権利(けんり)とは、一般的に、一定の利益を主張又は享受することを法により認められた地位とか、他人に対し一定の行為・不作為を求めることができる地位などと言われている。
しかし、最近類と種差により権利概念を定義することは、種差を決定する要素に関する客観的な基準を見出しえないこと等から困難とされており(「権利」概念に限らず、法学における基本的な概念は同様の困難さを有する)、定義よりは用法により権利概念を解明すべきとの見解もある。
これに対し、英語の right は「正義」の意味はあっても「法」 (law) の意味はない。これは、ノルマン朝時代のイングランドにおいて、専制的な王が臣民に課した law に対立する臣民の right という意味合いで right という語が用いられるようになったことに由来するとされている。もっとも、その後、権利の章典に至り、law と right の対立が法の支配として克服される。
前者の利益説は、法が一定内容の義務を他人に課すことにより保護される特定個人の利益を権利とする考え方である(ベンサム、イェーリング)。しかし、金銭の借主が経済的に困窮している例にすると、このような場合にも貸主には借金を返してもらう権利はあるとされるが、そのことによる具体的な利益があるとは言い難い。したがって、利益をもって権利とするのであれば、利益の内容は相当抽象的なものにならざるをえない。また、権利の主体的・能動的な側面を重視する立場からは、受益的な側面を強調しているという点で妥当性を欠くことになる。
後者の意思説は、法規範により自分が表現した意思により企図する効果を実現することができる力を権利とする考え方である(カント、サヴィニー)。しかし、このような考え方についても、意思・意欲を期待することができない乳幼児は権利の主体になることはできないのかという問題を抱える。したがって、この見解によっても意思の内容は相当抽象的にならざるを得ない。なお、意思説のバリエーションとして、他者に対する一種の支配権を権利とする見解(選択説)もあるところ(ハート)、当然、選択能力のない乳幼児の問題が生じる。
また、以上のような問題点を指摘した上で、純粋法学の立場から権利は法の一部に他ならないとする見解も主張される(ケルゼン)。この見解は、法規範の適用、すなわちサンクションの執行の手続が特定の者の意思の表明に依存する場合に、当該人の具体的な利益や意思にかかわらず権利を有すると観念され、権利とはサンクションの執行手続を発動する意思を表明する資格がある者との関係における法規範であるとする。
この点、英米の法理学においては、ホーフェルド以来、権利概念について以下のような用法の分析が試みられている。
これに対し公権とは、公法上の権利のことをいい、国家と私人とが権利義務関係にあるという考え方を前提として成立する概念である。
公権はさらに、国家が私人に対して有する国家的公権と、私人が国家に対して有する個人的公権に分かれる。前者はいわゆる国家権力又は国家機関の権限であり、刑罰権、警察権などが該当する。後者はいわゆる基本的人権と言われるものがその中心をなすほか、法律により個別的に保障されるものもある。
もっとも、私法と公法との区別に問題があるように、どのような権利が私権になるか公権になるかは、明確ではない場合もある。例えば、国家賠償請求権は、国家と私人との関係という点からは公権としての性質を有するとも言えるが、不法行為に基づく損害賠償請求権の一種としてとらえると、財産権の主体である国庫と私人との関係であり私権と考えることも可能である。
これに対し人格権とは、名誉、氏名、プライバシーなど人格的な利益を目的とする権利をいう。もっとも、本来的には経済的利益を目的とするものではないが、それが侵害された場合には不法行為を構成するため、最終的には損害を金銭評価して損害賠償請求の対象となるのはもちろんである(侵害が継続的に行われる場合は人格権に基づく差止が認められることがある)。
身分権とは、一定の親族関係にあることに基づく権利のことをいう。人格権もそうであるが、財産権と比較した場合に一身専属性を有することを原則とすることに特色がある。また、身分権の中には権利でありながら義務としての性質を有するものもある(親権など)。
債権とは、人の人に対する権利、すなわち「特定の者に対して」特定の行為を主張できる権利のことをいう。日常用語では金銭給付を求めうる権利という意味に限定して用いられることもあるが、法学上は金銭給付に限定されない。