春の祭典 (はるのさいてん、Le Sacre du Printemps)はロシアの作曲家、イーゴリ・ストラヴィンスキーが作曲したバレエ組曲。1913年に完成し、1921年、1947年に改訂された(管弦楽の縮小が中心)。
この作品の初演は1913年5月29日にパリのシャンゼリゼ劇場でバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の公演として行われた。振付はヴァーツラフ・ニジンスキー、オーケストラの指揮はピエール・モントゥーであった。
この曲は極めて独創的な音楽であり、原始的な複雑なリズム・変拍子・不協和音に満ちていて、それまでの音楽とはまったく異なるものであった。ストラヴィンスキーは、ニジンスキーにまず音楽の基礎を教えることから始め、毎回音楽と振付を同調させるのに苦労した。不安になったバレエ・リュスの主宰、セルゲイ・ディアギレフはダルクローズの弟子ミリアム・ランベルク(マリー・ランベール)を振付助手として雇い入れた。しかし、その後も120回ものリハーサルを要し、振付及び指導の経験がほとんど無かったニジンスキーはしょっちゅう癇癪を起こした。しかし、ランベルクによれば、ニジンスキー自らが踊って見せた生贄の乙女の見本は実にすばらしく、それに比べて初演で生贄の乙女を踊ったマリヤ・ピルツの踊りは、ニジンスキーの「みすぼらしいコピー」に過ぎなかったという。
初演にはサン=サーンス、ドビュッシー、ラヴェルなどの滔々たる顔ぶれが揃っていた。曲が始まると、嘲笑の声が上がり始めた。そして始まったダンサーたちの踊りは、腰を曲げ、首をかしげたまま回ったり飛びあげるという、従来のバレエにはない振り付けであった。数分経つと、観客達がお互いを罵り合い、殴り合った。そして、野次や足踏みなどで音楽がほとんど聞こえなくなり、ついには、ニジンスキー自らが舞台袖から拍子を数えてダンサーたちに合図しなければならないほどであった。当時の新聞には「春の虐殺(massacre)」という見出しまでが躍った。しかし、翌年の再演では大成功を収めた。
後に作曲家ピエール・ブーレーズは、この作品の斬新な作曲技法を解明するとともに、自ら演奏・録音を行いこの曲の解釈に一石を投じた。
ニジンスキー以降、レオニード・マシーン、モーリス・ベジャールなどの振付師による振付が知られてきた。一方、ニジンスキーによる初演の振付は、彼が結婚してバレエ・リュスを解雇されたためにわずか8日間しか上演されず、その後は完全に忘れ去られていた。1979年から8年かけて舞踏史学者のミリセント・ホドソンとケネス・アーチャー夫妻によって、現存していた資料やランベルクなど関係者の証言などから復元され、1987年についに復活上演された。現在ではパリ・オペラ座の定番となっている。
場所などの具体的な設定は無く、名前があるのは太陽神イアリロのみである。ちなみに、キリスト教化される以前のロシアの異教徒たちの世界が根底にあるといわれる。
この筋は友人の画家ニコライ・リョーリフ(レーリッヒ)が1910年4月28日付(ユリウス暦)の『ペテルブルク新聞』に発表したバレエの草案が元になっており、彼は台本と共に美術を担当した。この曲はリョーリフに献呈されている。ちなみに、ストラヴィンスキーの自伝では、彼自身が原案を思いついたと書かれているが、ここで分かるとおり事実ではない。
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