将棋(しょうぎ)は、日本将棋、本将棋(ほんしょうぎ)(歴史的には小将棋)とも言い、2人で行うボードゲーム(盤上遊戯)の一種である。チェス、シャンチーと合わせて世界三大将棋ともいう。
本将棋は持ち駒の観念があることが特徴で、これは諸外国の将棋類似のゲームにも例のない独特のルールである。(近年は持ち駒を利用したチェス派生のゲームも考案されている)
本将棋の他にも、盤の桝目の数や駒の種類を変えたり、将棋の盤と駒を利用して別のルールで遊んだりする遊戯が考案されている。本将棋以外の将棋、および将棋に関連する遊戯については、将棋類の一覧を参照されたい。
| 元の駒 | 動き | 成駒 | 動き | |||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 玉将(ぎょくしょう) 王将(おうしょう) | ||||||||||
| ○ | ○ | ○ |
| ○ | 玉 | ○ |
| ○ | ○ | ○ |
| | | ||
| ― | 飛 | ― |
| | | ||
| ○ | | | ○ |
| ― | 龍 | ― |
| ○ | | | ○ |
| \ | / | |
| 角 | ||
| / | \ |
| \ | ○ | / |
| ○ | 馬 | ○ |
| / | ○ | \ |
| ○ | ○ | ○ |
| ○ | 金 | ○ |
| ○ |
| ○ | ○ | ○ |
| 銀 | ||
| ○ | ○ |
| ○ | ○ | ○ |
| ○ | 全 | ○ |
| ○ |
| ☆ | ☆ | |
| 桂 |
| ○ | ○ | ○ |
| ○ | 圭 | ○ |
| ○ |
| | | ||
| ■ | 香 | ■ |
| ○ | ○ | ○ |
| ○ | 杏 | ○ |
| ○ |
| ○ | ||
| ■ | 歩 | ■ |
| ○ | ○ | ○ |
| ○ | と | ○ |
| ○ |
上の表では便宜的に成銀を「全」、成桂を「圭」、成香を「杏」と表示している。この表記は、将棋駒の活字がない環境で(特に詰将棋で)しばしば用いられる。成銀を「全」、成桂を「今」、成香を「仝」、と金を「个」で表す流儀もある。
棋力が同じくらいの場合、平手戦とする。平手戦の場合、開始時には駒を次のように並べる。
上図のように、盤面を図として表示する場合、下側が先手、上側が後手となる。先手から見て、将棋盤の右上のマスを基点とし、横方向に1、2、3、…、9、縦方向に一、二、三、…、九とマス目の位置を表す座標が決められている。棋譜はこの数字を用いて表現される。また、先手は▲、後手は△で示すのが一般的である。
先手・後手は、棋力が同じ程度の者同士であれば振り駒により決定することが多い。棋力に多少差がある場合には弱い者が先手をもつ。棋力の差が非常に大きく、平手では勝負にならない場合、ハンデをつけた駒落ち戦とする場合もある。
上図は二枚落ちの場合である。駒落ち戦の場合、駒を落とした方を上手(うわて)、落とされた方を下手(したて)という。駒落ち戦では上手から指し始める。相手とのハンデ差を考慮し、飛車角行に加え、金将銀将桂馬香車まで無くす最高10枚落ちまでがある。まれに、上手(うわて)の玉の他に何も駒がなく持駒に歩3枚を持つだけの「歩三兵」や、金落ち、銀落ちといった特殊な駒落ちが指されることもあるが、一般的ではない。
初手は角道を開ける▲7六歩か飛車先の歩を突く▲2六歩のどちらかが常識とされ、ほとんどの対局はこのどちらかで開始される。
基本的には金や銀を使って玉の守りを固め(囲い)ながら、歩や銀、桂、大駒を繰り出して敵を攻める体勢を作ることになる。囲いを簡略化してすぐに攻めに入ることを急戦といい、じっくりと固めてから戦いに入ることを持久戦という。
戦法は、飛車を初期位置から動かさずに攻める居飛車と、左へ動かして展開する振り飛車の二通りに大別され、それぞれに定跡が研究されている。ほとんどの将棋指しは居飛車を好む「居飛車党」と振り飛車を好む「振り飛車党」のどちらかに大別されるほどである。
双方が囲い合い、駒のぶつかり合いが始まると中盤戦に突入する。
銀、桂、歩などを繰り出しながら相手の駒を攻めて駒得を狙い、敵陣に攻め入って龍、馬やと金などを作って相手玉の囲いを脅かすこと、またそのような相手の攻めを防ぐ(受ける)攻防が主となる。攻めと受けのどちらに主眼をおくかによって個人の棋風が良く現れる部分である。
一方または両方の囲いが崩れ出すと、終盤戦に突入する。
