日本酒(にほんしゅ)は、米を醗酵させて作るアルコール飲料である。酒税法上では清酒(せいしゅ)、一般には単に酒(さけ)またはお酒、古語では酒々(ささ)、現代の学生言葉ではポン酒など、英語などではsakeと呼ばれる。
約5℃から約60℃まで幅広い飲用温度帯がある(本ページ「飲用温度」参照)。同じアルコール飲料を同じ土地で異なった温度で味わうのを常としているのは、世界的に見て日本酒のみである。また日本酒は米を米麹で醸す唯一の酒であり、醸造学的にも並行複醗酵で造る特異な飲料である。
料理で魚介類の臭み消しや香り付けなどの調味料としても使用される。
近年、日本国内での消費は減退ぎみになる一方、国外ではアメリカ・フランスを中心として日本酒、とくに吟醸酒のブームが起こっている。(本ページ「昭和時代以降」参照)
日本に酒が存在することを示す最古の記録は、3世紀に成立した『三国志』東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある記述である。同書は倭人のことを「人性嗜酒(さけをたしなむ)」と評しており、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があることも述べている。ただ、この酒が具体的に何を原料とし、またどのようなやり方で醸造したものなのかまでは、この記述から窺い知ることはできない。ちなみに、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが巫女(みこ)の仕事として始まったことをうかがわせる一つの根拠となっている。
もう一つの根拠は、「医」という文字の変遷に見られる。中国大陸においては、古くは同じく口噛みの製法で紀元前14世紀ごろアワ、キビなどの雑穀から「小米酒」( )を造ることから醸造の歴史が始まったが、紀元前8世紀以降はすでに「米酒()」の時代に入っていた。これは成分的に現在の日本酒とほとんど同じである。1世紀ごろの漢方医学の書物には、古代漢方において酒醪(しゅろう)と呼ばれる処方、すなわち服薬に際して「酒で煎じるべし」「酒で服用すべし」といった指示が頻繁にあらわれる。こうしたことから、当時すでに米で造った酒が医療的に重要な意味を持っていたことがわかる。
「医」の旧字体「醫」の部首である「酉」(とりへん)は、「醸」「醗」「酵」のように酒に関連した物事をあらわすが、これは酒を醸す壺が半ば土に埋まっている象形に起源を持つ。さらに時代をさかのぼると「醫」の下部「酉」は「巫」であった。これはすなわち、まだ医療行為の主流が現代でいう「占い」のようなものであったころ、集落や古代国家においてそれを司る者が巫女もしくは巫祝(ふしゅく)であったことを示している。またその文字が時代とともに「醫」に変化していったことから、医師である巫女・巫祝が、「占い」に加えて今でいう「薬物療法」を取り入れ、医術が進歩もしくは変化してきたことがうかがえる。すなわち、生薬(しょうやく)の類を医師が酒醪として処方するようになってから、「医」の文字も「醫」に変化していった、と考えられるのである。
一つは『大隅国風土記』逸文(713年以降)である。大隅国(今の鹿児島県東部)では村中の男女が水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む風習があることが記されている。彼らはその酒を「口嚼(くちかみ)ノ酒」と称していたという。これは唾液中の澱粉分解酵素であるアミラーゼ、ジアスターゼを利用し、空気中の野生酵母で発酵させる原始的な醸造法であり、東アジアから南太平洋、中南米という広い範囲に分布していることが知られている。現代日本語でも酒を醸造することを「醸(かも)す」というが、その古語である「醸(か)む」と「噛(か)む」が同音であるのは、このことに由来する。
もう一つは『播磨国風土記』(716年頃)である。神に供えた干し飯が水に濡れてカビが生えたので、酒を造らせてその酒で宴会をしたという記述が見える。こちらは麹カビの糖化作用を利用した醸造法であり、現代の日本酒のそれと相通じるものである。このように、奈良時代の同時期に口噛みと麹というまったく異なる醸造法が記録されているわけであるが、当時一般的であったのは後者の方であったろう。前者は大隅という辺境の地にたまたま残った古い風習を記録したものと解すべきである。
古代の酒は、標準的には、出雲や博多に現在も残る練酒(ねりざけ)のようにペースト状でねっとりとしたものであったようである。現在でも、皇室における新嘗祭(にいなめさい)では、このような古代の製法で醸造した白酒(しろき)、黒酒(くろき)という二種類の酒が供えられる。黒酒とは、白濁した白酒に、久佐木と呼ばれる草を蒸し焼きにし、その灰をまぜこんで黒くした酒である。これは、黒みがかった古代米で造った古代の酒の色を伝承していくための工夫の結果であろうと考えられている。
さて、このような粘度の高い古代酒から、今日私たちが見るような透明でサラサラとした清酒(せいしゅ)を精製することは決して不可能ではなかっただろうと思われる。濁りを漉しとるだけならば、布、炭、砂などで濾過する原始的技術があったからである。ゆえに、清酒(せいしゅ)が日本酒そのものの誕生とほぼ同時期である上代に造られたと考えるのにはさほど無理はない。
しかしながら、一方ではこの時代の古文書、たとえば天平年間の諸国の『正税帳』などには「浄酒」(すみさけ/すみざけ)といった語も出現する。よって「清酒(すみさけ)」は「清(きよ)め」など祭事的な用途に使われる酒を意味していた、という説が生まれた。
