トヨタ自動車株式会社(-じどうしゃ) (英語名: Toyota Motor Corporation) は、愛知県豊田市に本社を置く日本の自動車メーカー。
日本を含めアジアでのトップ、世界でもゼネラルモーターズグループに次ぎ第2位の販売台数を誇る、最大手級の自動車メーカーである。また、ダイハツ工業と日野自動車の親会社であり、富士重工業の筆頭株主でもある。
通称「トヨタ」(日本のテレビ局・ラジオ局では、2005年7月より「トヨタ自動車」を改めこの呼称を使用)、英語表記「TOYOTA」。トヨタグループ内では「TMC」の略称で表記される。社長は渡辺捷昭(1942年2月13日、四日市市生まれ、慶應義塾大学経済学部出身)。
Toyota Headquarter Toyota City.jpg
豊田佐吉(とよだ さきち)(1867年(慶応3年)~1930年)が創業した豊田自動織機製作所(現在の豊田自動織機)に、1933年9月に開設された自動車部が起源である。この設立の中心になったのは佐吉の息子である豊田喜一郎(1894年(明治27年)~1952年(昭和27年))であり、初代代表取締役社長に就任したのは豊田利三郎である。。
織機製作における鋳造・機械加工技術等のノウハウを活かし、研究期間を経て1935年に自動車製造を開始。1937年(昭和12年)に独立した新会社「トヨタ自動車工業株式会社」が設立された。
戦後の1950年(昭和25年)、ドッジ・ラインに伴うデフレにより、経営危機に陥り、豊田喜一郎は社長を辞任、帝国銀行(後の三井銀行、現・三井住友銀行)を中心とする銀行団の緊急融資の条件として、販売強化のためにトヨタ自動車販売株式会社(「自販」と略された)が設立された。これを工販分離という。以後生産開発担当の「自工」と共同歩調を取ってきたが、1982年(昭和57年)に両者は合併、現在のトヨタ自動車株式会社となった。なお、1950年(昭和25年)の経営危機は、直後に勃発した朝鮮戦争における米軍用トラックの大量受注により回避された。
2003年(平成15年)3月末集計における従業員数は65,551人、連結会社の合計は 264,096人で日本最大、世界では第三位の企業規模である。
2005年(平成17年)にはトヨタ町の本店新本館が完成し地上14階、地下2階の一面ガラス張りの現代的な建物が出来上がった。10月、ゼネラルモータースが保有していた富士重工業株(約20%)のうち8.7%を取得し筆頭株主になった上で、提携を結ぶことを発表。
2006年5月3日発売の新聞・ニューヨークポストによると、北米トヨタ本社のK・元女性秘書が在職中に大高英明・北米トヨタ元社長から、マンハッタン中心部にあるセントラルパーク等に度々連れ出され、体を触るなどのセクハラ行為を受け続けていたとして、元社長と北米トヨタ、豊田市のトヨタ自動車本社の3者を相手取り、1億9千万米ドル(約210億円)の賠償を求める訴訟を提訴した。大高・元社長はこれを受け、「社長にとどまることは社の利益を損ねる」として辞職しており、事実上の更迭とする見方が強い。(北米トヨタ自動車セクハラ訴訟事件)
なお、2007年(平成19年)には名古屋駅前にある豊田ビル・毎日ビルの建替えによる再開発で建設されるミッドランドスクエア内に新しい名古屋オフィスが完成予定、現名古屋オフィス、本社機能の一部および東京の営業部門が移転されることになっている(東和不動産、毎日新聞社と同様)。
しかし一方では乾いた雑巾を絞ると評される銭単位でのコストダウンが、下請企業のみならず、大手取引先(製鉄メーカーなど)の経営を強く圧迫しているという批判もある。
また、豊田商工会議所建設費約9億円のうち7億円を豊田市からの助成金でまかなったり、名古屋駅前の新本社ビルミッドランドスクエアに市街地再開発補助金を受けたり、負債全額を丸抱えしている蒲郡海洋開発(ラグーナ)に愛知県や蒲郡市による増資を強要したり、中心となって開設した海陽学園でも開設認可前に奨学生選考を行うなど社会性に欠ける負の側面も地元を中心に目立ち始め問題視されている。
80点主義とは、1966年に発売された初代カローラの開発主査である長谷川龍雄が打ち出した考え方である。商品の完成度を高める一方で、一部の飛び抜けて優れた機能や性能を追いかけることなく、まず最初に万人受けのする及第点の80点を目指し、及第点に達したのち更に上の点数を順次達成していくトータルバランスを念頭に置いた企業思想である。のちに、この80点主義は80点主義+アルファとなり、旧車種や他社への差別化戦略へと移行していく。
