、Nation は自由主義的な概念として非難の対象となった。
1808年にはフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』Reden an die Deutsche Nation の講演を行ったがいまだ反応は鈍かった。結局、やがてドイツ統一はナショナリズムによってではなくプロイセン国家主義によって遂行された。この歴史的・文化的・言語的で、宗教的平等理念と人民主権の意味合いの希薄な民族概念と権威主義的な国家主義という組み合わせは、とりわけ遅れて資本主義化した、より東方の諸国に一定の影響を持った。
こうして、「生まれと歴史を共にすると想定されたものたちによる独立への主張」とでもいうべきナショナリズムの成立と高揚は、この nation という概念に著しい政治性を帯びさせ、エスニックな意味合いと、人民主権的な意味合いとの間に内的な緊張をもたらした。こうした経緯により、フランスやアメリカのナショナリズムは、「過去の歴史の共有」ではなく、「これからの歴史の共有、その意志」という普遍主義的で時には同化主義的な性格を帯びることになった。(1882年エルネスト・ルナン『国民とは何か』Qu'est-ce qu'une nation? 「nation とは日々の人民投票である」)
「そこにひとつの独立の言語を見出すことができるところには、ひとつの独立の nation が存在する。」(フィヒテ)
nation を政治的独立を獲得する独特な共同体として考える定義としては、まずヘルダーをあげることができる。ヘルダーは nation を一種の「特殊な言語と文化を備えた集団」とみなした。十九世紀のはじめ、フィヒテはこの考え方を推し進め、一個の独特の言語グループはかならず一個の独立の nation であり、自らの生活を持たねばならず、そしてまたその自らの生活を制御できなければならないと主張した。今世紀に入って、研究者は民族体の構成内容について、言語以外にもたくさんの客観的基準を付け加えた。共同の地域、血統、エトニ(族群。スミス、文化的な原初的共同体)、宗教、あるいは共同の信仰などである。(クリフォード・ギアツ、アントニー・D・スミス、ヨシフ・スターリンなど)
スターリンによる、1913年の論文『マルクス主義と民族問題』( Marksizm i natsionalnyi vopros)での定義は以下のようなものである。
しかし、研究者の中にはこれらの客観的特質が nation の定義の十分条件をなすことを、はなはだしい場合には必要条件をなすことすら否定するものもいる。(Canovan 1996; Gellner 1983; Hobsbawm 1992; Renan 1994)
ホブズボームの説得力のある指摘によれば、もしも、nation に一個の定義を下さなければならないならばいわゆる客観的な条件はすべて適切な基準ではない。言語を例に挙げて、ホブズボームは資料に訴えている。イタリアが1860年に統一されたとき、イタリア語を話せたのは全体の2.5%にすぎなかった。ほかにも、1789年のフランス革命の勃発時、約50%のフランス人しかフランス語を話せなかった。いいかえるならば、いわゆる民族言語というものは、主としてナショナリズムの実践の結果なのであって、ネーションやナショナリズムの原因とみなすことはできないのである。そのうえ、こうした nation を定義するのに用いられてきた「客観的」基準、言語、エトニ、その他のものも、それ自身が変化しうるものであり、明確な定義も欠いている。
われわれはゲルナーにこうした観察に関連した論点を見ることができる。
nation の本質は主観的な意識(subjective consciousness)なのであって、それが政治的、文化的、生物学的なものであるかどうかにかかわらず、客観的に共有される特質にはよらないとする議論もある。
ヒュー・シートン=ワトソンはつぎのように主張する。
「ひとつのグループが相当部分を占め、みずからを一個の nation をなすべきと考えるようになったとき(consider themselves to form a nation)、あるいはかれらがすでに一個の nation をなしているかのように振舞うようになったとき(behave as if they formed one)、たちまちひとつの nation が存在するようになる」(Seton-Watson 1977, 5)。
エリック・ホブズボームも同様の立場をとり、 nation を定義していう。「最初の作業仮説として、人々の十分に大きな集団があって、その成員が自らを「ネイション」の一員とみなしているのであれば」(regard themselves as members of a “nation”)、それをネイションとして取り扱うことにしよう」(ホブズボーム『ナショナリズムの歴史と現在』 邦訳 p10)