いずれにせよ清酒(せいしゅ)は、やがて『菩提泉』に代表されるような平安時代以降の僧坊酒にその技術が結集されていくことになる。また、この『菩提泉』をもって日本最初の清酒とする説もあり、それを醸した奈良正暦寺には「日本清酒発祥之地」の碑が建っている。さらに兵庫県伊丹市鴻池にも、同市が文化財に指定した「清酒発祥の地」の伝説を示す石碑である鴻池稲荷祠碑(こうのいけいなりしひ)が建っている。
たとえば、『日本書紀』によれば、応神天皇19年に吉野の国樔(くず)が醴酒(こざけ)を献上したという記述が見られる。国樔は「国主」「国栖」とも書き、奈良時代以前の日本各地に散在していた非農耕民で、その特異な習俗のため大和朝廷からは異種族扱いされていた人々である。『延喜式』の記述によれば、その国樔が献上した酒でさえも醴酒という米と麹を使用して造る酒であったことがうかがえるので、麹による醸造法は当時既に全国的に普及していたと見るべきである。須須許里が実在の人物であったとしても、彼がもたらしたものはせいぜい酒造技術の向上レベルのものであったと思われる。
なお、醴酒に関しては、養老1年(717年)美濃国から献上された醴泉で醴酒を造ったとの記述も『続日本紀』にある。
その後は朝廷直属の酒造組織に代わって、寺院で造られた僧坊酒(そうぼうしゅ)が高い評価を得るようになっていった。
数ある僧坊酒の中で、奈良の寺院が造った「南都諸白(なんともろはく)」は室町時代に至るまで長いこと高い名声を保った。諸白とは、現在の酒造りの基礎にもなっている、麹米と掛け米の両方に精白米を用いる手法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のことを、当時の酒の主流をしめていた濁り酒(にごりざけ)に対して呼んだ名称であり、江戸時代以降も「下り諸白」などのように上級酒をあらわす語として使われた。
奈良菩提山正暦寺で産する銘酒『菩提泉』を醸す菩提酛(ぼだいもと)という酒母や、今でいう高温糖化法の一種である煮酛(にもと)などの技術によって優れた清酒を醸造していたが、この時代の清酒は量的にも些少であり、有力貴族など極めて限られた階層にしかゆきわたらなかったと考えられる。
またこの事件は、争いに明け暮れる京都市中の商人たちとは無縁に坦々と生産が続けられた、奈良の『菩提泉(ぼだいせん)』『山樽(やまだる)』『大和多武峯(たふのみね)酒』、越前の『豊原(ほうげん)酒』、近江の『百済寺酒』、河内の『観心寺酒』などの僧坊酒がさらに評価を高める原因にもなった。
室町時代初期に書かれた『御酒之日記(ごしゅのにっき)』には、すでに今日の段仕込みや、乳酸菌発酵の技術、火入れによる加熱殺菌、木炭によるアルコール濾過などについての記述がある。
やがて、京都以外の土地でも酒屋が出現するようになり、こういうところで造られた酒が京都の酒市場に出回るようになった。京都の酒屋は、他国から市中に入る酒を「他所酒(よそざけ)」または「抜け酒」と呼んで警戒し、排除しようと躍起になった。洛中洛外の酒屋や町組(ちょうぐみ)からは、価格の安い他所酒の販売差し止めを陳情する願い状が、たびたび幕府の奉行所に提出されている。
しかし、この他所酒こそが、のちの日本の酒文化の中核をなす地酒の出発点でもあった。文明年間(1469年~1487年)には西宮の『旨酒』、堺の『堺酒』、加賀の『宮越酒』などが、弘治3年(1557年)には伊豆の『江川酒』、河内の『平野酒』などが盛んに取り引きされたことが記録からうかがえる。また、厳密にいえばこれは日本酒ではないが、天文3年(1534年)には「南蛮酒」として今日でいう泡盛の『清烈而芳』が酒市場に入っていた。
天正10年(1582年)『多聞院日記』によれば奈良で十石入り仕込み桶が開発された。これによって地方においても酒の大量生産が可能になり、さらに地酒文化を花開かせることにつながっていく。戦国時代の群雄割拠が諸国に文化的な独自性を持たせたことも追い風となって、それぞれの土地の一般庶民の食文化との相互補完をベースとしながら、各地に数々の新しいローカルブランドが誕生し、味、酒質、製造量などの点において多様化が進んでいった。
このころ以前は、新酒よりも、古酒が圧倒的に高級とされ値段も高かった。古酒は茶色がかって、現代の紹興酒のように醤油のような香りがあったと推定される。しかし酒の大量生産が可能になると、酒を輸送するのに用いられるコンテナも、壺や甕ではなく樽が主流になっていった。古酒は密閉されてこそ酒質が保たれ、壺や甕はそのために工夫されて発達してきた醸造器であったが、樽では密閉が効かない。このため古酒が流通しにくくなっていき、人々は新酒をしだいに飲むようになっていった。新酒への需要が高まり、値段も相対的に高くなっていった。
16世紀(1500年代)半ばには蒸留の技術が九州に伝えられ、焼酎が造られはじめたが、これらも芋酒(いもざけ)などとしていち早く当時の酒の中央市場であった京都に入っている。 織田信長、伊達政宗、大友宗麟ほか有力大名の海外との通商、豊臣秀吉の南蛮貿易により南蛮酒として古酒(くーす)と称される琉球泡盛や、桑酒、生姜酒、黄精酒(おうせいしゅ)、八珍酒、長命酒、忍冬酒(にんどうしゅ)、地黄酒(じおうしゅ)、五加皮酒(うこぎしゅ)、豆淋酒(とうりんしゅ)などなどの中国・朝鮮の珍酒や薬草酒、さらにヨーロッパからのワインも入ってきた。「アラキ」と記される南蛮酒もあり、これにはアラビアから地中海方面に広く現在も存在するアラックとする説や、戦国武将荒木村重の城下である摂津伊丹の銘酒とする説などがある。 こうした国際色豊かな酒の交流は、江戸時代初期の朱印船貿易へと引き継がれていった。
一方、織田信長の比叡山焼き討ちや石山本願寺攻撃に代表されるように、この時代の支配者たちは、それまでさまざまな意味で強い力を持っていた寺院勢力を恐れ、執拗に殲滅していった。これによって平安時代中期から培われた僧坊酒の伝統は衰滅していき、のちに寺そのものが再建されても、もはや醸造技術が寺院に復活することはなかった。かたわらでは、鴻池流や奈良流など各地の造り酒屋や杜氏の流派が、僧坊酒の技術に改良を加えながらこれを承継していくことになる。
