新羅(しらぎ, しんら, シルラ, 紀元前57年ごろ - 935年)は、古代の朝鮮半島東南部に領し、7世紀には加耶(任那)、百済(百濟)、高句麗南部を中国(当時は唐)の援助をうけて征服して統一新羅を形成した国。首都は金城(現在の慶尚北道慶州市)にあった。
| 三国時代 | |
|---|---|
| 三国時代の地図、5世紀終わり頃 | |
日本側伝承では、新羅王の祖は鵜草葺不合命の子稲飯命(神武天皇の兄)だと『新撰姓氏録』にあるが、『古事記』は母の国の海原へ行ったと、『日本書紀』には神武東征の時嵐を鎮めるために海に入水したとされ新羅との関わりには触れられていない。しかし天之日矛伝承や出雲神話に早い時期からの倭との関わりが暗示されている。
朴氏、昔氏、金氏と氏の交代や、女王が輩出、建国時の倭人との関係など、韓国の三国時代の他の二国、百済と高句麗に比べて異彩を放っているが、それは隣接する倭人国加耶との交流が深かったためであり、後に製鉄技術に巧みな加耶(任那)を征服した。また、唐に援助を乞い、百済、高句麗を滅ぼし今の朝鮮民族のベースを作った。
『太平御覧』で引用する前秦の『秦書』では3代世祖宣昭帝(苻堅)と新羅の使者と問答が記述されており、そこには前身が三韓の辰韓一つ斯盧国とされ、356年の第17代奈勿王の即位から新羅となったとしているがその連続性に関する証拠が著しく乏しい。慶州盆地を根拠地として発展していった。歴史書ではこの356年を新羅の建国年とするテキストが韓国では多い。
4世紀後半から6世紀にかけての慶州新羅古墳からは金冠その他の金製品や西方系のガラス器など特異な文物が出土する。この頃の新羅は中国文化より北方遊牧民族(匈奴・鮮卑など)の影響が強かったことを示している。このため奈忽王以後の金氏は、北方民族のひとつである鮮卑系ではないかとの説もある。
528年に仏教を公認し、独自の元号を使用し始めた。560年代には高句麗を攻撃し北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、倭人国加羅を征服した。また、564年に北斉に朝貢して翌年に冊封を受けた。その一方で、568年に南朝の陳にも朝貢した。こうやって中国の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。隋、唐に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。
643年、新羅最初の女王である善徳女王の代に唐に救援を求め、同時に中国の律令制度を取り入れる改革を始めた。これ以後、中国文化が急速に新羅に流入する。
武烈王の即位後、唐と結んだ新羅は唐の援軍と共に金庾信に軍を率いさせ、百済に進軍。660年に百済を滅ぼし、663年に白村江にて日本を破り(白村江の戦い)、668年に高句麗を滅亡させた。この急成長を支えたのは加耶にて倭人が開発した鉄生産技術の取得が背景にあった。
その後、百済滅亡以来、故地を占領していた唐と旧百済領の支配権をめぐって対立し、670年から争ったが、676年に唐軍を半島から追い出し、朝鮮半島をほぼ統一した。これ以後を日本では統一新羅時代と呼んでいるが、韓国では高句麗滅亡後、遺民が満州に建国した渤海を高句麗後継国家とみなし、新羅・渤海をあわせて南北国時代と読んでいる。
その後、唐に対しては謝罪外交を展開したが、関係は緊張し続けたので北境に長城を築くなどした。しかし、732年に唐と渤海との間に戦端が開かれると、唐の命を受けて渤海戦に出陣したため、その功により735年に鴨緑江以南の地の領有を唐から正式に認められた。
しかし、この経緯は歴史的疑問が残る。それは、これ以後、先祖伝来の名前が全て中国式に変わったこと。朝鮮最古の書物「三国史記(さんごくしき、三國史記)は、1145年である。つまり、これ以前の書物が残っていないこと。から、古代朝鮮文明は文字、名前に至るまで焚書坑儒されたと判断できる。そしてこれは事実上も中国への属国化、隷属と思えるからだ。これから中国がいかに強大であったかを伺える。
統一新羅の成立と共に官僚制度の改革がはかられた。降伏した百済・高句麗の王族、貴族を格下げした上で官位制度の中に組み入れ、律令制を取り入れ政治形態を変化させていった。官吏の養成機関として国学という教育機関も置かれた。また、州・郡・県を基本と為す郡県制を基本とした地方支配体制が整えられ、旧新羅・加羅領に3州、旧百済領に3州、旧高句麗領に3州の9つの州がおかれ、これと副都五京による地域支配が行われた。唐の律令制度を取り入れながらも位階などの名称は旧称のままで残すなど新羅独自の律令制が確立していた。この名称は、8世紀半ばには唐風に改められている。
白村江で戦った日本との間は、天武天皇の即位から780年までは比較的良好であり、双方の間で遣新羅使、遣日本使が30回以上送られている。しかし、780年に渤海と新羅の間が緊張し、渤海が日本へ朝貢を始めると新羅と日本の間の国交は停滞した。また、朝鮮半島を統一した新羅の国家意識が高まり日本との対等な関係を求めたのに対して、新羅を三韓征伐以来の属国と考える日本側の激しい反感があったとも考えられている(753年に遣唐使の大伴古麻呂が新羅と席次を争った事件や直後に恵美押勝(藤原仲麻呂)が新羅討伐計画を立ち上げた(実際には国内の政敵に対する牽制策)際にも、新羅が属国であるにも関わらず日本に非礼であるとする主張が展開されている)。
国家レベルでの関係は緊張したが民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、新羅商人が大宰府および九州に来て、唐、新羅の文物を日本へ、日本の文物を新羅、唐へと運んで交易に励んだ。そのため、三国の情報は比較的詳細に交換されていた。また、日本の遣唐使も帰国の際には、新羅船を利用することが多かった。
この時代には、地方の村主や王都から地方に飛び出した王位継承に破れた王族や官僚らが軍事力を背景に勢力を伸ばし、新興の豪族として勃興した。そして、地方で頻繁に反乱を起こす様になる。822年には熊州で新羅王族の金憲昌が、825年には、その息子の金梵文が反乱を起こしているがいずれも鎮圧。841年には、清海鎮(全羅南道莞島)で張保皐が反乱を起こしたが、暗殺されている。しかしながら、これらの動揺は地域社会にも波及し、9世紀末には、農民の反乱や豪族の独立が頻発する。
その中でも有力な勢力であった農民出身の甄萱が892年、南西部に後百済を、新羅王族の弓裔が901年、北部に後高句麗を建て、後三国時代に入る。その中で後高句麗の武将であった王建が918年に弓裔を追放して建てた高麗が勢力を伸ばし、935年に新羅を滅ぼした。
朝鮮国王の一覧#新羅を参照。
Sila kraljevstvo | Silla | Silla | Silla | Silla (Corea) | Silla | 신라 | Silla (Korea) | Silla | Силла | 新罗