囲いを崩しながら相手玉に迫り、詰めろをかけ続け、最終的には詰将棋のように王手の連続で詰みまで持って行くことになる。お互いに玉に迫りあっている場合、相手への詰めろを一手外すと逆に自玉にかけ返されてしまうので、一手の緩手で勝敗がひっくり返ってしまうこともある重要な局面である。
一方的な場合は詰められるのを逃れるために逃げ道を確保する。入玉を目指し早めに逃げることもある。
角と銀+桂など、大駒1枚と歩以外の小駒2枚を交換することを二枚替えといい、一般的には小駒2枚を得た側が有利とされる。ただし大駒と桂香2枚の交換では大駒を得た側が有利になりやすい。
交換した駒は再利用することが前提なので、成駒と元の駒の価値は交換に関してはあまり変わらない。また持ち駒をすぐに敵陣近くに打ち込めるため、成りが目前の歩だからといって特に価値が跳ね上がるようなこともない。チェスのポーンが二段目、七段目、クイーン昇格後で価値が全く異なるのとは対照的である。
これらの駒の価値は中盤戦で特に意識される。終盤では駒得より詰ますスピードが重要なため、あまり重視されない。
将棋がいつ頃日本に伝わったのかは、明らかにされていない。囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。伝説としては、将棋は周の武王が作った、吉備真備が唐に渡来したときに将棋を伝えたなどといわれているが、いずれも江戸時代初めに将棋の権威付けのために創作されたものであると考えられている。
日本への伝来時期はいくつかの説があるが、早いもので6世紀頃と考えられている。このとき伝来した将棋は、現在のような五角形の駒形ではなく、古代インドのチャトランガの流れを汲む立像型の駒であったとされている。掌中暦に「一(はじめ)棋は騎を作る」とあり写実的な駒があったと推定する。チェスでは古い駒ほど写実的である。だが大きな問題点として、現在までそのような形の将棋が発見されたことはなく、もちろん正倉院の宝物殿にも納められていないため、物証に乏しいことがあげられる。
遅いほうの説としては、平安時代に入ってからの伝来であったとする説がある。中国のシャンチーや朝鮮のチャンギがこの時期に日本に伝わったというものであるが、これらは駒を線の交点に置くことなど将棋との違いは大きく疑問も残る。東南アジアのマークルックに銀将と同じ動きの駒があることからこれの影響を受けた可能性もあるが、当時の造船技術では海岸沿いに日本まで伝わったと考えるのも難しく、はっきりしたことは分かっていない。
チェスの歴史も参照のこと。
考古学史料として最古のものは、奈良県の興福寺境内から発掘された駒16点で、同時に天喜6年(1058年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の『新猿楽記』の記述と同時期のものであり、文献上でも裏付けが取られている。
三善為康によって作られたとされる『掌中歴』『懐中歴』をもとに、1210年~1221年に編纂されたと推定される習俗事典『二中歴』に、大小2種類の将棋がとりあげられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)および平安大将棋と呼ばれている。平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将1枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には持ち駒の概念がなかったことがうかがえる。
これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵と平安大将棋のみにある銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に仏教の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある(清水康二・奈良県立橿原考古学研究所主任研究員の学説による)。さらに、チャトランガはその成立から戦争を模したゲームで駒の取りすてであるが、平安将棋は持ち駒使用になっていたとする木村義徳の説もある。