日本酒は、こうして中世の末までにいちおう濁り酒から清酒への移行を完了したと考えられるが、だからといって、これ以後に濁り酒がなくなるというわけではないし、清酒も今日のそれと同じものというわけでもない。濁り酒は、農民たちが自家製するどぶろくを含めて、清酒よりも安価で手軽な格下の酒として製造、流通されつづける。また清酒に関しても、一般的には片白(かたはく)や並酒(なみざけ)が主流であったため、ほとんどの清酒はまだ玄米の持つ糠が雑味として残る、黄金色がかった、今日の味醂(みりん)のようにこってりした味であったと考えられる。
奈良流の諸白を改良し、効率的に清酒を大量生産する製法が、慶長5年(1600年)に伊丹の鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)によって開発され、これが大きな契機となって、次第に酒が本格的に一般大衆にも流通するようになっていった。
また日本酒は、朱印船貿易により東南アジア各地に作られた日本人町やその国の王族などへ輸出された。とくにオランダ東インド会社(略称VOC)の根拠地であったバタヴィア(現インドネシアの一部)では、日本酒は定期的に入荷され、人々の暮らしの一部として欠くべからざるものとなったが、ヨーロッパ(おもにオランダ)から届けられるワインに対して日本酒はアルコール度数がじゃっかん高いために、バタヴィアを始めとした東南アジアにおいては、日本酒は食前酒、ワインを食中酒として飲むという独自の食文化の伝統が生まれた。
いっぽう日本国内においては、江戸時代初期には、後世から四季醸造と名づけられる技術があり、新酒、間酒(あいしゅ)、寒前酒(かんまえざけ / かんまえさけ)、寒酒(かんしゅ)、春酒(はるざけ)と年に五回、四季を通じて酒が造られていた。
酒造りは大量の米を使うために、米を中心とする食料の供給とつねに競合する一面を持っている。そこで幕府は、ときどきの米相場や食糧事情によって、さまざまな形で酒造統制を行なった。 まず明暦3年(1657年)、初めて酒株(酒造株)制度を導入し、酒株を持っていなければ酒が造れないように醸造業を免許制にした。 寛文7年(1667年)伊丹でそれまでの寒酒の仕込み方を改良した寒造りが確立されると、延宝1年(1673年)には酒造統制の一環として寒造り以外の醸造が禁止され(寒造り以外の禁)、これにより四季醸造はしばらく途絶える形となった。
こうして酒造りは冬に限られた仕事となったので、農民が出稼ぎとして冬場だけ杜氏を請け負うようになり、やがて各地にそれぞれ地域的な特徴を持った杜氏の職人集団が生成されていった。
このころは全国各地で、一般的に造り酒屋によって製造・卸の兼業が行われていたが、とくに江戸では人口が集中して大消費地になったために、酒についても専門問屋仲間が成立した。そして江戸に着いた荷をさばく問屋の寄合いも形成された。いっぽう大坂では、従来の造り酒屋が問屋を兼業していたので、江戸のような専門酒問屋は出現しなかった。このように江戸時代に入り商品化された酒は「商人の酒」といわれるようになった。
一方、酒によって多大な利益を得る商人から、いかにして租税をとりたてるかが幕府にとって頭の使いどころでもあり、頭の痛い問題でもあった。幕府から見れば、酒株制度には酒造石高をめぐって一つの弱点があり、酒屋ら商人たちがそこをうまく利用すると、幕府に入る酒税が先細りになっていく恐れがあった。そのため幕府は寛文6年(1666年)を始めとして何回か酒株改めをおこなった。ことに元禄の酒株改め(1697年)は徹底的におこなわれ、このときから宝永6年(1709年)まで酒屋には運上金(うんじょうきん)も課せられた。
しかしこのころから神戸・西宮あたりの灘目三郷が新興の醸造地域としてすでに注目を集め始める。後世、銘醸地の代表格となる灘が、最初に文献に登場するのは正徳6年(1716年)であるが、享保9年(1724年)の下り酒問屋の調査では、灘目三郷の名が伊丹酒を追い上げる酒の生産地として報告書に記載されている。これが江戸時代後期の灘五郷である。
これら摂泉十二郷(せっせんじゅうにごう)と呼ばれた、伊丹や灘やその周辺地域で造られた酒は、天下の台所といわれた集散地大坂から、すでに人口70万人を擁していた大消費地江戸へ船で海上輸送された。こうして上方から江戸へ送られた酒を下り酒と呼ぶ。
時代により変動があるが、下り酒の7割から9割は、摂泉十二郷産のもので、それ以外では尾張、三河、美濃で造られ伊勢湾から合流する中国もの、他には山城、河内、播磨、丹波、伊勢、紀伊で造られた酒が下り酒として江戸に入っていった。いっぽう関東側では、中川と浦賀に幕府の派出所があり、ここで江戸に入る物資をチェックしていた。この調査結果は江戸入津と呼ばれ、幕府が江戸市中の経済状態を市場操作したり、国内の移入移出の実態を調べるのに活用された。
下り酒は、はじめは菱垣廻船で木綿や醤油などと一緒に送られていたが、享保15年(1730年)以降は樽廻船として酒荷だけで送られるようになった。
宝暦年間初期は豊作が続いたため、幕府は宝暦4年(1754年)に勝手造り令を出し、新酒を造ることも許可した。このため四季醸造は復活の機会があったのだが、もはや生き証人としてその技術を心得ている杜氏がいなかったこと、また消費者もうまい寒酒の味に慣れ、酒郷ではよりよい酒質を求めて熾烈な競争をくりひろげていたことなどから、以前のような復活に至らなかった。こうして幕府の酒造統制が緊緩を揺らいでいくうちに、四季醸造の技術は江戸時代の終わりまでに消滅してしまうことになる。それが復活できたのは、じつに昭和時代の工業技術によってであった。