まさしくこうした意味において、アーネスト・ゲルナーは一方では、まず闘争がはじめにあって、そのあとに、 nation がやって来ることができるということを主張し、他方ではまた、ひとつの nation はかならず、互いにひとつの nation に属しているとみなしている人々からなる必要があることを強調する。(Gellner 1983, 48-9)。
実際、こうした現代の研究者が nation の主観的な構築性を指摘するはるか以前に、こうした観点はいまでは古典となっている社会科学の著作のなかにはやくから現れていた。社会学の巨匠マックス・ウェーバーは民族体(nationhood)の間主観的側面を強調し、グループのいわゆる客観的特質は、 nation を定義するのには役に立たたず、そのため、 nation という概念が、「価値的領域(sphere of values)」に属していることを発見するに至った。 nation という概念は、主として、本質的に、「ほかのグループを前にしてもつ一種特別の連帯感情」の上に作り上げられている。(Weber 1958, 172)。
ルナンもまた1882年にはやくも指摘している。彼によれば、こうした条件、たとえば、共同の地理や地域、言語、種族あるいは宗教、そうした条件を持っているということは、少しも nation の存在の十分、あるいは必要条件とみなすことはできない。それに反して、 nation は互いに関連した二つの要素をもっている。ひとつは、過去の記憶の豊かな遺産の共有(a common possession of a rich heritage of memories in the past)であり、もうひとつは、ともに暮らし、これらの遺産を受け継いでいこうという決意(a desire to live together and pass on the heritage)である。そのため、われわれが nation の本質について認識を深めようと思うのならば、こうした特別な歴史の意識から出てきた連帯感(solidarity)の探求を進めなければならない。そのため、 nation は一種の道徳的形式(a form of morality)として理解されるべきなのである。(Renan 1994)。
たしかに上述の主観的な要素は nation の形成過程において重要な役割を演じていることは間違いないのだが、しかし、この主観的な意識による定義は、実際に採用するにははっきりと不十分な点が存在する。集合的な連帯感はほかのさまざまな社会的団体、家族や結社、商業組織に存在しうるもので、 nation に限定されるものではない。主観的な意識は最低限の条件なのである。
解決の鍵はこうした主観的な要素が客観的な基礎の上に構築されると認識することである。現実の生活においては、nation のメンバーは、自分が集合的な連帯感によって繋がれて、ひとつの団体をなしているとはみなしていない。反対に、いくつかのそれ以外の要素を列挙する。共通の文化、祖先、歴史、政治制度、あるいは特定の地域への帰属意識などである。こうしたものによって彼らはひとつに結合されているのである。
政治学者でアジア研究者のベネディクト・アンダーソンの有名な「想像された共同体」(imagined community)を借りることで、この問題に前進をもたらすことができる。「nation とはイメージとして心に描かれた・想像された政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」。アンダースンによれば nation は一種の人工物(artifact)であり、一個の「想像された政治的な共同体(imagined political community)」である。しかし、このことは、nation が「虚偽の(fabricated)」存在であることを意味しない。採用すべき戦略は、想像の様式(style)、及びこの想像を可能にした制度(institutions)を用いて、この二つの点での nation の特殊性を理解することなのである。後者についてアンダーソンが挙げている例は「印刷-資本主義(print-capitalism)であり、またそれによって出現した、nation を一個の社会学的な共同体へと変えた新しい文学のジャンルであるところの、新聞と小説である。(Anderson 1991)
スタイル以外でも、共同体を区別するその他の基準をわれわれは当然見出すことができる。たとえば、その規模の大小や、行政組織の階層化の程度、内部での平等の程度などなどである。nation とナショナリズムを研究するうえで主要な目的は、nation にかかわる「想像された」集合的な連帯感の特殊な形式を見出すことである。クレイグ・カルフーンの提供する以下のリストは、多かれ少なかれひとつの共同体が nation として想像されるための基礎的条件になりうると思われるものをあげている。
