State Guest-House Akasaka Palace, Main Yard-2.JPG主庭、1909年(明治42年)築造。]] 明治(めいじ)は、日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。1868年1月25日から1912年7月30日までの期間を指す。明治天皇在位期間とほぼ一致する。
明治5年12月3日を明治6年1月1日(グレゴリオ暦の1873年1月1日)とし、明治31年にグレゴリオ暦と同じ置閏法を採用したことで、西欧諸国との日付、年が一致するようになった。
明治天皇が即位、天皇は江戸に行幸し、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指した。そして新たに江戸を東京と改め日本の新しい政治の中心にすえる。(この遷都については諸説ある。)
尊皇攘夷思想に基づき、天皇は、親政を行い人民を直接統治するとしたが、政治体制は大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されるまで、様々に変化した。中国明朝などに準じ一世一元制を定め天皇の謚号は元号とし、それまでの陰陽道的改元を廃止した。
新政府は江戸時代のすべてを改革し、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指していった。新政府は、藩を廃止し、武士の特権をなくし、地租改正によって従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤とした。また徴兵制を実施し、西欧列強を模範として富国強兵を推進した。戸主は徴兵を免除されたので、主に戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担った。1869年(明治2年)には各藩に版籍奉還を命令し、1871年(明治4年)には、廃藩置県を行った。国民には、江戸時代の自由の制限をなくし、身分の撤廃を行い四民平等とし、日本全国の行き来の自由を認め、職業の選択の自由や、散髪帯刀の自由など様々なことを改革していった。
一方、富国強兵、殖産興業の2つを国の重要政策とし、八幡製鉄所の建設、鉄道の敷設、輸出産業の育成など、欧米列強に対抗するため一刻も早い近代化を目指し国力の邁進に努めた。また徴兵制を実施し、列強に対抗するために近代的な軍隊の創設にも取り組んだ。
詳細は明治維新を参照のこと。
自由民権運動の発展に対し、明治14年(1881年)には「国会開設の勅諭」が下り、明治18年(1885年)には太政官制を廃止し、内閣制を導入し、初代総理大臣には伊藤博文が就任した。政府は政府部内で即時国会開設を唱えた急進派の大隈重信(佐賀藩出身)を追放しつつも、明治22年に議会を開設することを国民に約束した。
東アジアで最初の成文憲法である大日本帝国憲法(明治憲法)を発布した。この憲法に対する当時の評価は高く、国内では「聞きしにまさる良憲法」(高田早苗)などと民権派からの絶賛もあった。また欧米各国の識者からも、実際の運用能力への留保はありつつ、その内容に関しては高く評価された。
同憲法は、形式的な権限と最高の権威を持つ天皇を不可侵の元首とし、立法と財政に関する権限を帝国議会に持たせることで、立憲君主制を実現させた。たとえば、天皇は第五条において立法権者としての地位を与えられたが、その職務は概ね、法律を裁可することのみであり、またその裁可には国務大臣の副署が必要とされた。つまり、大臣副署がなければその法律は無効であり、さらに天皇が裁可を拒むことは形式上可能であっても、事実上は不可能であった。この点は現在のイギリス国王も同じといえる。同憲法に問題があるとすれば、行政権の強大さとその強大さをもってしても統帥権を盾に介入し得なかった軍部の独立性の問題であった。
そして明治22年(1889年)大日本帝国憲法の公布とともに、衆議院議員選挙法が公布され、25歳以上で納税15円以上の男子のみに選挙権を与えた制限選挙を実施し、明治23年(1890年)に国会(帝国議会)が開会された。
その後も徐々に選挙権の制限条件を緩和していき、また政府と政党との対立も緩和されていった事もあって、明治時代末期から民主主義的な思想が民衆に広まりはじめ、大正デモクラシーへとつながって行く。
また南下するロシアに対抗するため、朝鮮半島の近代化を推し進めたが、これをめぐって朝鮮の属国を維持したい清と対立し、明治27年(1894年)に日清戦争が勃発する。当時の国力では財力、軍艦、装備、兵数すべてにおいて清の方が優位であったが勝利。そして、下関条約によって朝鮮半島の独立を認めさせ、当時としては莫大な賠償金を獲得し、領土として遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲させた。この内、遼東半島は露仏独の三国干渉により返還させられ、国民に屈辱感を与え、報復心が煽られた。しかしこの戦争によって日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなった。他方、「眠れる獅子」と言われた清が敗戦したことから、諸列強の中国大陸の植民地化の動きが加速されることとなった。