松平定信は寛政の改革の一環として天明の三分の一造り令を継続するとともに、「酒などというものは入荷しなければ民も消費しない」との考えのもとに下り酒の江戸入津を著しく制限した。
享和2年(1802年)水害などに起因する米価の高騰により、幕府は酒造米の十分の一を供出させた。この米のことを十分の一役米という。酒屋たちは抵抗、反発し、十分の一役米は享和3年(1803年)に廃止された。
文化文政年間は豊作の年が続き、幕府は文化3年(1806年)にふたたび勝手造り令を発し、酒株を持たない者でも、新しく届出さえすれば酒造りができるようになった。こうして酒株制度はふたたび有名無実化したが、このことはやがて江戸後期から幕末にかけ、酒屋たちのあいだに複雑な内部抗争を起こさせることになる。
天保8年(1837年)(一説には天保11年(1840年))山邑太左衛門(やまむらたざえもん)によって宮水(みやみず)が発見されると、摂泉十二郷の中心は海に遠い伊丹から、水と港に恵まれた灘へと移っていった。
しかし、これはとても正確とは言えない。日本国外への輸出は、江戸時代初期に朱印船貿易によって東南アジアに輸出されていた多くの実績があり、とくにそれ以後、日本酒の飲用がその地の独自な食文化の一部として定着をみた、オランダ東インド会社の根拠地バタヴィア(現インドネシアの一部)などを通じて、オランダ経由で日本酒がすでに江戸時代にヨーロッパにもたらされた形跡がある。また、江戸時代後半にはカムチャツカからシベリア経由でロシア帝国がヨーロッパに日本酒を紹介していたことなども明らかになっている。
しかしながら、明治維新を迎えて、日本酒が政府のお墨付きと後押しを受けて表舞台を通じてヨーロッパに入っていったことは事実であるといえよう。
明治8年(1875年)、明治政府は、江戸幕府が定めた複雑に入り組んだ酒株に関する規制を一挙に撤廃し、酒類の税則を醸造税と営業税の二本立てに簡略化して、醸造技術と資本のある者ならば誰でも自由に酒造りができるように法令を発した。このためわずか一年のあいだに大小含め30000を超える酒蔵がいっきに誕生した。しかし、明治政府が酒税の徴収に目をつけ、酒蔵への課税をどんどん重くしていくにつれ、酒蔵の数は減っていきやがて8000前後にまで減退した。(ちなみに2005年現在では約1500まで減っている。)
酒蔵は無抵抗に明治政府の課税が重くなるのを見過ごしていたわけではなく、さまざまな知恵をこらしてこれに抵抗した。酒税をめぐって、この時期の酒蔵たちと明治政府のあいだで繰り広げられた攻防は、30年近くに及ぶ一つの戦記ものですらあるが、その中で代表的に語り継がれるのが明治15年(1882年)の大阪酒屋会議事件である。
こうしたなかで、最終的に明治政府は国家歳入のじつに30%前後を酒税に頼るにいたった。 課税に耐えて生き残ることができた酒蔵は、富裕な大地主によって開かれたものばかりであった。以前、大地主たちは毎年の収穫から一定量の米を不作や飢饉の時にそなえて備蓄していたものであったが、備蓄米はそのまま古くなって無駄になるリスクがつきまとった。そこで彼らは、もはや備蓄することをやめ、その分の米を自己資本でやっている酒蔵へ原料として回したのである。こうした大地主が始めた酒蔵のなかには、そのまま発展して今日の日本酒業界でいわゆる「大メーカー」となっている会社も多い。
数多くのビール醸造メーカーも酒類業界に参入したが、清酒メーカーと問屋は、競合品であるビールの進出を阻止しようとした。そのため従来からの問屋はビールを取り扱わず、結果、酒小売店もビールを取り扱わなかった。そこで、ビールメーカーは薬種問屋など新しい流通網を構築した。
こうした背景には、近代以前はいわゆる科学的再現性が酒造りにおいてはつねに大問題だった、という事実がある。たとえ良い酒ができても、「同じものをまたつくる」ということが不可能に近かったのである。酒蔵では空気中に自然に存在する酵母を取り込んだり、昔から住みついている酵母(いわゆる「蔵つき酵母」「家つき酵母」)の力に頼っていたが、株が一定せず、醸造される酒は品質が安定しなかった。しかし明治期に入って、西洋の微生物学が導入され、さらにやがて日清戦争で国力に余裕のできた政府が後押しをして、ようやく品質の安定と向上が図られるようになったのである。
日清戦争(明治27年(1894年)-明治28年)は明治政府に、勝利による賠償金など有形のもののみならず国際的地位の向上など無形の余裕をもたらした。こうした状況を受けて政府は、鉱工業などと並んで醸造業の発展も積極的に支援し、明治37年(1904年)大蔵省の管轄下に国立醸造試験所を設立した。ここではやがて明治42年(1909年)山廃酛が開発され、翌年(1910年)には速醸酛が考案され、 明治44年(1911年)には国立醸造試験所によって第一回全国新酒鑑評会が開催されることになる。
それを基にして、やがて国立醸造試験所(現在の独立行政法人酒類総合研究所)が全国新酒鑑評会を定期的に開き、そこで高い順位を取るなどして客観的に優秀と評価された酵母を、醸造協会(現在の財団法人日本醸造協会)が分離、純粋培養し、全国の酒蔵に頒布するというシステムが整えられていった。(本ページ「酵母」の項参照。)
また販売の方法も近代化し、明治34年(1901年)には一升瓶が登場し、日本酒が瓶詰めで売られる時代に入った。
しかし、政府はこうした一連の改革を、当然ながら良くも悪くも当時の国造りの理念に基づいた酒造りの枠組みとしてとらえていた。すなわち酒税収入が30%近くも占める状況に鑑み、税制を立て直すにはまず酒税から仕切りなおさなければならないと考えたのである。ゆえに、一連の醸造業の近代化への国家レベルへの投資は、次世代の歳入モデルを見込んでのものであった。
