ドイツの歴史
Frankenreich 768-811.jpg 4世紀後半より、ゲルマン人がライン川・ドナウ川を越えて本格的な移住を進め、旧ローマ帝国の領内にゲルマン人諸国家が成立した。その中で、ガリアに5世紀末に成立したフランク王国は、ローマ・カトリックを受容してラテン系住民からの支持を集めるなど、徐々に勢力を拡大させていった。8世紀半ばに成立したカロリング朝フランク王国のカール大帝は、ザクセン人(現在のドイツ北西部)を平定し、バイエルン(現在のドイツ南部)にも勢力を伸ばして西ヨーロッパ世界の政治的統一を推進しつつ、東方から侵入してきたアジア系遊牧民のアヴァール人を撃退するなどの活躍をみせ、800年にローマ帝国皇帝の冠をローマ教皇から授かって古代における皇帝理念の継承者となった。また、アーヘン(現在のドイツ北西部)の宮廷にブリタニアの僧アルクィンを招いて古典古代のラテン語文化を復興させ(カロリング・ルネサンス)、古典文化、ローマ・カトリック、ゲルマン人の諸要素を加えた独自の西ヨーロッパ世界を築き上げた。
1914年6月のサラエボ事件を機にオーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦した際、ロシア帝国がセルビアを支援したため、8月1日、同盟を理由にドイツ国はロシア帝国に対して宣戦した。その後、フランス、イギリス、日本なども参戦し、第一次世界大戦へと拡大した。開戦当初、短期決戦型のシュリーフェン・プランを計画していたが、タンネンベルクの戦い、マルヌ会戦では予想をはるかに上回る兵力と時間を費やすことになった。
1917年、ドイツは北海と地中海において無差別潜水艦作戦を実行。これまで中立の立場を取っていたアメリカ合衆国も公海の自由を侵されることに憤慨し、4月にドイツに宣戦した。7月には、議会内の講和を図る勢力が台頭したが、これをおさえたドイツ最高軍司令部(OHL)が事実上の軍事独裁体制を確立した。1918年になると戦局は悪化の一路を辿り、ブルガリア、オスマン帝国、オーストリアの同盟諸国が相次いで降伏し、11月のキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、皇帝ヴィルヘルム2世は退位を発表、オランダに亡命した。11月11日にコンピエーニュの休戦条約により第一次世界大戦は休戦した。
ホーエンツォレルン家による帝政が終わると、1919年初頭のスパルタクス団(1918年末にドイツ共産党を結党)の蜂起などの混乱を経て、ドイツ社会民主党が政権を握り、フリードリヒ・エーベルトが大統領になった。当時世界で最も民主的とされたヴァイマル憲法を制定した。
敗戦国ドイツはヴェルサイユ条約によって、植民地と領土の一部の割譲、1320億マルクという莫大な賠償金支払い、軍備の制限といった厳しい責任を負わされた。国内の経済・社会情勢に対する不満から、カップ一揆やミュンヘン一揆が起こった。シュトレーゼマン首相の時代には、インフレの克服に始まり、ヴェルサイユ条約への履行政策をとって平和協調に努めた。
国際的信用を回復し、賠償額も軽減されたドイツは、経済・政局ともに次第に安定期に入った。工業が活発化し資本主義が台頭するに伴い、社会民主党の勢力は衰えていき、それに代わって軍部や官僚が力を蓄えてきた。世界恐慌を体験し過酷な打撃を受けると、ヒンデンブルク大統領が強権を発動し、内閣は次々に交代、やがて民族主義を唱える、アドルフ・ヒトラー党首の率いるナチスが台頭してきた。
1933年1月、ヒトラーは首相に任命され、政権を獲得した。1934年8月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは首相と大統領を兼務させ、国民投票によって賛同され総統に就任する。ヒトラーは再軍備やユダヤ人、ロマのような少数民族の迫害など独裁政治を推し進めた。
ヒトラーは旧ドイツ帝国領西プロイセンの返還をポーランドに要求。拒否されると、1939年9月にドイツ軍はポーランドへ侵攻した。これはイギリスおよびフランスに対する宣戦布告となり、第二次世界大戦が開始された。ドイツ軍は電撃戦によりヨーロッパの広大な地域を征服、イギリスは本土上陸の脅威にさらされた。攻勢に転じたことでギリシアおよび北アフリカへの侵攻後、ドイツは1941年にソ連に侵攻する。
しかし1943年のスターリングラード攻防戦および1944年のノルマンディー上陸作戦での敗北後、政権は崩壊を始めた。東西からの連合軍の侵攻によって、1945年4月にヒトラーは自殺し、5月にドイツは無条件降伏した。
第二次世界大戦後、ヤルタ会談の取り決めによってドイツの処分が行われた。ポーランドを再建設するに当たって、ドイツ領東部を奪ってオーデル・ナイセ線を暫定的な国境とすることにした。また飛び地となっていたプロイセン地方はポーランドとソビエト連邦が分割した。このため、かつてのポーランド分割以来、長く領有していた東部地域と、ドイツ帝国統一の立役者であるプロイセンを完全に失った。この際に多くのドイツ人が難民として残った国土に流れ込んだ。その国土も、統一的な中央政府を建設させないように、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・ソ連の4カ国によって分割占領され、さらに首都ベルリンも、市内を4カ国で分割された。
1946年以降、鉄のカーテン発言、トルーマン・ドクトリン、マーシャル・プラン、コミンフォルムの設置など、アメリカとソ連がイデオロギーの違いによって意見の相違を深め、やがて欧州大陸を東西に分割する冷戦と呼ばれる対立状態になると、それはすぐに分割占領されたドイツに影を落とした。1948年、米英仏占領地域が独自に通貨改革を行うと、対抗したソ連がベルリンの米英仏占領地区へ繋がる陸路を完全に遮断(ベルリン封鎖)。アメリカはこれに対して食料物資を空輸することで封鎖を崩し、ソ連もすぐに封鎖を解いたが、両者の溝は埋まることはなかった。
1949年5月6日、米英仏占領地域に自由主義・資本主義のドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府を成立して分離独立、これを受けて10月7日、ソ連占領地区に共産主義のドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツ国家と民族は東西に分裂してしまった。
1989年からの東欧革命によって東ドイツも変容し、1990年に東ドイツ諸州が西ドイツ連邦に吸収される形で再統一となった。最大の懸案は東ドイツ地域の北大西洋条約機構(NATO)加盟であったが、ソ連が譲歩する形でこれも認められた。なお、ソ連は1991年末に崩壊した。1992年にはマーストリヒト条約が発効して欧州連合(EU)が発足、ドイツは欧州の中核国として存在感を増すこととなった。対外的には欧州の結束を強めることに努力し、コソボ紛争にはNATO加盟国の義務として第二次世界大戦後初めて参戦、隣国フランスと関係を強め、独仏合同旅団・欧州合同軍の設置やNATOとEUの東方拡大を歓迎した。対米関係では、アメリカ同時多発テロに対しては、テロとの戦いを支持してアフガン進攻に参戦したが、イラク戦争にはフランスやロシアとともに反対し、両国の間は急速に冷え込んだ。内政では、旧東ドイツ諸州の成長が思うように進まず、ドイツ全体の成長に悪影響を与えている。
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