南越国(なんえつこく, Nanyue-guo)は紀元前203年から紀元前111年にかけて中国南部からベトナム北部に自立した王国と帝国である。南粤とも書く。
南越の建国
古代の華南地方は百越の住む土地であったが、
秦始皇帝は六国統一後、五路に分けて大軍を嶺南に送り、
紀元前214年嶺南を征服、桂林・南海・象郡を設置した。しかし、秦帝国はまもなく崩壊し、秦末の混乱に乗じて南海郡龍川令の趙佗が
紀元前203年自立して南越王を称した。趙佗は真定(現・
河北省正定県)出身の漢人である。楚漢戦争の後、中国を統一した
漢の
高祖は嶺南に介入する余力はなく、趙佗を南越王に冊封した。
南越の概況
趙佗は番禺(現・
広州)を都とし、67年にわたって南越を統治、
呂后時代には南越武帝と称した。その支配領域は北は南嶺で漢の長沙国と接し、東は
福建西部に及んで閩越と交わり、西はベトナム北部、南は
海南島に広がっていた。この時代には鉄器が普及して農業が発達し、番禺を中心に南海貿易が盛んに行われた。漢人の数は少なく、ほとんどは百越と呼ばれる異民族であった。今日のチワン族やベトナム人の祖先である。
南越の滅亡
紀元前112年南越の丞相・呂嘉が内乱を起こして趙興とその母后を殺し,趙興の異母兄である趙建徳を推戴して漢に反抗した。そこで漢の
武帝は伏波将軍・路博徳、楼船将軍・楊僕らの率いる10万の大軍を組織して南越を攻撃した。
紀元前111年首都番禺は陥落し南越は滅亡、その領域はベトナム北部を含めて漢の支配下に入った。
歴代国王と皇帝
- 趙佗(武王と武帝)
- 趙胡(文王と文帝)
- 趙嬰斉(明王と明帝)
- 趙興(哀王と哀帝)
- 趙建徳
考古遺跡
1983年6月
広東省広州市象崗山で趙胡(文王)の墓が発見され、青銅礼器、楽器、兵器、生産用具、玉器、金・銀器、象牙、漆器、絹織物などの副葬品千点余りが出土した。さらに文王および殉死者の遺骸とともに、文王の印章とみられる金印も発見された。西漢南越王墓と呼ばれる。なお、趙佗の墓はまだ発見されていない。
外部リンク
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