こうした背景の中で政府は、明治32年(1899年)には自家用酒税法を廃止し、これを以って自家製酒(日本においては、いわゆるどぶろく)の製造と消費を禁止した。酒の消費を全般的に考えると、本格的な醸造設備が整っていない家庭でもかんたんに造れるどぶろくが大勢を占めていたわけあが、この製造を禁止すれば、国民の酒の需要は酒税のかかる清酒へと向き、どぶろくに消費されていた分がそっくり清酒の消費となって歳入にはねかえってくるだろう、というのが明治政府の予測であった。
しかし結果的にこの目論見ははずれた。現に日露戦争当時のどぶろく禁止令は、構造改革特区など少数の例外をのぞいて年現在でも酒税法に残っているが、酒税による税収は国家歳入の2%に満たない。
他方では、明治以前の酒樽は木製で、樽壁の中に雑菌が生息している可能性もあり、不衛生だという意見があった。この問題を解決するために、今日のような琺瑯(ほうろう)で表面を加工した鉄製の酒造タンクも開発され、政府もこの普及を推進した。
この推進に対しても、今日の評価は分かれている。一つは、琺瑯タンクによる酒造りも、製造される酒質はそれ以前のものと比べて何ら劣るものではなく、あえてコスト高と不衛生のリスクを冒して木樽造りにこだわる意味を見出さないとする派である。
もう一つは、木樽造りは長い実績を経た醸造技術であり、それが生み出す木香もまた日本酒の魅力であるとする派である。彼らの中には、醸造する酒の3%前後を樽の木材が吸収してしまい、結果的に酒の生産量を目減りさせていたから、それがひいては明治政府にとっては税収の目減りにつながるため琺瑯びきタンクの普及に躍起になっていたのだ、と主張する者もいる。
木樽造り、もしくは木桶造りは、平成時代になって各地で盛んに復元されており、年現在すでに消費者が価格と味を比べて審判できる市場になってきている。(本ページ「日本酒の現在」参照。)
昭和16年(1941年)、太平洋戦争が始まり米不足に拍車がかかると、昭和18年(1943年)酒類は配給制となった。戦後、配給制が解かれ昭和24年(1949年)5月6日には酒類販売の自由化がなされた。配給制から自由化に移行するに当たって、各都道府県に指定の卸が置かれることとなった。この卸の役割を担ったのが清酒メーカーであった。そのため清酒の主な販売経路となっていたようである。
1930年代には、縦型精米機の登場などによって精米技術が飛躍的に発達し、吟醸酒を造るのに欠かせない高い精米歩合が以前より容易に実現されるようになった。これによって、それまで一部のごく限られた愛飲家だけに楽しまれていた吟醸酒が、市販流通に耐えうる量を生産できる展望が開かれた。
1970年代には、醪(もろみ)造りの工程における温度管理の技術が飛躍的に発達し、また協会7号や協会9号などの吟醸香を出す新しい酵母が実用化され、初めは少量であったが吟醸酒・純米吟醸酒などが出荷されはじめた。消費者への受けは良く、1980年代には吟醸酒は広く一般市場に流通するようになった。
1980年代には、さらに少酸性酵母、高エステル生成酵母、リンゴ酸高生産性多酸酵母といった高い香りを出す酵母が多数つくられ、都道府県の研究センターや農業大学などを中心として吟醸酒に適した新たな酵母の開発が進んだ。これはバブル経済ともあいまって吟醸酒ブームを生んだ。
1990年代以降は、地域の特性を生かした酒造好適米や酵母の開発が進み、それぞれ開発地を名称に冠する静岡酵母、山形酵母、秋田酵母、福島酵母や、アルプス酵母に代表されるカプロン酸エチル高生産性酵母、あるいは東京農業大学がなでしこ、ベコニア、ツルバラの花から分離した花酵母などが、新しい吟醸香を引き出すものとして評価を集めている。
2000年代には、吟醸酒ブームの中心は、アメリカ・フランスを中心とした国外市場に移り、ニューヨークやパリなどでは、食前酒として日本産の吟醸酒を飲むのがトレンディとされている向きもある。
いっぽう、吟醸酒を「ほんらいの米の味と香りのする酒のほうがいい」と嫌う愛飲家も多く存在し、また吟醸香も強すぎればかえって酒の味を損なってしまうことなどから、強い吟醸香を出す酵母を敬遠する蔵元も多く、そういう新種の酵母は、他の酵母とブレンドしたり、鑑評会への出品酒のみに使ったりと、まだ使い方が模索されている途上にあるといってよい。
しかしながら、日本酒が日本国内で売れなくなった消費低迷期に、国外でその消費を伸ばした牽引役がこの吟醸酒であったことは銘記されてよい。
そうした背景には、普通酒を造るレベルの設備を持った日本酒醸造所なら、いまや日本国外にも多く存在するという事実がある。そのため必然的に、日本から輸出される対象となるのが、吟醸酒に代表されるような日本の水や技術でしか作れない高級酒となっているわけである。2006年現在まで、日本国内消費の減退とはうらはらに、吟醸酒を中心として日本酒の輸出量は年々倍増している。
(1)アルコール離れ
(2)バブル経済の影響
(3)日本人の「欧米志向」
(4)愛好者の閉鎖性
(5)三増酒の流通
これに対して、いま日本酒業界は長期低迷を脱皮しようとして、さまざまな試行錯誤を重ねており、むしろ品質的には、古代に日本酒が最初に醸されて以来、もっとも洗練され錬磨された水準に達しており、そのことは世界的にも評価されているが、いまだにそれは日本国内の日本酒の消費回復に直結していないようである。「三増酒」という言葉すら知らずに「日本酒とはああいうものだ」という固定観念を極めて深いところに持ってしまっている世代は、なかなか三増酒でない真の日本酒に目を向けようとしていないのが現状と思われる。(平成17年(2005年)現在。)
背景として、以下のようなものが考えられる。
