文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は豊臣秀吉による、二度にわたる明遠征の通過地点である李氏朝鮮における戦闘の総称である。朝鮮出兵と呼ばれることも多い。朝鮮側が受けた被害に関心をもつ立場などからは朝鮮侵略と呼ばれる。これに対し日本側の立場からは朝鮮征伐と呼ばれる場合もある。豊臣政権時から江戸時代後期に至るまでは明の征服を目指していたことから唐入り、唐御陣、また高麗陣、朝鮮陣などと呼ばれた。近年の教科書にはは専ら朝鮮侵略と表記されていることが多い。
文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄二年)に休戦し、講和交渉決裂によって始まった慶長の役は1597年(慶長二年)に始まり、1598年(慶長三年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国では文禄の役を壬辰倭乱(, イムジンウェラン)、慶長の役を丁酉再乱(, チョンユヂェラン)と呼んでおり、明では万暦朝鮮の役と呼ばれた。
李氏朝鮮王朝では日本へ派遣した使節が帰国し、その報告が西人派(正使の黄允吉は戦争が近いことを警告)と東人派(副使の金誠一は日本の侵略はあったとしても先の話と否定)で別れ、政権派閥の東人派が戦争の警告を無視した。
あまりに容易に李氏朝鮮の王都である漢城が陥落したため、日本の諸将は5月に漢城にて軍議を行い、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決めた。(平安道 第1軍小西行長他、 咸鏡道 第2軍加藤清正他、 黄海道 第3軍黒田長政他、 江原道 第4軍毛利吉成他、 忠清道 第5軍福島正則他、 全羅道 第6軍小早川隆景他、 慶尚道 第7軍毛利輝元他、 京畿道 第8軍宇喜多秀家他)日本軍は北西部の平安道と全羅道を除く朝鮮全土を制圧し、加藤清正の一隊は国境を越えて明領オランカイへ攻め入った。
「宣祖実録(ソンジョシルロク)宣祖二十五年壬辰五月條」によると、このとき朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に協力する者が続出した。 これは、前述実録の「人心怨叛,與倭同心耳」、「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」でうかがい知ることができる.
また、明の朝鮮支援軍が駆けつけてみると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮は、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢(ぬひ、奴隷の一種)は、秀吉軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った、とある。
日本軍に大きく後れを取った李氏朝鮮であったが、釜山を基点として支配領域を広げていた後方部隊で海岸移動を行っていた船団に対して李舜臣率いる朝鮮水軍が4月と5月の二回の出撃で積極的に攻撃を加え、備えのない日本船団が被害を受けた。 海上戦闘用の水軍や朝鮮沿岸を西進する作戦を持たなかった豊臣秀吉は陸戦部隊や後方で輸送任務にあたっていた部隊から急遽水軍を編成して対抗した。 こうして編成された水軍は脇坂安治の独走した閑山島海戦で敗北、続いて援護のために進出していた加藤嘉明と九鬼義隆の水軍が李舜臣の泊地攻撃で敗北すると、豊臣秀吉は海戦の不利を悟って積極的な出撃戦術から消極的な水陸共同防御戦術へ方針を変更した。 これは長年の和冦対策で船体破壊のための遠戦指向の朝鮮水軍に対して、船員制圧のための近戦指向の日本水軍では装備や戦術の落差もあって正面衝突の海戦をすると日本水軍が不利であったことによる。しかし当時の船は航海力も攻撃力も未熟であり、陸上への依存が強いため水陸共同防御戦術は有効に機能し、以降の李舜臣の攻撃は被害が増大し戦果が挙がらず精彩を欠くようになり、出撃も滞ることとなった。
7月、援軍に来た明軍の部隊が最前線の平壌を急襲した。これは小西行長によって撃退するものの、明の救援が始まったことで戦況は膠着することになる。
