プラザ合意(-ごうい、英Plaza Accord)は、1985年9月22日、アメリカ合衆国ニューヨークの「プラザホテル」で行われたG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)により発表された、為替レートに関する合意。
その後、インフレ沈静化に伴い、金融緩和が進行。景気回復で貿易赤字増大に拍車がかかった。金利低下により貿易赤字の国アメリカのドルへの魅力が薄れるに伴い、ドル相場は次第に不安定化した。1970年代末期のようなドル危機の再発を恐れた先進国により協調的ドル安の実施を図るため、このプラザ合意が成された。
また、円高により、日本経済の規模は相対的に急拡大。「半額セール」とまで言われた米国資産の買い漁りや、海外旅行のブーム、賃金の安い国への工場移転などが相次いだ。
その後、進みすぎたドル安に歯止めをかけるべく、為替レートの安定化を図るために1987年再び各国が協調介入することをうたったルーブル合意がなされた。
プラザ合意についてはバブル崩壊後にさまざまな議論がなされたが、多くの見解は「失われた10年」といわれる長期の不況に陥れた直接の原因として一致している。
そもそも、輸出産業に依存度の高い日本が為替レートを恣意的に調節することには大きなリスクを伴うものである。協調介入によって人為的に円高に導いた結果、輸出産業は競争力を相対的に失うことに繋がる。かいつまんで言えば日本にとって不利になるこの合意がなされた背景には、それ以前からあった日米貿易摩擦があるだろう。
80年代には日本が高度経済成長を達成し、輸出産業を中心に好業績の企業が相次いだが、これは同時に対アメリカの巨額の貿易黒字を生み出した。当時アメリカは、財政赤字と貿易赤字という、いわゆる双子の赤字を抱えており、これを是正するための効果的な手段としてドル安円高への誘導がなされたという指摘がある。ドル安円高にすれば対円の貿易赤字が実質目減りするという効果がある。
一般的には、プラザ合意によって日本がアメリカの赤字解消に一役買ったとの解釈が妥当であり、当時の内閣総理大臣中曽根康弘と大蔵大臣竹下登によって決断されたこの政策は、日本国民の資産を売った売国行為として批判する声もあるようだ。
本来、為替レートなどを誘導する場合はソフトランディングへ誘導するのが一般的である。すなわち、急激な経済へのインパクトをなるべく避け、投機的な資金の流出、流入を防止することで市場の安定性を確保し、同時に市場需給に基づく自由かつ柔軟な取引によって自律的に国際収支調整するよう、意識されるべきである。
しかし、ある特別な場合において、複数の国間で為替レートを一定の水準まで誘導するよう、市場介入を協力して行う場合がある。協調介入といわれるこの手法は自国の通貨の安定性を保つために行われる自国通貨への介入、すなわち単独介入とはその目的において大きく異なる。単独介入は急激な為替レートの変動があったとき、これによって実体経済への悪影響が懸念されるため、これを安定させる目的で行われるものであり、為替レートを一定の方向へ誘導する目的で行われるものではない。これに対し、協調介入は、ある種の経済的なゆがみ、不均衡があり、それによって複数の国の利害が総合的に悪いと判断されるときに、当該国間で協議し行うものであり、為替レートを人為的に一方向へ操作するほどの強い影響力がある。ただし、協調介入を行っても、マーケットがこれを予測してすでに織り込んでいる場合があり、サプライズ感が無く大きな影響を与えない場合もありえる。
協調介入が特殊であるとされる理由として、単独介入が誘導目標を一般的には公開しないために市場参加者の思惑を誘導しないのに対し、協調介入は為替レートの誘導目標を公開するのが普通であり、これによって市場参加者の思惑売買を誘導するため、大きな影響力を持つ。プラザ合意後、当時大蔵大臣だった竹下登が「円-ドルレートは1ドル=190円でもかまわない」と発言したことを受けて一気に円高が進んだことなどからも、市場参加者の思惑を誘う協調介入は大きな影響力があることがわかる。 また、協調介入が実施されるケースは極まれであり、プラザ合意が行われた当時は、大きな経済的ゆがみが認識されていたことが伺える。
また、この性格上、協調介入を実施する上でソフトランディングは非常に難しいという指摘があり、一方で経済のねじれを一気に解消する手法として積極的に活用するべきとの意見もあるようである。 ただし、変動相場制における国際収支調整機能は、人為的に維持されている、あるいは操縦されている場合において機能しないというのが一般的な解釈である。この意味においてプラザ合意は国際経済の場で決定された重大なミステイクであったという論調が強い。
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