奇しくもバブル期の揺り戻しであった平成大不況から2006年第一四半期に抜け出るとほぼ同時ごろに日本酒の辛口ブームも終焉し、日本酒に求められる味も多様化してきたようである。
日本酒は、昔ながらの正統な味や質の継承と復活も去ることながら、輸出の伸張と国内消費を回復をめざして、年月日現在、次のような方向で多様な模索が続けられている。
麹米には通常酒米(酒造好適米)が使われる。掛け米には、全部または一部に一般米(うるち米)が使われるが、特定名称酒の場合、酒米のみが使われることが多い。普通酒は麹米、掛け米ともにすべて一般米で造られるのがほとんどである。
造られる酒の味は、おおざっぱに言えば、軟水で造ればソフトな酒、硬水で造ればハードな酒になる。理由は、醸造過程で硬水を使用すると、水を硬くしている成分であるミネラルにより酵母の働きが活発になり、アルコール醗酵すなわち糖の分解が速く進み、逆に軟水を使用するとミネラルが少ないため酵母の働きが低調になり醗酵がなかなか進まないからである。
中国大陸とは違い、日本の水は各地によって小差はあるもののほとんどが中硬水であり、香味を損ねる鉄分やマンガンの含有量が少ないため、醸造に適していると言える。太平洋戦争前は満洲へ渡り、在留日本人のために当地で日本酒を造ろうとした醸造業者たちが水を見つけるのに苦労したという話が多いのはそのためである。
一方では、江戸時代以来、高品質な酒を産出してきた灘では硬水が使用されていた事実もある。そのため、かつては硬水が酒造用水としてもてはやされていたが、軟水で醸した酒の味わいが現代人の味覚にマッチしているとして、近年では軟水も見直されている傾向もある。
監査は以下のような項目で行なわれる。
なお、醗酵、および麹菌や酵母菌の繁殖を促進するのに有効なだけの微量のカリウム、マグネシウム、燐酸は、それらを成分調整として加えることができる。
蔵人たちの食事や洗面など日常生活には、一般人のそれと同じく水道水が用いられるが、興味深いことに、蔵人たちが入る風呂は酒造用水が用いられる酒蔵が多い。すでにその段階から「仕込み」が始まっているとの酒蔵の考えによるものであるが、これは単なる縁起かつぎに類するものと割り切れない側面もあり、人体の基本組成が水に似ていること、胎児に外から音楽を聞かせる胎教と似た原理が考えられること、などの理由から生物学者や心理学者の中で関心を寄せている者も存在する事象である。上記の分類にもまだ入れられていない。今後の研究が期待される。
米麹とは、蒸した米にコウジカビの胞子を振りかけて繁殖させたもので、日本で用いられる麹は米の粒そのままの形をしているため特に散麹(ばらこうじ)と呼ばれる(対して、中国などの国で用いられている麹は餅麹(もちこうじ)と呼ばれ、原料となる米・麦など穀物の粉に水を加えて練り固めたものに、自然界に存在するクモノスカビ・ケカビの胞子が付着、繁殖してできる)。米麹はコウジカビの生産したデンプン分解酵素であるα-アミラーゼ、グルコアミラーゼを含み、これらの働きにより米のデンプンが糖化される。
米麹は、ほかにタンパク質分解酵素も含んでおり、分解により生じたアミノ酸やペプチドは、酵母の生育や出来上がった酒の風味に影響する。
酵母とは生物学的には真菌類に属する単細胞生物である。酒造りにおいては、通常は出芽酵母を指す。これも何十万を超える種類が自然界に広く存在しており、それぞれ異なった資質を持っている。この酵母の多様性が酒の味や香りや質を決定づける重要な鍵となる。また多種多様な酵母のなかで日本酒の醸造に用いられる酵母を清酒酵母といい、種は80%以上がSaccharomyces cerevisiaeである。
近代以前は、麹と水を合わせる過程において空気中に自然に存在する酵母を取り込んだり、酒蔵に住みついた「家つき酵母」もしくは「蔵つき酵母」に頼っていたが、株が一定せず、いわゆる科学的再現性がなかっため、醸造される酒は品質が安定しなかった。
明治時代になると微生物学の導入により有用な株の分離が行われ、それが配布されることにより品質の安定と向上の要因となった。 明治44年(1911年)第一回全国新酒鑑評会が開かれると、日本醸造協会が全国レベルで有用な酵母を収集するようになり、鑑評会で一位となるなどして客観的に優秀と評価された酵母を採取し、純粋培養して頒布した。こうして頒布された酵母には、日本醸造協会にちなんで「協会n号」(nには番号が入る)という名がつけられた。このような酵母を協会系酵母、もしくは協会酵母という。アルコール醗酵時に二酸化炭素の泡を出す泡あり酵母と、出さない泡なし酵母に大別される。
もともとの日本酒は、米の持つ地味な香りしかなく、いわゆるワインのようなフルーティーな香りはない。それを持つようになった吟醸酒を誕生させるのに大きな役割を果たしたのは、協会系酵母のなかの協会7号と協会9号であった。
1980年代に吟醸酒が消費者層に広く受け入れられると、協会系酵母の他にも、少酸性酵母、高エステル生成酵母、リンゴ酸高生産性多酸酵母といった高い香りを出す酵母が多数つくられ、今も大メーカーやバイオ研究所、大学などでさまざまな酵母がつくられている。 1990年代以降は、それぞれ開発地の地名を冠する静岡酵母、山形酵母、秋田酵母、福島酵母なども高く評価されるようになり、最近では、アルプス酵母に代表されるカプロン酸エチル高生産性酵母や、東京農業大学がなでしこ、ベコニア、ツルバラの花から分離した花酵母などが、強い吟醸香を引き出すのに注目を集めている。
しかし、日本酒における吟醸香は、ちょうど人が香水をやたらにつければ逆効果であるのに似て、あまり強すぎれば酒の味を損なう諸刃の剣である。そこで、強い吟醸香を出す酵母は蔵元に敬遠される一面もある。そういう酵母は、他の酵母とブレンドしたり、鑑評会への出品酒のみに使ったりと、まだ使い方が模索されている途上にあるといってよい。