13世紀頃には平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・酔象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案された。15世紀頃には複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案され、現在に至っている。16世紀頃には小将棋から酔象が除かれて現在の本将棋になったと考えられる。元禄年間の1696年に出版された「諸象戯図式」によると、天文年中(1532年-1555年)に後奈良天皇が小将棋から酔象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない。
なお、16世紀後半の戦国時代のものとされる一乗谷朝倉氏遺跡から、174枚もの将棋の駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、1枚だけ酔象の駒が見られ、この時期は酔象を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。
将棋史上特筆すべきこととして、日本将棋ではこの時期に独自に、取った駒の再利用ルール、すなわち持ち駒の使用が始まった。持ち駒の採用は本将棋が考案された16世紀頃であろうと考えられているが、平安小将棋のころから持ち駒ルールがあったとする説もある。
江戸時代に入り、さらに駒数を増やした将棋類が考案されるようになった。天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋(大将棋とも。混同を避けるために「泰」が用いられた)・大局将棋などである。ただし、これらの将棋はごく一部を除いて実際に遊ばれることはなかったと考えられている。
将棋の家元である名人らには俸禄が支払われた。江戸時代を通じて、名人は大橋家・大橋分家・伊藤家の世襲のものとなっていった。現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。名人を襲位した将棋指しは、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのがならわしとなった。
名人を世襲しなかった将棋指しの中にも、天才が現れるようになった。伊藤看寿は江戸時代中期に伊藤家に生まれ、名人候補として期待されたが、早逝したため名人を襲位することはなかった(没後に名人を贈られている)。看寿は詰将棋の創作に優れ、作品集『将棋図巧』は現在でも最高峰の作品として知られている。江戸末期には天野宗歩が現れ、在野の棋客であったため名人位には縁がなかったが、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。宗歩を史上最強の将棋指しの一人に数える者は少なくない。
1899年(明治32年)ごろから、新聞に将棋の実戦棋譜が掲載されるようになり、高段者が新聞への掲載を目的に合同するようになった。1909年(明治42年)に将棋同盟社が結成され、1924年(大正13年)には関根金次郎十三世名人のもとに将棋三派が合同して東京将棋連盟が結成された。これが現在の日本将棋連盟の前身で、連盟はこの年を創立の年としている。
その後、1950年(昭和25年)には九段戦(1962年(昭和37年)から十段戦に改称)と王将戦が、1953年(昭和28年)には王座戦が創設される(王座戦は当初は非タイトル戦で、タイトル戦に昇格したのは1983年(昭和58年)のことである)。1960年(昭和35年)に王位戦、1962年(昭和37年)に棋聖戦、1974年(昭和49年)に棋王戦が創設され、1988年(昭和63年)に十段戦が発展解消して竜王戦となり、現在の七大タイトル制に移行する。
タイトルが7個に増えた1983年以降、7冠すべてを同時に保持することは不可能と思われていたが、1996年(平成8年)、羽生善治が史上初の「七冠王」となり、「羽生時代」と呼ばれるようになる。それ以降も羽生は無冠となったことがなく、通算獲得タイトル期数は60期を超える。
1966年、蛸島彰子が奨励会を初段で退会し、初の女流棋士となる。ただしこの時期は女流棋戦は行われておらず、もっぱらレッスンプロとしての存在であった。1974年、初の女流棋戦である女流名人位戦が開催され、蛸島が初代の女流名人位の座につく。この年を女流棋士の誕生の年とすることも多く、女流棋士会の「開催○周年パーティー」も1974年を基準としている。
現在では50人以上の女流棋士が誕生し、女流名人位戦のほか、女流王将戦、女流王位戦、大山名人杯倉敷藤花戦、レディースオープントーナメント、鹿島杯女流将棋トーナメントの6つの棋戦が行われている。その他、一般棋士の棋戦にも女流枠が設けられ、各棋戦に数人の女流トップが参加している。
