任那(みまな、にんな 369年 - 562年)は古代に存在した朝鮮半島の地域。三韓の中の弁辰、弁韓、および馬韓、慕韓の一部の地に相当する。
しかし、1960年代ごろから大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国で研究が進み1963年金錫亨は「分国論」を発表した。この主張によれば、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地の毎に分国を建てたというもの。具体的に加耶人が広島、岡山に、新羅が東北にという主張である。 任那日本府の問題は夫々の分国がこれを争ったという解釈である。この論文を戦前の朝鮮史像を打破し、新しい主体的発展的な歴史像を生み出したとしている。(出典:参考文献書評より)、また日本でも1970年代ごろから新たな視点から再検討が行われた結果、ヤマト朝廷の任那支配は疑問視されるようになり、任那日本府については倭と関連する集団(倭臣、倭人集団)が任那地域に一定の経済利得権を持っていたとする説が有力となっている。近年、日本特有の墳墓である前方後円墳が任那に相当する地域から相次いで発見され、関連を指摘されている。
これらから、中国史料における「任那」は、
地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。
魏に続く晋代になり、290年頃、八王の乱が起きて中原が乱れると、慕容氏が強勢になり、遼東と遼西に進出し楽浪・帯方両郡は中原との陸路の連絡を絶たれ弱体化し、313年、高句麗により楽浪郡が、引き続き帯方郡が滅亡した。346年、前燕(慕容氏)による高句麗の一時的壊滅と、さらに357年、前燕の中原進出に伴う高句麗の再起と、朝鮮半島南部への政治的圧力関係は、めまぐるしく情勢が変化した。この間に朝鮮半島南部の政治状況は一気に流動化したと考えられ、魏代の弁辰(弁韓)諸国は任那に再編成されたと推測される。一つの仮説ではあるが、その時期は320年から350年、しぼってみると345年から355年頃ではないかと考えられる。
これを総合すると「任那」は512年から525年に滅亡したと考えられる。この後『日本書紀』には、「任那復興」と記されているが、これは「任那の貢納の再興」と解することができよう。
なお、通説によれば「任那四県」は現在の全羅南道に比定されている。全羅南道には5世紀後半に比定される前方後円墳が10基以上認められ、倭と密接な関係があったことをうかがわせる。
「加羅」は現在の慶尚道に比定されており、したがって「任那」と「加羅」とは同一地域の別称とは言い難い可能性が高い。
また、任那四県割譲(任那滅亡)後に残った加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国を総称して任那と呼んだと言う記述もあるが、これは滅亡した任那の貢を代行して納める国々として解される。