ビールの場合は、完全に麦汁を糖化させた後に発酵させるが、日本酒は糖化と発酵を並行して行う工程があることが大きな特徴である。並行複発酵と呼ばれるこの日本酒独特の醸造方法が、他の醸造酒に比べて高いアルコール度数を得ることができる要因になっている。
日本酒は、次の過程を経て醸造される。
米に含まれる蛋白質・脂肪は粒の外側でより多く含まれる。醸造の過程において、蛋白質・脂肪は雑味の原因となるため、米が砕けないよう慎重に削り落とされ、それにより洗練された味を引き出すことができる。その反面、精米歩合が高くなればなるほど米の品種の個性が生かしにくくなり、発酵を促すミネラル分やビタミン類も失われるので、後の工程での高度な技術が要求されることになる。
精米の速度が速すぎると、米が熱をもって変質したり、砕けて使い物にならなくなるので、細心の注意をもってゆっくり行なわなくてはならない。吟醸、大吟醸となると、削りこむ部分が大きいだけでなく、そのぶん対象物が小さくなって神経も使うので、精米に要する時間は丸二日を超えることもある。
昭和5年(1930年)ごろ以降は縦型精米機の出現により、より高度で迅速な精米作業が可能になり、ひいてはのちの吟醸酒の大量生産を可能にした(本ページ「吟醸酒の誕生」参照)。最近ではこの縦型精米機をコンピュータで制御して精米している大メーカーもある。
精米された米はかなりの摩擦熱を帯びている。精米歩合が高く、精米時間が長ければ長いほど、帯びる熱量も大きくなる。そのままでは次の工程へ進むには米の質が安定していない(蔵人言葉では「米がおちついていない」)ため、袋に入れて倉庫のなかでしばらく冷ますことになる。 これを放冷(ほうれい)、また蔵人言葉では枯らし(からし)という。「しばらく」と言っても数時間単位で済む作業ではなく、摩擦熱が放散しきって完全に米が落ち着くまで通常3週間から4週間はかかる。
普通酒を造る米などは機械でいっぺんに洗米されるが、高級酒を造る米は手作業でおよそ10kgぐらいずつ5℃前後の手を切るような冷水の流水圧を使って洗われる。こうして洗っているあいだにも米は必要な水分を吸収しはじめており、そのため「第二の精米作業」と言われるほど神経をとがらせて行なわれる工程である。 こうして洗われた米は浸漬へ回される。
浸漬は、のちのち蒸しあがった米にムラができないように、米の粒全般に水分を行き渡らせるために施される工程である。水が、米粒の外側から、中心部の心白(蔵人言葉では「目んたま」)と呼ばれるデンプン質の多い部分へ浸透していくと、米粒が文字通り透き通ってくる。米の搗(つ)き方、その日の天候、気温、湿度、水温などさまざまな条件によって時間は精緻に異なる。冬の厳寒のさなかの手仕事である。
このとき、米にどれだけ水を吸わせるかによって、できあがりの酒の味が著しく違ってくる。米の品種や、目指す酒質によって、浸漬時間も数分から数時間と幅広い。精米歩合が高い米ほど、その違いが大きく結果を左右するので、高級酒の場合はストップウォッチを使って秒単位まで厳密に浸漬時間を管理する。米は水からあげた後もしばらく吸水しつづけるので、その時間も計算に入れた上で浸漬時間は判断される。
なお、できあがりの酒質のコンセプトによっては、意図的に途中で水から上げるなど、ある一定の時間だけ米に吸水させることを限定吸水(げんていきゅうすい)という。
その後、麹の酵素が米のデンプンを分解しやすくさせるために、米を蒸す。この工程を正式には蒸きょう(じょうきょう:「きょう」は「食へんに強」)、もしくは蔵人言葉で蒸しという。普通酒などでは自動蒸米機(じどうじょうまいき)という機械で、高級酒などでは和釜に載せた甑(こしき)という大きな蒸籠(せいろ)に移して、約1時間ほど乾燥蒸気で蒸す。
蒸しあがった米は、「内柔外剛」といって、外側がパサパサとしていて内側が柔らかいのがよいとされている。外側が溶けていると、コウジカビの定着の前に腐敗が始まる恐れがあり、また、内側に芯が残っていると、米で一番良質のデンプン質を含んだ部分が、糖化・発酵しない可能性があるからである。
なお、和釜から甑を外すことを甑倒し(こしきだおし)という。それは単に蒸しの作業が終わることだけでなく、蔵人たちにとっては気の抜けない酒造りのシーズンが終わりほっと一息つく日の到来をも意味する。
「一、麹。二、酛(もと)。三、つくり。」といわれ、酒造りの出発点として重要視される。
所要約1ヶ月。しかし、腐敗のリスクが大きく、時間も労力もかかるので敬遠される傾向にある。
山廃仕込み(やまはいしこみ / -じこみ)、もしくは単に山廃(やまはい)とはこの行程の一つであり、生酛系に属する。「山卸廃止酛(やまおろしはいしもと)で醸造した酒のことをいう。「山卸」とは、蒸した米、麹、水を混ぜ粥状になるまですりつぶす行程である。この作業は重労働であるため、省略したのが「山廃」である。詳しくは「山廃仕込み」参照。
所要約2週間。現在造られている日本酒のほとんどは速醸系である。
1回目を初添(はつぞえ 略称「添」)、2回目を仲添(なかぞえ 略称「仲」)、3回目を留添(とめぞえ 略称「留」)という。20~30日かけて醗酵させる。
吟醸系(吟醸酒・大吟醸酒)と非吟醸系(いわゆる通常の酒)は、この過程において以下の二つの点で造り方が分かれる。
(1)精米歩合
(2)温度管理
「アルコール添加」、もしくは略して「アル添」という語感から、一般には何か工業的に添加物を加えるかのようなイメージを持たれることが多いが、古くは江戸時代の柱焼酎という技法にさかのぼる、伝統的な工程の一つである。