注意すべきことは、カルフーンが正確を期して述べていることであるが、これらの特徴はナショナルな「修辞(rhetoric)」なのであって、通常 nation を記述する特徴として主張(claims)されるものなのである。実際、われわれは経験的な手段(empirical measures)に訴えてnation を定義することはできない。たとえば、主権が達成されているかどうか、内部が分裂しているか、一貫性が維持されているか、あるいははっきりとした境界線を引けるかどうか、ということをいうことはできない。逆に、nation は通例大いにこれらの宣言主張によって構成されているのであり、これらの宣言主張は単に記述的なものではなく、規範的なものでもある。これらの特徴は、ナショナルな感情(a sense of nationhood)の基礎を提供するに十分でありうるが、しかし、ひとつとして絶対に必要な特徴というものはない。(Calhoun 1997, 5) 異なるグループに対して、かれらが自分たちがひとつの nation を成す所以を主張するとき、そのことによって実際に、別の種類のグループが事実上建設されるのである。われわれはすべてのこうした主張を仔細に検討し、、これらの主張を、その人々を結び付けている一種の信仰として認識する必要がある。ケラスは、 nation は定義可能であるとして、以下のような定義を提案している。
この、ギリシア語 ethnos 形容詞形 ethnikos は旧約のギリシア語訳聖書で、非ユダヤ人、異教徒を指すヘブライ語の訳に使われ、中英語でも、異教徒、異邦人を指した。そこから、近世には、英語では、アイルランド人などを、やや軽蔑的なニュアンスで呼ぶ言葉としても使われた。たしかに元来のギリシア語のエトノスには、より一般的に或る一定のグループをなす人々、種族、民族、国民を指す意味があるのだが、民族学が命名される際にこのギリシア語が復活されたとき、そこに単に民族というだけでなく、異教徒、他者としての異民族というニュアンスが入っていたことは否めない。
大航海時代とそれに続く西欧による植民地化によって、西欧はさまざまな異なる文化・習慣を持つ人々に出会うこととなった。このとき、これらの異なる、西欧的な基準で「文明」を有しないとされた人々を指す言葉として使用された言葉の一つが、この ethnic という語であった。まさしくエスノロジー(文化人類学)の対象がエトノスだったのであり、そのため、言葉の適用範囲は、当初、殆ど nation とは重ならなかった。
しかしエトノス(エスニック・グループ、エトニ)の用語が当初から用いられたわけではなく、文化人類学、民族学は、その対象となる人間集団を、多くの場合は、people や volk の用語で呼んだ。明示的に、ネーションと区別された概念としてエトノスが導入されたのは比較的近年のことである。それは、ネーションの意味内容に元来は存在したエスニックな意味合いが薄れ、ナショナリズムの進展とともに国家との一体性が強調されるにつれて、国家を前提としない概念範疇が必要とされたという事情に基づくものであり、ネーションがいまだ国家との一体性を強い含意としてもたなかったナショナリズム以前の時期には、ネーションやレースは、しばしば単にエスニックな意味合いで用いられることも珍しくなかった。
こうして、ネーションの意味の国家的政治的偏向にともなってエスニックな意味内容を独立させて取り出す必要が生まれ、そこにロマン主義の復古的思潮が介在して、異民族・異邦人・異教徒というニュアンスを持つエトノスという語が、民族学がまさに習俗文化集団としてそれらの異民族・異邦人を取り扱っており、多くの場合かれらが国家以前の段階にあったということもあって、ネーションと区別され、対立する用語として選択された。
エトノスが社会科学の概念として導入された意味のなかには、とりわけアメリカや中国、ソ連などの「多民族国家」において、下位区分であるethnosが民族自決権を持たないという含意がある。もし、個々のethnosが民族自決権を持つなら、個々のethnosがnationとして独立することを主張することになる(このイデオロギーをエスノ・ナショナリズムethno-nationalismという)。ソ連や中国のような多くのエトノス ethnosを包含した国では、ethnosに民族自決権を認めるならば、国家が分解してしまうという危惧が存在していた。このゆえに、nationと区別してethnosという語がさかんに用いられるようになった。
