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Tapestry of bayeux10.jpgから。上に見えるのがハレー彗星]] ノルマン・コンクエスト (英語: The Norman Conquest) は、ノルマンディー公ギヨームによるイングランド征服のことである。1066年ヘースティングス(Hastings)の戦いに勝利したギヨームはウィリアム1世(征服王;"William the Conqueror")としてノルマン王朝を開き(ウェストミンスター寺院での戴冠式は、同年12月25日。)、これによりイングランドは異民族(ノルマン人)により支配される事となった。これはイングランドの歴史の分水嶺となり、スカンジナビアの強い政治的、文化的影響から離れ、フランスと政治的にも文化的にも強く関係することになる。

背景


11世紀のイングランドは、デーン人の王朝(クヌート王等)の後、ノルマンディの支援を受けたアングロ・サクソン王朝のエドワード懺悔王が即位したが、その支配はデーン人とノルマンディ人の影響力の脆いバランスの上に立ったものだった。

エドワード王には息子がいないため甥のエドワードを後継者に迎えていたが、彼が亡くなるとその幼い息子エドガー・アースリングを後継者とした。しかし、1066年に王が亡くなると年少(約15歳)のエドガーは無視され、サクソン諸侯会議は王の義兄弟で最大のサクソン貴族のハロルド・ゴドウィンソンを王に選んだ。

しかし、ハロルドの兄トスティはノルウェー王ハーラル3世と組んで王位を主張し、一方、ノルマンディ公ギョームは、エドワード王から後継者に指名されていたと主張した。さらにギョームは、以前にハロルドがギョームの後継を承認する誓い(聖骨の誓い)をしており、彼の即位は破誓であり無効だとし、ローマ教皇の承認を得た。

1066年にギョームは、配下のノルマンディ諸侯のみならずフランス中から領地を求める小貴族の次男以下を募ってイングランドに上陸した。ヘースティングスの戦い参照。

ハロルドが戦死すると、ギョームは南部から北東部の各地に進撃した。南部のサクソン諸侯はまもなくギョームの王位を認め、ギョームはウィリアム1世として即位した。

征服


それ以前のイングランドはサクソン人やデーン人の大諸侯(Earl)が各地に割拠している状態だったが、ギョームはノルマンディ式の封建制を取り入れ、ヘースティングスの戦いで戦死、追放した諸侯の領土を没収し、配下の騎士たちに分け与えた。さらに、各州(シャイア)に州長官(シェリフ)をおき、王の支配を全土に及ぼした。

緩やかな支配に慣れていたサクソン諸侯は、ハロルドの一族やエドガー・アースリングをかついで各地で反乱を起こしたが、各個撃破された。その後も1070年にデーン人、スコットランド王などの支援を受けてヨークシャーなど北部で反乱が起き、所領を奪われたサクソン人やデーン人達はヒューバート・ウェイク(ロビン・フッドのモデルの1人といわれる)を首領としてウォッシュ湾近くのイーリ島に集結して抵抗した。

しかし、これが鎮圧された1074年以降、イングランドは安定した。エドガーはスコットランドに逃亡し、その妹マーガレットは後にスコットランド王マルカム3世と結婚した。彼女の娘イーディスは後にサクソン人、ノルマン人融合の証としてヘンリー1世と結婚することになる。

ウィリアム1世は反乱諸侯から領土を取り上げると共に、サクソン人の貴族が後継ぎ無く死亡したり、司教修道院長が亡くなると代わりにノルマン人を指名したため、1086年頃にはサクソン人貴族はわずか2人になっていた。また、カンタベリー大司教もサクソン人のスティガンドが解任され、イタリア人のランフランクスが就任しているが、これはローマ教皇の意向が働いており、以降、イングランドにおけるローマ教会の影響力は強くなり、ウィリアム2世の時のイングランドにおける叙任権闘争につながっていく。

土地を奪われたサクソン人たちは、スコットランドや各地に逃亡し、はるかビザンティン帝国に傭兵として雇われるものもいた。

支配


ウィリアム1世は所領を与える際に、まとまった一地域を与える代わりに各地の荘園(manor)を分散して与えた。征服が少しずつ進んだことによる必然でもあるが、このため一地域を半独立的に支配する諸侯は生まれなかった(王族などに例外はある)。諸侯は所領が分散しているため反乱を起こしにくく、また支配地域の安定のために王の力に頼る必要があったため、王権は最初から強かった。

その一方、諸侯たちはお互いに頼りあうことになるため、王に対しても協力して対抗しやすく、後にマグナカルタイングランド議会の発展につながる要因となっている。

また全国の検地を行い、課税の基礎となる詳細な検地台帳(ドゥームズデイ・ブック)を作り上げた。当時は、フランス、ドイツ、イタリアは大諸侯が割拠する封建制であり、イングランドの体制が最も中央集権的であり進んでいた。

影響


フランス王の封建臣下であるノルマンディ公が同時にイングランド王を兼ね、フランス王より強大になったことによる両者の争いは、プランタジネット朝においてさらに激しくなり、百年戦争を引き起こすことになる。

また、これまでスカンディナビア、ゲルマン文化の影響が強かったが、フランス文化がこれに取って代わることになり、政治的にもフランスと深く関連することになる。

ウィリアムに従う北フランス各地の貴族たちは、ひとまずイングランドに定着したが、その後しだいにウェールズ、アイルランド東南部、スコットランドにも広がってゆき、フランス北西部とブリテン諸島は北フランス文化圏に組み入れられることとなった。

ノルマン人の子孫であるノルマンディーの貴族たちは、移住してから100年程度たち、風習、言語ともにフランス化していたので、イングランドではそれまでのテュートン系古英語に変わり、ノルマンディー方言を中心とする北フランスの言語(ノルマン・フレンチ、アングロ・フレンチ)が貴族社会の言語となった。

動物を示す英語と、その肉を示す英語が異なる(例:豚‐pig、swine;豚肉‐pork/牛‐cow、bull、ox;牛肉‐beef/羊‐sheep;羊肉‐mutonなど)のは、イングランドの被支配層が育てた動物の肉を、ノルマンディーからの支配層が食用としたために、二重構造の言葉となったケースの典型といわれている。その他、yardとgardenなどが挙げられる。また、一般的なフランス語での‘ch’は、‘sh’「シ」に近い発音だが、ノルマンディー地方の方言では、「チ」に近い発音をしていたという。フランス語起源の英語の単語で‘ch’が含まれるもののうち、「シ」ではなく「チ」に近い発音をすることが多いのは、この名残りである。

ハレー彗星


なお1066年はハレー彗星が地球に接近した年であることが後にわかった。ノルマン・コンクエストをあらわしたバイユーのタペストリーの中に彗星が描かれているものがあるが、この彗星がハレー彗星であることが18世紀になって証明された。

関連項目


イングランドの歴史 | ヨーロッパ史 | ヴァイキング | 11世紀

Norman conquest of England | Conquête de l'Angleterre | 노르만 정복 | Inwazja Normanów na Anglię w 1066 | Conquista Normanda | Норманско освајање Енглеске

 

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