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武則天(ぶそくてん、623年-705年 在位690年-705年)は中国武周朝の創始者。高宗皇后はまたはに代わる則天文字。後述)。は則天大聖皇后。中国史上唯一の女帝となり武周を立てた。

日本では則天武后の名前で呼ばれる事が多いが、この名前は、武則天が皇帝として即位した事実を直視せず、あくまで女性としての皇后の位置に押し込めようとする呼称であるという意見があり、最近の中国では武則天と呼ぶことが多くなってきている。

経歴


少女時代

14歳の時に太宗後宮に入り才人(妃の地位。最下級)となったが、太宗に召しだされる事はあまり無く、太宗の死後にはとなった。太宗の息子の高宗は、武照が太宗の後宮にいた頃から密かに思っていたと言われていた。

その頃の宮中では、当時の高宗の皇后であった王皇后と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立し、皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃から離す為に武照を高宗に薦めた。この時に武照は昭儀(上から五番目の地位)となった。狙い通り高宗の寵愛は蕭淑妃から離れたが、蕭淑妃と共に王皇后も遠ざけられるようになった。

立后

655年永徽六年)、高宗は王皇后を廃し、武照を皇后に立てる事を重臣に下問した。この時の朝廷の主な人間は太宗の皇后の兄である長孫無忌、太宗に信任されて常に直言をしていた褚遂良(ちょすいりょう。褚は衣偏に者)、高祖李淵と同じ北周八柱国出身の于志寧、太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣の四人である。長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は賛成も反対も言わず、李勣はこの会議には欠席していた。その後、高宗が直々に李勣に下問した所、「これは陛下の家庭の事です。なぜ臣下に聞くのですか。」と答え、皇后の廃立に力を与えた。後世の史家はこの李勣の返答で武則天の専横が止められなくなったと非難するが、後に長孫無忌と褚遂良が武則天に殺され、沈黙した于志寧も左遷された事を考えると無理もないと思える。それだけ武則天は恐ろしい女性であった。

皇后となった武則天は病気がちな高宗に変わり、垂簾政治を行った。初唐はと同じく基本的に貴族政治であり、関隴貴族集団と呼ばれる貴族たちが権力を握っていた。隋代から科挙は行われていたが、この時期には科挙官僚は低い役職にしか登用されず、未だ実効的な力を発揮できないで科挙に合格しても国政の深いところに関る事は難しかった。武則天はこれを嫌い、新しい人材を積極的に登用した。この時期に登用された人材としては狄仁傑姚崇宋璟などがいる。これらはみな格式の低い家の出身であり、貴族政治の下では到底出世できなかった人間であった。武則天はただ単に低い所から登用するわけではなく、忠誠と才能を見極める人物眼を持っていた。姚崇と宋璟は後に玄宗の下で政治を行い、開元の治を導いた人物である。

武則天は外事にも取り組み、660年顕慶五年)に新羅の要請に応え、百済討伐の軍を起こす。百済を滅ぼした後の日本と百済の遺臣連合軍との白村江の戦い(中国の史書では白江の戦いと表記される)にも勝利し、更にその五年後には孤立化した高句麗を滅ぼす。

出自を問わない才能を発掘する一方で、武則天は薛懐義張易之張昌宗兄弟といった自身の愛人、武三思武承嗣ら自身の親族たる武氏一族を重用し、その専横を招いた。また許敬宗などの佞臣を使い、反対者には容赦をしない密告政治を行い、来俊臣索元礼周興ら酷吏が臣下たちを監視する恐怖政治を布いた。

683年弘道元年)に高宗が死去すると、高宗と武則天の間の息子である中宗を即位させるが、中宗の皇后韋后が自分の縁者を要職に付けようとした事に怒り、中宗を廃し、中宗の弟の睿宗を立てた。睿宗は自らの立場を理解して傀儡に徹したので無事にいることができた。

武則天に対し左遷された李姓の皇族たちは反乱を起こすが、すぐに鎮圧された。民衆は武則天が恐ろしい女性だとは思っても、その政治により生活が安定した事を感じ取っていたために叛乱に与することがなく、反乱には力がなかったのである。