非西欧の異民族、国家内部の少数民族に対する、こうした、ナショナルな主権、政治性、民族自決権を認めない、あるいは度外視して扱う、という差別化の視線は、そうした文化人類学的な、非政治的という形での植民地主義的・政治的な視線の対象であった諸「民族」がナショナルな意識を身に着け始めるにつれて動揺し始める。
そこで、代わってえがかれるようになる図式のひとつが、エトノスが政治的に「進歩」してネーションを「獲得」するという進化図式であった。しかしこの図式は、エスニックなものをネーションの「基盤」となるものとみなすという点で、ネーションについて批判された「本質主義」をエトノスに転化するものであると同時に、裏口から「政治的な成熟度」のような西欧的な「文明」によるランク付けを保存する面もある。
ある人間集団をエトノスとして見つめ、ネーションとしてみないということは多くの場合、非常に政治的な、しばしば差別的な含意を持っているが、文化人類学的な分析視点にネーションがなじまない、過剰な概念であることは事実であり、また近年では、かならずしもナショナルな主張を行わないエスニック・グループも多く(国家・ネーションが、マルチエスニックであることを要求し、それが擬似的なエトノスとしての一体性・均質性を志向することを批判する、反同化主義でかつ非分離主義)、この区別の意義を単に政治的に批判することはできない。
1969年にフレドリック・バルトは『エトノス集団(エスニック・グループ)と境界』をあらわし、エスニック・バウンダリー論を主張した。かれはエスニック・グループを、相互作用の中で相手と自己を差異化する場とともに生起する帰属意識をその本質であると規定した。このとき、エスニック・グループの間の差異は、社会的に維持される相互作用の「場」であって、客観的・物質的な境界が存在する必要はないとされた。
このエスニック・グループの概念は国家の中の少数派諸グループを語るものとしてして七十年代に一般化した。ここで従来のエトノス概念との重要な差異は、具体的な相互作用によって、エトノスの境界が維持されるとしたことである。しかし、出自意識を伴う文化的マイノリティ・グループをエスニシティとして規定すると、同じ論理でネイションの多数派グループもまたエスニシティとして規定されることは避けられない。こうして、エスニシティ概念は、マイノリティ・グループばかりでなく、多数派にも、また国家を横断して存在するグループにも、次第に広く、文化的共通性と帰属・出自意識に基づく集団に援用されるようになった。
日本語の民族は、訳語としては nation に由来しながらも国家の存在を前提としないため、多くの場合には、このような意味でのエスニック・グループと一致することとなった。しかし、従来の典型的な、孤立した無文字社会を想定したエトノス概念と異なり、他のエスニック・グループとの動的な関係によって生成され、維持されるエスニック・グループという概念は、国家内部での少数民族問題や民族差別問題を主要なフィールドとしつつも、「民族」という語の規定を曖昧にしている。
古典的な文化人類学のモデルにおける文化=習俗集団は「歴史を持たない」、「安定して孤立した」、社会として、自己完結的なシステムをなす共同体としてイメージされることが多かったが、エスニック・グループ研究の知見からフィードバックされ、従来のそうした無文字社会のエトノスもまた、動的な相互作用の中で、むしろアイデンティティ意識によって成立していて、「本質主義的」な規定の困難な面もまた存在することが明らかになったからである。とはいえ、環境に適応して分化した生活様式という従来言われたような意味でのエスニック・アイデンティティの「基盤」が無視できるということでは勿論ない。
民族 | 人間 | 世界史 | 国語 | 国家論 | 政治学
Nación | Etnička grupa | Nació | Etnikum | Grwp ethnig | Etnicitet | Nation | Ethnie | Nation | Volkszugehörigkeit | Ethnic group | Nation | Etno | Gento (vorto) | Nacio | Nación | Etninen ryhmä | Tjóð | Ethnie | Nation | Nación | אומה | אתניות | Etnikum | Nemzet | Þjóð | 국민 | 민족 | Etnija | Nacija | Etnik | Etniciteit | Natie | Folkegrupper | Grupa etniczna | Naród | Nação (história e geografia) | Нация | Этнос | Ethnic group | Nation | Etnicitet | Madola | Budun | Етнос | Нація | 民族