ローマ帝国(ローマていこく、ラテン語:Imperium Romanum)は紀元前27年(帝政の開始) から 1453年(東ローマ滅亡)の間に、地中海世界一帯を支配した帝国。
シルクロードの西の起点であり、中国の文献では大秦の名で呼ばれていた。
また、中世における「ローマ帝国」であるビザンツ帝国やドイツの「神聖ローマ帝国」と区別するために西ローマ帝国滅亡までを古代ローマ帝国と呼ぶことも多い。
なお、ローマ帝国という名称を名乗る国家は1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落まで存続しているが、7世紀以降の東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)はギリシャ系住民が多い地域を支配していたために古代ローマ時代に比べてギリシャ文化の影響力が強くなり、古代以来の統治機構がイスラムの侵攻などによって崩壊したことなどから、ヘレニズムとローマ法、東方正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に入っているため、単に「ローマ帝国」と言った時には含めず、476年の西ローマ帝国の滅亡を以ってローマ帝国の終焉とするのが一般的である。
ただし、西ローマ滅亡後もコンスタンティノポリスの皇帝が名目上全ローマ帝国の皇帝とされており、東ローマ帝国では古代末期のローマ帝国の政治経済の体制が数百年にわたって継続されていたことにも留意する必要がある。
都市国家ローマは次第に力をつけ、イタリア半島の都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして大きな領域を支配するようになった。紀元前1世紀にはイタリア半島内の都市国家による反乱(同盟市戦争)を経て、イタリア半島内の諸都市の市民にローマ市民権を付与し、狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。
「内乱の一世紀」と呼ばれる動乱の時期を経て、ローマは次第に元老院支配体制から有力な個人による統治へと性質を変化させた。カエサルやポンペイウスなどの有力者たちが権力を握った三頭政治の後、カエサルがポンペイウスを戦場にて撃破し、全ての実権を握った。元老院派によりカエサルが暗殺された後、その養子オクタウィアヌスは、第2次三頭政治を経てマルクス・アントニウスとプトレマイオス朝のクレオパトラ7世をアクティウムの海戦にて撃ち破り、長きにわたる混乱を収拾した。紀元前27年オクタウィアヌスは元老院より「アウグストゥス」の称号を受け、最初の「皇帝」となった。これより後を帝政ローマという。
以降帝政初期の皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず表面的には共和制を尊重して元首としてふるまった。彼等が即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次の様な称号と権力を有した。
これらに加え、皇帝たちは必要な場合執政官やケンソルなどの共和制上の官職に就任することもあった。さらに、皇帝たちには「国家の父」などの尊称がよく送られた。また歴代皇帝は死後に神格化されることも少なくなかった。
のちに若干の理想化も含めた歴史の叙述によれば、彼らは生存中に秀材を探して養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。またこの時代には、法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内の流通と経済が盛んになった。
五賢帝の時代を過ぎると、各地で反乱が起こる。これに対処すべく、212年、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」によって、ローマの支配下にあるすべての地域に、同等の市民権が与えられた。これによってローマの都市国家的要素は全て消滅したが、反面、財産や教育といった面から見て、かつての基準を下回るローマ市民を大量に受け入れる事となり、原則的に権利の点では平等であったローマ市民権保有者の間での階層化を生む事となった。
パクス・ロマーナにより、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方ごとの自立が促進された。 284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌス(在位 : 284年-305年)が混乱を収拾するため、帝権を強め、領土を四分割統治し、一時安定を取り戻す。4分割統治は、二人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)によって行われ、ディオクレティアヌスは東の正帝に就く。以降、ドミナートゥス(専制君主制)に移行した。一方、ディオクレティアヌスのもうひとつの策であったキリスト教迫害が失敗し、死後再び混乱した。
これを鎮圧して再び単独皇帝となったコンスタンティヌス1世(大帝。在位 : 副帝306年-、正帝324年-337年)は、キリスト教の勢力と妥協し、313年ミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。のちの380年、テオドシウス1世(在位 : 379年-395年)のときには国教に定められた。
コンスタンティヌス1世は専君の確立につとめる一方、東のサーサーン朝ペルシア帝国の攻撃に備えるため、330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブル)に遷都し、コンスタンティノポリスと改称して国の立て直しを図った。しかしコンスタンティヌスの死後、北方のゲルマン人の侵入が激化し、帝国の解体は止まらなかった。
東ローマ帝国は、軍事力と経済力をつけてゲルマン人の侵入を最小限に食い止め、西ローマ政府の消滅後は唯一のローマ帝国政府として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持つようになった。
その後、ギリシャ化の進行や、イスラムによるオリエントの領土喪失、西欧諸国の自立などによって当初とは大きく姿を変えはしたものの、若干の断絶を挟みつつ1000年にわたってローマ帝国の正統な後継者として存続した。しかし、1453年にオスマン帝国に征服された。なお、征服者オスマン帝国スルタン・メフメト2世及びスレイマン1世は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞っていたといわれている。
詳細は東ローマ帝国を参照されたし。
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