1902年(明治35年)には、ロシアの南下政策を牽制するという利害一致から日英同盟が締結された。当時世界第一の大帝国で「栄光ある孤立」を貫いていた英国が初めて同盟を締結したということと、アジアの新興国家である日本が相手ということから世界の注目を受けたが、ヨーロッパでは、極東において成り上がりの日本を手先にして火中の栗(中国)を拾うものとする風刺も見られた。その後、満州、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に日露戦争が勃発。大国ロシア相手に日本は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した。ロシアはなお陸軍は維持していたが、海軍力の大半を失い、国内でも革命運動が発展していたため講和に傾いた。日本も長期戦には耐えうる経済発展を達成していなかったので、講和に応じた。日露戦争を終結させたポーツマス条約により、樺太・千島交換条約によって放棄した樺太の南部の獲得に成功した。近代初の白色人種国家に対する有色人種国家の勝利であり、世界史上の意義も大きい。
1905年、韓国統監府初代統監には伊藤博文が任命された。伊藤は1908年に辞任。1909年7月、桂内閣が韓国併合を閣議決定。10月26日、ロシアとの会談を行うため渡満し、ハルピンに到着した際、大韓帝国の独立運動家安重根に暗殺された。明治43年(1910年)には日韓併合条約を結び、大韓帝国を併合し、ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がった。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは、諸外国にも反響を与えたが、嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成されたとする説もある。
しかし賠償金は全く取れなかったため、日本国内では国民の怒りが爆発し、日比谷焼打事件が起こった。また堺利彦・片山潜らの反戦運動や与謝野晶子やキリスト教の立場からする内村鑑三の非戦論も唱えられた。
その後第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、大正9年(1920年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加し、日本は明治維新から約50年という速さで列強国のひとつに数えられることになった。
| 明治 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 西暦 | 1868年 | 1869年 | 1870年 | 1871年 | 1872年 | 1873年 | 1874年 | 1875年 | 1876年 | 1877年 |
| 干支 | 戊辰 | 己巳 | 庚午 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 |
| 明治 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
| 西暦 | 1878年 | 1879年 | 1880年 | 1881年 | 1882年 | 1883年 | 1884年 | 1885年 | 1886年 | 1887年 |
| 干支 | 戊寅 | 己卯 | 庚辰 | 辛巳 | 壬午 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 | 丙戌 | 丁亥 |
| 明治 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 | 26年 | 27年 | 28年 | 29年 | 30年 |
| 西暦 | 1888年 | 1889年 | 1890年 | 1891年 | 1892年 | 1893年 | 1894年 | 1895年 | 1896年 | 1897年 |
| 干支 | 戊子 | 己丑 | 庚寅 | 辛卯 | 壬辰 | 癸巳 | 甲午 | 乙未 | 丙申 | 丁酉 |
| 明治 | 31年 | 32年 | 33年 | 34年 | 35年 | 36年 | 37年 | 38年 | 39年 | 40年 |
| 西暦 | 1898年 | 1899年 | 1900年 | 1901年 | 1902年 | 1903年 | 1904年 | 1905年 | 1906年 | 1907年 |
| 干支 | 戊戌 | 己亥 | 庚子 | 辛丑 | 壬寅 | 癸卯 | 甲辰 | 乙巳 | 丙午 | 丁未 |
| 明治 | 41年 | 42年 | 43年 | 44年 | 45年 | 大正 | ||||
| 西暦 | 1908年 | 1909年 | 1910年 | 1911年 | 1912年 | |||||
| 干支 | 戊申 | 己酉 | 庚戌 | 辛亥 | 壬子 |
فترة مييجي | Meiji-Zeit | Meiji_Period | Era_Meiji | Ère_Meiji | תקופת המייג'י | 메이지 시대 | Epoka Meiji | Era Meiji