征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、令外官の将軍職の一つ。奈良時代から平安時代には東国に派遣された将軍の呼称の一つであった。鎌倉時代以降江戸時代に至るまでは武家の棟梁に与えられ、略して将軍、公方、大樹などとも呼ばれた。
大伴弟麻呂の下で征東副使・征夷副使だった坂上田村麻呂は、延暦16年(797年)11月5日に征夷大将軍に任命された。田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為を京へ連れ帰り、その地を征服した。実質的な意味では、田村麻呂が初代征夷大将軍かも知れない。
その後文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際して弘仁2年(811年)4月17日に「大」なしの征夷将軍に任命され、同年 閏12月11日 蝦夷征伐の終了を奏上、鎮守将軍(府なし)には副将軍だった物部足継が昇格、しかし、弘仁5年(814年)11月17日には、また「大」なしの征夷将軍に復帰している。
なお、征夷大将軍の下には征夷副将軍、征夷軍監、征夷軍曹などの役職が置かれた。
1190年、頼朝は、右近衛大将(右大将)に任官され、自らの家政機関を政所として公認された。しかし近衛大将はその職務の性格上京都に在住しなければならず、関東での独立を指向するには不向きだった。そこで頼朝は右大将を辞任し、前右大将としてその特権を保持した。しかし前右大将としての特権は、頼朝一代のもので、子々孫々まで維持することはできない。
そこで頼朝が注目したのが過去において存在した「征夷大将軍」という官職であった。当時の東北地方は奥州藤原氏が支配し、朝廷の支配が及んでいない地域だった。征夷大将軍には、過去に軍政という形での統治権が与えられていたことがあった。そこに頼朝は目を付けたのである。この職は右大将より位が低いが、遠征軍の司令官という性格を持つが故に京都在住の必要が無く都合が良かった。また、挙兵がほぼ自由にできる職でもあった。
つまり、
(書きかけ)
そこで昨今取りざたされている説では「何らかの形で東国を抑えている者」が「征夷大将軍」になるための条件であったと言う説である。豊臣秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、徳川家康に小牧・長久手の戦いで敗れたためであると言う説だが、関白の方が征夷大将軍より位が上だったため、秀吉は将軍には興味がなかったというのが真相。
一方朝廷の公家の間でもかつては、とある人物の家柄が源氏と平氏のいずれに連なるかにこだわり「公家に近しい平家」「御しがたい武家の源家」と見なす風潮があった。またこれに根ざして、源氏と平氏あるいは源家と平家が日本の政権を交互に執るという思想も生まれた。(源平交代思想)
なお、平知盛が征夷大将軍に任命されたとの俗説もあるが、確証はない。
| 順番 (幕府内) | 人名 | 在職年 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1 | 大伴弟麻呂 | 793-794? | |
| 2 | 坂上田村麻呂 | 797-811? | |
| - | 文屋綿麻呂 | 813 | 征夷将軍 |
| - | 藤原忠文 | 940 | 征東大将軍だが、異伝あり |
| 3 | 源義仲 | 1184 | |
| 4 (1) | 源頼朝 | 1192-1199 | 1195年辞任の説あり |
| 5 (2) | 源頼家 | 1202-1203 | |
| 6 (3) | 源実朝 | 1203-1219 | 兼内大臣 |
| 7 (4) | 藤原(九条)頼経 | 1226-1244 | 摂家(藤原)将軍。九条道家の子 |
| 8 (5) | 藤原(九条)頼嗣 | 1244-1252 | |
| 9 (6) | 宗尊親王 | 1252-1266 | 皇族将軍。後嵯峨天皇の皇子 |
| 10 (7) | 惟康親王(惟康王→源惟康→惟康親王) | 1266-1289 | |
| 11 (8) | 久明親王 | 1289-1308 | 後深草天皇の皇子 |
| 12 (9) | 守邦親王 | 1308-1333 | |
| 13 | 護良親王 | 1333 | |
| 14 | 成良親王 | 1335-1336 | |
| 15 (1) | 足利尊氏 (高氏→尊氏) | 1338-1358 | |
| 16 (2) | 足利義詮 | 1358-1367 | |
| 17 (3) | 足利義満 | 1367-1394 | 兼左大臣 退任後太政大臣 |
| 18 (4) | 足利義持 | 1394-1423 | |
| 19 (5) | 足利義量 | 1423-1425 | |
| 20 (6) | 足利義教(義宣→義教) | 1429-1441 | |
| 21 (7) | 足利義勝 | 1442-1443 | |
| 22 (8) | 足利義政 (義成→義政) | 1449-1473 | |
| 23 (9) | 足利義尚(義尚→義煕) | 1473-1489 | |
| 24 (10) | 足利義材 (義材→義尹→義稙) | 1490-1493 | |
| 25 (11) | 足利義澄(義高→義遐→義澄) | 1494-1508 | |
| 26 (10) | 足利義稙 (義材→義尹→義稙) | 1508-1521 | 再任 |
| 27 (12) | 足利義晴 | 1521-1546 | |
| 28 (13) | 足利義輝 (義藤→義輝) | 1546-1565 | |
| 29 (14) | 足利義栄 | 1568 | |
| 30 (15) | 足利義昭 (義秋→義昭) | 1568-1573 | |
| 31 (1) | 徳川家康(松平元康→徳川家康) | 1603-1605 | 兼右大臣、後太政大臣 |
| 32 (2) | 徳川秀忠 | 1605-1623 | 兼右大臣、後太政大臣 |
| 33 (3) | 徳川家光 | 1623-1651 | 兼左大臣、太政大臣は固辞 |
| 34 (4) | 徳川家綱 | 1651-1680 | 兼右大臣 |
| 35 (5) | 徳川綱吉 | 1680-1709 | 兼右大臣 |
| 36 (6) | 徳川家宣(綱豊→家宣) | 1709-1712 | 兼内大臣 |
| 37 (7) | 徳川家継 | 1712-1716 | 兼内大臣 |
| 38 (8) | 徳川吉宗(松平頼方→徳川吉宗) | 1716-1745 | 兼右大臣 |
| 39 (9) | 徳川家重 | 1745-1760 | 兼右大臣 |
| 40 (10) | 徳川家治 | 1760-1786 | 兼右大臣 |
| 41 (11) | 徳川家斉 | 1787-1837 | 兼太政大臣 |
| 42 (12) | 徳川家慶 | 1837-1853 | 兼左大臣 |
| 43 (13) | 徳川家定 (家祥→家定) | 1853-1858 | 兼内大臣 |
| 44 (14) | 徳川家茂(慶福→家茂) | 1858-1866 | 兼右大臣 |
| 45 (15) | 徳川慶喜 | 1866-1867 | 兼内大臣 |
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