三増酒の全盛時代には酒の量を水増しするために行なわれたことも多いが、最近では、香りを引き出し、香味を調整し、味を軽快にし、不快な後味を残さないように「切れ」を良くするために行なわれている。醪の中には醗酵過程で生成された糖・酸類が多く含まれており、これらを放置しておくと、完成した酒が、良く言えば重厚、悪く言えば鈍重な味わいになる。それを調整するために行なわれるのが、このアルコール添加という工程である。そもそも吟醸酒はそもそもアルコール添加を前提として開発された酒であり、現在、吟醸酒を生産する酒蔵ではアルコール添加は酒質を高めるために必須と考えているところが多い。
かたわらでは、現代の食生活では旨み・油を多用するようになり、飲料としては軽快な味わいのものが求められるようになってきた。そのためにこの技法が流行している側面もある。
吟醸系の酒においては、醪の中には水には溶けない香味成分が含まれており、この香りを溶かすために、アルコール添加をすることもある。
古来の柱焼酎は、おもに酒の腐造を防ぐために焼酎を加えることであった。したがって、目的論からすれば、昔の柱焼酎と現代のアルコール添加とは相違しているともいえる。
しかし、上槽を経てからも酒の内部では醗酵が止まっておらず、「調熟作用」といって、アミノ酸分解や糖化により風味の調整が続いている。そのため、調熟作用によって最終的にその酒の持ち味を生み出している銘柄では、すぐに出荷せず、貯蔵・熟成させるのは欠かすことのできない工程の一部である。
たとえば、ひやおろしは、冬季に醸造したあと春から夏にかけて涼しい酒蔵で貯蔵し熟成させ、気温の下がる秋に瓶詰めして出荷する。吟醸系の酒は、香りや味わいを安定させるために、同じく半年ぐらい熟成の期間を持たせるものも多い。
さらに、非吟醸系であっても、酒蔵のある風土の自然条件、仕込み水の特徴、杜氏のコンセプトなどさまざまな理由から、長期間貯蔵して熟成させるものがある。あるいは、たとえば滋賀県の鮒寿司のように、特産品がある一定の期間の貯蔵と熟成を経てから食べられる土地などにおいては、食品が熟成する時間と同じだけの時間が、酒質の完成にもかかるように勘案されながら醸造される地酒もある。こういった熟成は、まさに食文化の基礎にある相互補完という地酒の原点を物語るものである。
日本酒は、毎年7月から翌年6月が製造年度と定められており、通常は製造年度内に出荷されたものを新酒、年度内に出荷せず2年間貯蔵すると古酒、貯蔵期間が3年だと古々酒、5年以上だと秘蔵酒と呼ばれる。しかし最近は、上槽した年の秋を待たず6月より前に出荷する酒に「新酒」というラベルを貼って、新鮮さをアピールする酒が増えたために、「新酒」の定義に混乱が生じつつある。
また古酒に関しても、酒類評論家のなかには「5年以下は古酒と認めない」という立場をとる人もおり、明確な定義が確立されているわけではない。
なお、蔵元のなかには西洋のワインにおけるヴィンテージという考え方を導入し、ラベルに酒の製造年度を明記しているところもある。熟成することによって味に奥行きが出るように造るこうしたヴィンテージ系日本酒は、熟成期間の長いものでは2、30年にも及ぶ。
大古酒という語に関しても、明確な定義があるわけではないが、昭和43年(1968年)に開封された元禄の大古酒のように279年まで行かなくとも、熟成期間100年を超した年代ものは一般に大古酒と呼ばれる。
吟醸酒のうち、精米歩合60%以下の白米、米こうじ及び水のみを原料とするものを特に純米吟醸酒と言う。一般に、他の吟醸酒に比べて穏やかな香りである。
吟醸酒自体が一般に流通するようになったのは1980年代以降であり、まず1930年代の精米技術と1970年代の温度管理技術の進歩により大量といえなくても、一般市場に出回るだけの生産量を確保できるようになった。
フルーティで華やかな香りと、淡くサラリとした味わいが特徴。
大吟醸酒のうち、精米歩合50%以下の白米、米こうじ及び水のみを原料とするものを純米大吟醸酒と言う。一般に、他の大吟醸酒に比べて、穏やかな香りで味わい深い。
大吟醸酒は最高の酒米を極限までみがき、蔵人の力を結集して醸した日本酒の最高峰といえる。
対象とする清酒を15℃にし、規定の浮秤(ふひょう)を浮かべて計測する。そのときに、4℃の蒸留水と同じ重さの酒の日本酒度を0とする。それよりも軽いものは+(プラス)の値、重いものは-(マイナス)の値をとる。
計量法により日本酒度は次のように定義されている。
これを逆算すると、以下の式も得られる。
近年、とくに辛口ブーム以降、この日本酒度が酒の辛口甘口を論じる決定的な規準のように考えられている風潮があるが、これは厳密な意味では正しくない。たしかに日本酒度はそれを推定するのに便利な目安ではあるが、厳密にはそれをもっと正確にあらわすのは甘辛度(あまからど)である。とはいっても、甘辛度ですら、人の味覚のすべてを数値化できるわけではない。
一般の人の舌が知覚する「甘辛感」は、酒の持つ香り、旨み、こく、食べあわせている食品や調味料、また飲んでいるときの体調などにより、大きな揺らぎを持つ。
また、ブドウ糖濃度の代わりに日本酒度を用いて、
この式によって人間が酒を甘い辛いと感じる感覚の81%が説明できる。
清酒の甘辛の程度と甘辛度の関係は下記のとおりである。
また、酒器を手に取ってから飲み込むまでの各段階において感じられる香りは以下のように呼ばれる。
それぞれの酒質によって、飲用に最も適するとされる温度は多様である。
一般に、造りのしっかりした酒でなければ燗には向かないといわれる。燗に向く酒は、燗にしても風味のバランスが崩れないで、再び冷えて「燗冷まし(かんざまし)」になってもそれなりに味わいがある。逆に「燗上がり(かんあがり)」しない酒は、燗にしたときに薬品のようなアルコール臭が上立香としてのぼってくる。
燗は季節の温度と密接に関わるため、別火のような年中行事をも生んだ。
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