この「80点」という言葉が一人歩きし、しばしば反対者の「完璧でない、手を抜いた車作り」という批判に用いられることがある。「80点主義」に対する批判は、その提唱からまもなく現れたが、トヨタは1968年、自社の小型トラックハイラックスの広告コピーに「101点主義」と打ち、批判に応えた。
一方で他社に比して、機構面において新技術の導入に慎重であるため、しばしば「後追い」「石橋を叩いて渡る」「他社技術の良いとこ取り」などと批判されることもある。1960年の2代目コロナにおけるフルモノコックボディの脆弱性に対する不評や、ディーゼル仕様の不人気など、自社における新技術に対する顧客の反応の厳しさを経験したことが影響していると見られる。
1970年代後半から小型乗用車の前輪駆動化が世界的に進行した際、トヨタは前輪駆動を主力車種カローラやコロナに採用する前に、新車種「ターセル・コルサ」や、改良型の中級小型自動車「カムリ・ビスタ」など主力外車種での経験を踏まえた上で、なおかつ、顧客の反応を見るために従来型である後輪駆動車と併売を経て本採用する、という慎重ぶりであった。
また、ヤマハ発動機からは高性能型DOHCユニットの供給を、ホンダからは希薄燃焼システムや排ガス浄化システム(CVCC)の技術供与を受けるなど、高度な技術や、排出ガス対策などの緊急を要する技術に関しては同業他社に援助を請う場合もあったが、受け入れた技術に量産に見合う改良を施すことにかけては実力を発揮する傾向がある。燃焼効率の向上を企図した狭角配置の多バルブDOHCエンジン(ハイメカ・ツインカムと呼ばれる)の開発と、量産車への搭載などはその一例である。
1990年代後半、トヨタが先陣を切って普及させた技術としては、内燃機関における吸気時期電子制御システム"VVT-i( Intelligent Valuable Valve Timing Contorol)である(ただし最初に開発・実用化したのはフォード)。これは従来、エンジン機関の全体的回転タイミングによって吸気していたものに代え、電子制御により強制的適量吸気を実現したもので、国土交通省(旧運輸省)低排出ガス車認定基準へのほとんどの車種の適合を実現した一要素である。日産自動車のNVCSなどは同種のシステムである。
1990年代の業界再編期を経た現在は、グループ内各社との共同開発が一般的となっており、小型車用エンジンの新規設計や車種企画ではダイハツ工業の、トラック開発では日野自動車の参画を得ている。燃料電池車やガソリン-電気方式のハイブリッドカーの開発では、部品供給で関係の深かった松下グループと連携し、また、モータースポーツの世界最高峰に位置するF1に参戦するなど、最先端の技術開発・実用化に取り組みんでいるがハイブリッドシステムはともかく、G-BOOK・G-BOOK ALPHAと呼ばれる情報通信システムは、ネットワークの根本思想への無理解がたたってライバルの本田技研工業に大きく出遅れたため、グループ外他社に供与して挽回を図らざるを得ないまでになっている。
北海道士別市に巨大なテストコースを持っており、降雪地帯での乗用車や海外向け商品の開発にも多面的に取り組んでいる。
ただし、最近ではカローラやプリウス、レクサスなどの人気車種に大量リコールが相次いでいる。その要因は、国内外で激化する販売競争を勝ち抜くため、トヨタは部品メーカーとともに、計画的にコスト削減と生産効率化を進めてきたが、その有力な手段の一つが、生産車種ごとに専用部品を開発・使用するのではなく、部品を極力共通化することだった。しかし共通で使った部品に不具合が発生すると回収台数が大幅に増えるという、思わぬ弊害も抱えることになった。また、一部からは設計面でも余裕が無い状況を招いて、結果として大量リコールを多発させる温床を抱えているとの指摘もある。
この影響からか、鳴り物入りで国内に投入した高級車レクサスは当初より目標の半分という深刻な販売不振に陥ると同時に、予定に無かったハイブリッド車を急遽追加発売したものの、ハイブリッドシステム特有の重量に車体が付いていかず乗り心地面で課題が残っているとされる。