簒奪

反乱鎮圧の後、武則天は女帝が出現する事が書かれた預言書(『大雲経』と呼称される仏経典)を全土に流布させたり、代に存在したと言われる明堂(聖天子がここで政治を行ったと言われる)を宮城内に建造させ、権威の強化を図ったりと自らの王朝を立てる準備を行った。但し、自身の王朝の実現をいつ頃から企図し始めたかは、研究者の間でも一定しない。

690年、ついに武則天は皇位につき、国号をとし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李の姓に代えて武姓を賜ることとなった。この周は彼女の姓を冠して武周と呼ばれる。

武則天は仏教を偏重し、諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、この事を記したと言われる大雲経を作り、これを納めるための大雲経寺という寺院を全国の州にそれぞれ作らせた。これが後の日本の国分寺制度の元になった。

失権

武則天も老いて来ると病床にあることが多くなり、指導力も衰えてきた。次第に唐復活の機運は高まり、705年1月24日宰相張柬之により譲位を迫られ、中宗が復位する事になった。その後まもなく死去した。

変革者


武則天は改名をする事が非常に好きであった。660年にはそれまでの皇帝と皇后と言う呼び名を天皇天后と言う名に改めている。他にも洛陽神都と改めたりしている。これらは彼女の趣味もあったであろうが、それまでの儒教による男尊女卑を名前を変える事で改めさせようと言う狙いがあったものと思われる。

武則天は漢字も改変し、則天文字と呼ばれる新しい漢字を作っている。二十個ほどあったが、これらはほとんど使われることは無くなっている。ただ唯一の字だけが徳川光圀の名の中に残っている。この圀は国のかつての文字「國」が「惑」を含んでいると言うことで忌み嫌い、代替として作られ国構えで「八方」を囲んだものである。他にも自らの名「照」を「曌(明+空(空の上に日と月を並べた))」として作るなど、多分に思想的な意味を持たせた造字であった。

武則天はまた元号も頻繁に変更した。睿宗が即位して改元(文明(684))した以降の年号は下記年号を参照。

評価


女性で権力を握った事で武則天は呂后西太后と良く比べられる。しかし呂后は権力のためには積極的に動いたが、政治においては特に行った事があるわけではない。司馬遷は呂后の事を高く評価したが、あくまで呂后が宮中でじっとしていた事が時代にあっていたというに過ぎない。ましてや単なる権力欲だけでを滅亡に導いた西太后などとは比べるべくもないだろう。また古代の日本の女帝も往々にして、近い時代の偉大な女性権力者としての武則天を意識していたともいわれる。

武則天が行った政治は創業期を過ぎた唐の政治的な矛盾点を改め、人材を登用し、黄金期を導いたと言う事で司馬光などの歴史家達も非常に高く評価している。武則天が子供をも容赦なく殺した残酷さを非難する歴史家は多いが、しかし一方で必ず武則天の政治的手腕に言及されている。唐代で彼女の政治能力を上回る皇帝は唯一太宗があるだけだと言ってよく、実質的には武則天こそが太宗の後継者であり、後の玄宗は武則天の残した遺産で繁栄を謳歌したに過ぎないと言ってよい。

年号


則天順聖皇后時代
  1. 光宅 684年
  2. 垂拱 685年 - 688年
  3. 永昌 689年
  4. 載初 690年

則天大聖皇帝時代(武周)

  1. 天授 690年 - 692年
  2. 如意 692年
  3. 長寿 692年- 694年
  4. 延載 694年
  5. 証聖 695年
  6. 天冊万歳 695年 - 696年
  7. 万歳登封 696年
  8. 万歳通天 696年 - 697年
  9. 神功 697年
  10. 聖暦 698年 - 700年
  11. 久視 700年
  12. 大足 701年
  13. 長安 701年 - 704年

参考文献


中国史の人物

Wu Zetian | Wu Zetian | Wu Zetian | Wu Zetian | Võ Tắc Thiên | 武则天

 

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