京都大学は日本で2番目に創設された帝国大学の流れをくんでいる国立大学である。自由な学風を標榜しており、現在でも学生自治活動が活発に行われている。また、西部講堂に代表される京都地区における文化発信地としての役割も担ってきた。
何事も学生の自主性に任せるという「自由の学風」を標榜しており、毎年行われる11月祭や折田先生像をめぐる落書きなどにもその一端を垣間見ることができる。しかし、改装や建てかえが進んで昔の面影が消え、それとともに学風が失われつつあるという声も一部で聞かれる。
帝国大学令制定後、近畿にも帝国大学の設置をという声があがっていたが、財政難のため見送られ続けていた。1895年に西園寺公望は日清戦争で得た賠償金をもとに第三高等学校を帝国大学へ昇格させる提案を行う。最終的に第三高等学校を東一条通の南側(現在の吉田南キャンパス)に移転し、高等学校の土地・建物を大学が利用するという案が採用され、翌年予算処置が可決される。1897年6月18日に京都帝国大学設置に関する勅令が制定され、京都帝国大学が発足する。
創設時の計画では1898年にまず法科大学から設置する予定であったが、工科志望者の急増により1年前倒しという形で、創設と同年の1897年に京都帝国大学理工科大学が設置された。続いて1899年京都帝国大学法科大学及び京都帝国大学医科大学、1906年京都帝国大学文科大学を設置し、約10年をかけて分科大学を設置した。初代総長には文部省専門学務局長の木下広次が就任。事務局長にあたる「書記官」には中川小十郎が就任した。
当時の総長の意向もあって、「研究・教授・学修の自由を重んじるドイツ式」を採用、ドイツの大学のシステムに倣った。高根義人の主導によるこの方針は現在の「自由の学風」に影響を与えたと言われ、法科大学の卒業生の高等文官試験での不振を端として転換されたものの京都大学に独特の学風を根付かせる端緒となった事は確かである。
1919年に分科大学制が学部制に変わった。その年には、経済学部が法学部から分離して独立の学部となり、1923年には農学部の設置と学部の増設が相次いだ。農学部増設と同じ年には本部構内に京都大学のシンボルとして親しまれている時計台を持つ大学本館が完成している。1926年には京都大学初の附置研究所にあたる化学研究所が設置された。
昭和に入ると思想関係の締め付けが強化された世相を反映して、京都大学でも思想事件が相次ぐ。1928年、文部省はマルクス経済学者の河上肇教授の辞職を要求、教授会は河上の辞職を認める決議を出し河上は大学を追われる事になる。さらに1933年には鳩山一郎文部大臣が法学部の滝川幸辰教授の刑法理論が「赤い思想」であるとして休職処分にした事から法学部の全教官が辞表を提出、総長も文相と会見、辞意を表明したものの文部省からの切り崩しにあい、結局滝川ら7人の教官が大学を去る事態となったいわゆる「滝川事件」が起きている。
戦時体制の強化に伴い、日本精神史(文学部)、東亜経済政策原論(経済学部)、航空学・燃料化学(工学部)などの国策に沿った講座が設けられ、太平洋戦争の開戦後、学生を軍隊風に編成する目的で「京都帝国大学報国隊」が結成される。
1943年、文系学生の徴兵猶予が停止され、学生が続々と戦場に赴いた。京都大学の学徒出陣壮行会では総長を先頭に平安神宮に参拝、必勝を祈願したという。
第二次大戦終結後、公職追放によって大学を免職になる教授が出る一方で、滝川事件で大学を去っていた滝川幸辰らが大学に復帰した。創立五十周年にあたる1947年には大学名から「帝国」が削られ、京都大学と改称、1949年には第三高等学校を統合している。同年には、理学部教授湯川秀樹が日本人初のノーベル賞に輝き、京都大学ではこれを記念して湯川記念館を設置、その後湯川記念館は基礎物理学研究所に改組されている。
1968年、青年医師連合の京都大学の支部が医学部大学院入試ボイコットを呼びかけ、呼びかけに応じなかった受験生に青医連メンバーが暴行を働いたいわゆる「青医連事件」を端緒として教養部は無期限ストに入り、学生部はロックアウトされた。東大のような入試中止という事態は免れたものの、戦後はじめて卒業式が中止に追い込まれ、さらに翌年度になってもいくつかの建物のロックアウトは依然続き、全面解除は9月まで持ち越されている。