朝鮮へ派遣された諸将は八道国割を目標に要衝を制圧していったが、前述のとおり小西行長は当初は李氏朝鮮、後には明との和平交渉を優先して平壌で北進を停止、また小早川隆景は忠清道方面から全羅道に侵入したが権慄の反撃によって進撃を阻まれ、南下する明軍の攻撃に対応するために漢城へ移動したため、全羅道の制圧は進まなかった。 日本軍は釜山西方の制圧を企画して第一次晋州城合戦(1592年9月、細川忠興指揮の日本軍対金時敏指揮の朝鮮軍)で苦戦して攻城に失敗した。ちなみに、この戦闘は閑山島海戦(1592年7月、脇坂安治指揮の日本軍対李舜臣指揮の朝鮮軍)・幸州山城攻防戦(1593年2月、宇喜多秀家指揮の日本軍対権慄指揮の朝鮮軍)とあわせて韓国では「三大捷」と呼ばれている。
翌文禄二年(1593年)一月、明軍がさらなる大軍で平壌に侵攻し制圧。対する日本軍も漢城郊外の碧蹄館の戦いで勝利。この段階で両者の戦線が行き詰まり、和平交渉が始められた。
占領各地では義兵の決起が生じ、このため武器・兵糧不足に悩まされた。この義兵は流民も多く、朝鮮の民衆や軍隊も襲った。漢城に集結して和平交渉を始めていた日本軍だが、本土から釜山までの海路の補給は維持していたが、釜山から漢城までの陸路の治安が悪化して食糧などの補給が滞りがちであったため、加藤清正が捕虜にした李氏朝鮮の二王子の返還と引き替えに釜山周辺の南部へ4月頃までに移陣した。 また、兵力と補給に余裕が出てきたので朝鮮南部の支配を既定事実とするため、朝鮮南部へ布陣した諸将を動員して第二次晋州城合戦で晋州城を攻略、更に全羅道を窺うも明軍の進出によって戦線は膠着し、長い休戦期に入った。
このため秀吉は和平に際し、明の皇女を天皇に嫁がせる事や朝鮮南部の割譲など、とうてい明側には受け入れられない講和条件を提示し、明の降伏使節の来朝を要求した。一方、明の朝廷の側も日本が降伏したという証を要求したが、これも秀吉にとってはとうてい受け入れられるものではなかった。
結局日本の交渉担当者は「関白降表」という偽りの降伏文書を作成し、明側には秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」という条件のみであると伝えられた。「秀吉の降伏」を確認した明は朝議の結果「封は許すが貢は許さない」(明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない)と決め、秀吉に対し日本国王の金印を授けるため日本に使節を派遣した。
文禄五年(1596年)九月、秀吉は来朝した明使節と謁見。秀吉は降伏使節が来たと当初は喜んだが、使節の本当の目的を知り激怒。使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定した。
続いて8月、日本軍は右軍と左軍(及び水軍)の二隊に別れ慶尚道から全羅道に向かって進撃を開始した。対する明・朝鮮軍は道境付近の黄石山城と南原城で守りを固めたが、日本の右軍は黄石山城を、左軍は南原城を攻撃、たちまち二城を陥落させ全州城を無血占領した。 日本の諸将は全州で軍議を行い、右軍、中軍、左軍、水軍に別れ諸将の進撃路と制圧する地方の分担を行い守備担当を決め全羅道・忠清道を瞬く間に占領した。北上した日本軍に一時は漢城の放棄も考えた明軍であったが、結局南下抗戦を決意し9月に先遣隊の明将 解生と黒田長政の部隊が稷山で遭遇戦を行い双方が後退した。 同じく9月には南原城から南下した後に西進した日本水軍の先鋒を三道水軍統制使に返り咲いた李舜臣が鳴梁海戦で破った。しかし、日本軍により全羅道西岸が制圧されると朝鮮水軍は制海権を失い李舜臣も全羅道北端まで後退し日本水軍は全羅道西岸まで進出した。 冬を前にして明軍と朝鮮軍が南下することを知ると日本軍は慶尚道へ撤退して築城布陣して対抗した。日本軍の撤退によって全羅道へ明軍と朝鮮軍は再進出した。
防御に回った日本軍に対して12月には完成直前の蔚山倭城(日本式城郭)に明と朝鮮の大軍が押し寄せ、急遽入場した加藤清正を初め食料準備のできないまま包囲の中での苦しい籠城戦となった。翌1598年1月、蔚山城は落城寸前まで追いつめられるが、日本軍の援軍が水陸から明・朝鮮軍を攻撃敗走させ蔚山城を守りきった。しかし労多くして益の少ない戦役に厭戦気分の蔓延していた諸将は積極的な追撃を行わなかったと奉行や秀吉に叱責されている。
