日本二十六聖人とは慶長元年12月19日(グレゴリオ暦1597年2月5日)、豊臣秀吉の命令によって長崎で処刑された26人のカトリック信徒。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになった。二十六人のうち、日本人は二十名、スペイン人が四名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ一名であり、すべて男性であった。この出来事を「二十六聖人の殉教」という。
24名は、京都で左の耳たぶを切り落とされて(秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた)、市中引き回しとなった。1597年1月10日、長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大阪を出発、歩いて長崎へ向かうことになった。また、道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコも捕縛された。二人はキリスト教徒として、己の信仰のために命を捧げることを拒絶しなかった。
厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎は、一行の中に12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て気の毒に思い、信仰を捨てることを条件に助けようとしたが、ルドビコはこの申し出を丁重に断った。ディエゴ喜斎と五島のヨハネは告解を聞くためにやってきたイエズス会員フランチェスコ・パシオ神父の前で誓願を立てて、イエズス会入会を許可された。26人が通常の刑場でなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることが決まると、一行はそこへ連行された。長崎市内は混乱を避けるため外出禁止令が出されていたが、4000人を超える群集がそこへ集まってきていた。パウロ三木は死を目前にして群集に自分の信仰を語った。一行が槍に両脇を刺しぬかれて殉教したのは午前10時ごろであった。
遺骸は死後、多くの人の手でわけられ、日本で最初の殉教者の遺骸として世界各地に送られて崇敬を受けた。これはカトリック教会において、殉教者の遺骸や遺物(聖遺物)を尊ぶ伝統があったためである。日本26聖人は近世においては、日本よりもヨーロッパにおいてよく知られていたが、それはルイス・フロイスなどの宣教師たちの報告書によるところが大きい。1862年6月8日、教皇ピウス9世によって列聖され、聖人の列に加えられた。1962年には列聖100年を記念して西坂の丘に日本二十六聖人記念館(今井兼次氏の設計)と彫刻家の舟越保武氏による記念碑が建てられた。なお、二十六人の氏名は以下のとおりである。
Martyrdom of the 26 Saints of Japan | Martyres Iaponici XXVI