1992年、総合人間学部が設置され、翌年には教養部が廃止、同時に大学院大学への移行も行われ、現行の大学組織の形に改編された。 1997年に京都大学は創立百周年を迎えた。そして2004年、時代の流れにより国の改革のひとつとして国立大学法人法が施行されその規定により京都大学は国立大学法人に改組、発展を続けている。
本稿ではこれらの経緯から創立は第三高等学校の前身である舎密局の設置年である1869年、設立は京都帝国大学が誕生した1897年としている。
歌詞は京都大学の公式サイト上に紹介されている。
そのほかの京都大学に関係する歌としては以下のようなものがある。
硬式野球部は関西学生野球連盟に所属し、旧関西六大学野球連盟時代に2度の優勝がある。帽子のロゴ「DB」はDark Blueの略で、スクールカラー「濃青」にちなんでいる。
「中央構内(キャンパス)」とも呼ばれる。京都大学設立以来のキャンパスである。元は尾張藩京都下屋敷である。その石垣が東大路沿いに現存し、石垣カフェ事件の舞台となった。正門を入って正面にある時計台記念館とクスノキは、大学の象徴として知られている。
「北部キャンパス」とも呼ばれる。理系中心のキャンパスであり、大学院生が多いこともあり、京都大学をよく知る人の間では「本部や吉田南に比べ落ち着いた雰囲気がある」といわれている。北東角にある農学部グランド(通称「農G」)では、アメリカンフットボール部をはじめ体育会各部の活動が行なわれている。理学部正門から続く銀杏並木は地域住民にもよく知られている。
旧称の「総人キャンパス」で呼ばれることがある。また単に「吉田キャンパス」でこの吉田南構内を指すこともある。全学共通科目の講義の大部分がここで行なわれるため、学部を問わず1回生はほとんどの時間をこの構内で過ごすことになる。そのためかサークルの勧誘・政治主張などのビラや立て看板が目立つ。吉田南総合館(旧総合人間学部A号館)前はかつて折田先生像のあった場所だが、建物の改築によりすっかり雰囲気が変わった。地名の由来となった2本の松が吉田南総合館中庭にある。グランドやテニスコートでは体育系サークルの活動が行なわれる。吉田寮はこの構内にある。2004年、国立大学としては初めて民間のコンビニエンスストアローソンが吉田南総合館地下に開店した。
講義室や研究室はなく、スポーツ実習のほかは専ら課外活動に使われる。西部講堂前にサークル棟がある。このサークル棟が老朽化しているため建て直す計画があるが、新しい建物の管理方法をめぐって学生側と大学の意見が合わず、具体化していない。入学式、卒業式、学位授与式といった式典は総合体育館で行なわれる。
「南部構内(キャンパス)」とも呼ばれる。全域が医学系の施設で占められている。
吉田キャンパスで最後に拡張された地区である。比較的新しい部局が使用している。また一部のスポーツ系・音楽系サークルが活動している。
通常は学生の姿を見かけることはない。東大路沿いに放送大学のパラポラアンテナがある。
旧陸軍の弾薬庫跡地を利用して1947年に開設された。かつては教養部の講義が行なわれていたことがあったが、現在は学部の講義は行なわれていない。ただし工学部の4回生は、配属された研究室によってはここで卒業研究を行なうこともある。
1990年代には吉田・宇治の両キャンパスが手狭になったことから、「第3キャンパス」の建設が計画された。当初は京都府南部や滋賀県も候補地として検討されたが、京都市の提案により、市が住宅地として開発していた「桂御陵坂」地区が建設地に選ばれた。2003年に化学系・電気系専攻の移転が完了し、使用が開始された。キャンパスはA~Dの4つの「クラスター」に別れており、C・Dクラスターの一部は2006年現在も建設中である。なお京都市営地下鉄東西線の桂キャンパス付近への延伸構想があるが、建設時期などは未定である。
この項目は、ウィキプロジェクト 大学のウィキプロジェクト 大学/大学テンプレート (日本国内)を使用しています。
Universität Kyōto | Kyoto University | Université de Kyōto | კიოტოს უნივერსიტეტი | 교토 대학교 | Kyotos universitet | มหาวิทยาลัยเกียวโต | 京都大学