アマチュアとプロとの対局もほとんど行われておらず、新聞や雑誌の企画としてお好み対局が行われたり、将棋教室やイベントの中で指導対局が行われたりする程度であった。しかし、近年はアマチュア強豪とプロとの実力差が小さくなってきており、プロの公式戦にアマチュア大会の優秀成績者を参加させるといったことも行われるようになっている。
アマチュアの中にも、プロに伍する実力を持つものが現れることがある。彼らの中には、真剣師として賭け将棋で生計を立てていくものもいた。花村元司は、真剣師として生業を立てていたのち、1944年にプロ編入試験を受けて棋士となり、のちに名人戦にも挑戦する。小池重明も真剣師であり、プロとのお好み対局ではプロを連破するなど実力的にも抜きんでていたが、プロ入りすることはなかった。
近年では、奨励会を退会した者がアマチュア選手として活躍する例も多い。瀬川晶司は奨励会を年齢制限で退会したが、アマチュア選手としてプロ棋戦に参加し、プロ相手に一時7割を超す勝率をあげた。2005年、瀬川はプロ編入を希望する嘆願書を連盟に提出し、特例としての編入試験が実施され、奨励会を退会したものとしては初めてプロ入りが認められた。
2006年、将棋連盟はアマチュアおよび女流棋士のプロ(正棋士)への編入を正式に認め、四段(順位戦フリークラス)への編入試験の要項を発表した。
1990年代になって、将棋の日本国外への普及が本格的に行われるようになり、とくに中華人民共和国への普及が盛んである。その中でも上海への普及がとくに盛んで、「近代将棋」2006年1月号によると上海の将棋人口は12万人とのことである。非漢字圏への普及は比較的遅れているが、駒の名前の代わりに方向を示した符号を書いた駒を利用するなどの方策がとられている。
将棋人口が半減した上記の20年の間に、将棋が一般メディアに取り上げられたことは何度かある。代表的なものでは、羽生善治の七冠達成(1996年)、NHKの連続テレビ小説『ふたりっ子』の放送(1996年)、中原誠と林葉直子の不倫報道(1998年)、瀬川晶司のプロ編入試験(2005年)などである。しかしいずれも「将棋ブーム」を生むには至らない一過性のものとなってしまっている。
囲碁では週刊少年ジャンプに連載された『ヒカルの碁』の影響で、10代の囲碁人口が増えている(前述の「レジャー白書」による。全体の囲碁人口は減少している)。将棋人口の減少を食い止めるには、囲碁のように若年層への働きかけが必須であろう。
また、1996年頃からJava将棋やザ・グレート将棋など、盤駒を利用しなくともインターネットを通じて対局ができるインターネット将棋が普及し始め、現在は、1998年に運営を開始した将棋倶楽部24や、近代将棋道場、Yahoo!ゲームの将棋などによる対局が広く行われるようになっている。
1980年代のコンピュータ将棋は、プログラム技術、CPUやメモリが共に未熟だったため、非常に弱かった。思考時間は長かったし、意味不明の指し手をすることもしばしばだった。1990年代に入ると、ソフト、ハードともに格段に進歩した。現在、最強のソフトはアマ5段程度(序盤アマ1級、終盤アマ5段、最終盤プロ並み)といわれている。特に、『詰み』の段階では、ゴールがはっきりしているので、コンピュータは人間を遥かに超える計算力(力技)を使って指してしまう。プロの棋士でさえ、対コンピュータの対処法を知らないと苦戦してしまう程である。ちなみにチェスと違い将棋の場合は取った駒を利用出来るといったより複雑なルールを持つ為、コンピュータ・チェス・ソフトに使用されるコンピュータ(有名なのは、初めて人間のチェス・チャンピオンを打ち負かしたディープ・ブルー)よりも遥かに高い性能レベルが必要とされる。
日夜、将棋ソフト研究・開発に勤しんでいるのは主に、フリープログラマー(長年、将棋ソフトにのみ打ち込んでいる者も居る)、大学の研究室、企業などである。
2005年、日本将棋連盟はすべてのプロの棋士と女流棋士に対し、無許可で公の場においてコンピュータとの対戦を行わないよう通達している。これはコンピュータ将棋との対局を重要なビジネスチャンスととらえている連盟の意向であるが、将棋ファンからはトップダウンでの通達に対して不満の声を上げるものもある。
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