翌慶長三年(1598年)、蔚山城戦で遺棄死体2万と記録した明・朝鮮軍にも厭戦気分は蔓延し戦線は膠着した。日本では8月に豊臣秀吉が死去し戦役を続ける意義が失われ、後に五大老による撤退命令が発令された。 9月に入ると明・朝鮮軍は蔚山、泗川、順天へ攻勢に出て日本軍は沿岸部に築いた倭城の堅固な守りに助けられ、第二次蔚山城攻防戦は大きな戦いにならなかったものの、泗川の戦いは島津軍が反撃のチャンスを捉えて明・朝鮮軍を潰走させた。 順天を守っていたのは小西行長であったが、日本軍最左翼に位置するためあたらに派遣された明水軍が加わり陸海からの厳しい攻撃を受けるが共に高い攻撃力で反撃に成功し、包囲が緩んだまま撤退命令を受領する。
11月、小西行長は明・朝鮮の陸水諸将と交渉や買収で無血撤退の約束を取り付けるが朝鮮水軍のみ包囲を続け、海路撤退を妨害した。 小西軍の脱出が阻まれてていることが確認されると泗川から撤退してきた島津義弘の他、立花宗茂、寺沢正成らの諸将は救援に向かうために水軍を編成して進撃した。島津の救援水軍が近づくのを知ると明・朝鮮水軍は順天の包囲を解いて迎撃を行った。 この露梁海戦で島津水軍は苦戦したが、明水軍の副将 鄧子龍や朝鮮水軍の三道水軍統制使の李舜臣を討ち取っており、後退する島津水軍を追撃する力はなかった。また、明・朝鮮水軍の出撃で順天の包囲が解けたことを知った小西行長は海戦海域を避けて海路脱出に成功している。 こうして、日本の出征大名達は朝鮮を退去して日本へ帰国し、豊臣秀吉の企画した明遠征は成功に至らなかった。
戦場となった朝鮮は国土に甚大な被害を受けた。戦時下での宮殿・王陵の破壊や兵糧の徴発、さらに慶長の役で行われた日本軍による義兵指導者の殺害、死体への劓り(鼻切り)などの残酷な行為が朝鮮人の間に深い日本への憎悪を記憶させた。平和な貿易関係を望む対馬の宗氏も朝鮮王朝に強く警戒され、日本使節の上京は禁じられて貿易に訪れた日本人も釜山に設けられた倭館に留め置かれることとなる。一方、朝鮮の両班階層の間では明の援軍のおかげにより朝鮮は滅亡を免れたのだという意識(「再造之恩」)が強調され、崇明意識が生まれた。崇明意識(中国崇拝)と日本への憎悪と儒教を学ぶことから得られた強い中華への憧れは、それまで夷狄と蔑んできた女真の建てた清に2度にわたって侵略された(胡乱)上に、長きに渡って朝貢せねばならなくなったコンプレックスとあいまって、朝鮮に独特の事大主義的な華夷思想を生んでゆく。
日本では、この戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、豊臣政権の基盤を危うくする一方、留守中の大名領地に太閤検地が行われ豊臣政権の統治力と官僚的な集団が強化される側面もあった。また、諸大名中最大の石高を持ちながら、関東移封直後で新領地の整備のために九州への出陣止まりで朝鮮への派兵を免れた徳川家康が隠然たる力を持つようになった。五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がってゆく。この官僚集団と家康の急成長は、豊臣政権存続を図る官僚集団と次期政権を狙う家康との対立に発展し、関ヶ原の戦い(1600年)として火を噴くが、戦いに圧勝した家康は日本国内で不動の地位を得、1603年に征夷大将軍に任じられた。こうして未曾有の太平、江戸時代が始まる。また、朝鮮に渡った大名たちによって農民や儒学者や陶工が連れ去られ、磁器の製法、朝鮮式の瓦の装飾などが伝わり、日本文化がより一層華やかになったことは特筆される。
明では、朝鮮への援兵を、同時期に行われた寧夏のボバイ、播州(四川省)の楊応龍の二人の辺境地方の地元民族首長反乱の鎮圧とあわせて、「万暦の三大征」と呼んでいる。これらの軍事支出と皇帝万暦帝の奢侈は明の財政を悪化させ、17世紀前半の女真の強大化に耐え切れないほどの、明の急速な弱体化の重要な原因となったと考えられている。
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