1954年に発売された1000ccのSKBトラック(1956年から「トヨエース」と愛称が付いた)は簡素なセミ・キャブオーバー型トラックだが、当時日本国内の市場を席巻していた三輪トラック(オート三輪)へ対抗した商品であり、あえて戦略的に低価格で販売したことで、大きな成功を収めた。これをきっかけに、日本の小型トラック市場は、三輪から四輪に移行することになる。
また、1955年に発売された初代クラウンは、前輪独立懸架や低床シャシーなど、一応ヨーロッパ車並の構成を採った最初の日本製量産車となった。以後クラウンは、国内専用車として独特の発展を遂げ、日本国内の保守的な階層や官公庁用の車両、各種事業用車両としてドメスティックに定着し、2000年代前半からは中国(中華人民共和国)などでも本格生産が開始されている。
1960年代以降は、手堅い保守的設計で排気量やボディサイズにゆとりを持たせ、多くのオプションを用意するという戦略で、競合他社を圧してきた。
1989年(平成元年)に「新しいトヨタが走り始めます」というキャッチコピーでトヨタの新時代・新しいトヨタマークを大々的に宣伝した。
「レクサス」ブランドの成功はメルセデス・ベンツをはじめ、BMW、ジャガーなどの世界の名だたる高級車メーカーに強い衝撃を与え、半ば寡占化状態にあったこのジャンルに VW・日産など、従来大衆車を主力としてきた他メーカーが進出するきっかけを作った。
レクサス・ブランドは日本国内にも展開されることになり、2005年8月30日に日本国内向けレクサス・ブランドとして、GSシリーズ、ISシリーズとSCシリーズの3系列投入で発足した。ISシリーズは1か月遅れの2005年9月28日から発売した。現在のところ高級車ブランドとしてはメルセデス・ベンツ、BMWに次ぐ販売台数を記録している(2006年1月期)ものの、当初目標の半分に留まり他の高級車ブランドからの乗り換え客をいかに増やすかという課題を抱えている。
さらに1960年代後半からは、それぞれの車種がモデルチェンジにより大型化、上級化するに従って、中間モデルを充実させることに力を入れた。すなわち、パブリカ(のちのスターレット)とコロナの中間にはカローラを、コロナとクラウンの中間にはコロナマークII(のちのマークII)を配し、カローラとコロナの中間にカリーナおよびセリカを配した。車種追加により、パブリカをエントリーモデルとし、カローラ、コロナ、マークII、そして最高峰ブランドのクラウンに至るまでのピラミッド型商品展開を完成させたのである。
これは日本的な年功序列や終身雇用といった慣例的制度に支えられ、日本のサラリーマンたちに昇進・昇給が約束されていた時代には、より上位モデルへの買い替えを促すシナリオでもあった。1980年代に用いられたいつかはクラウンというキャッチコピーは、トヨタの販売戦略を端的に表す。一方、販売店系列の整備がすすむと、系列別に同一シャシ・同一ボディでありながら若干意匠を変えた「兄弟車」を投入することで、系列間の競争を促し、さらなる拡販を試みた。
このような商品展開と、顧客の動向を重視する経営姿勢は、60年代、日本のモータリゼーションが始まったころは、技術の日産に対して販売のトヨタと評された。
1997年、「21世紀に間に合いました」というフレーズで世界初の量産ハイブリッド車プリウスを市場に送り出した。業界では時期尚早と見られていた「エコ・カー」を、他に先駆けて成功させた。
また同年発表しヒットモデルとなったハリアーは、高級SUVという新たなジャンルを生むことになり、他社がこぞって追随した。
1999年のヴィッツは、日本で長く衰退状態だったコンパクト・カーが復権するきっかけとなり、後にこのセグメントは大きな市場へと発展する。北米においては、従来苦手としてきた若者向け車種と、かつて経済摩擦を起こした経緯から一時注力を手控えてきた「ピックアップ・トラック」の各分野に置ける拡販を試みている。2002年に若者向け銘柄の「サイオン」をスタートさせ、2006年にはフルサイズ・ピックアップ・トラック市場への本格参入が計画されている。
第一汽車集団と包括提携関係にある。また、2004年9月には広州汽車集団との間でも合弁会社を設立した。
1970年代から1999年まで世界ラリー選手権(WRC)にトヨタ・チーム・ヨーロッパがカローラレビン、スプリンタートレノ、セリカ、スープラで参戦。1975年フィンランド1000湖ラリーで、WRC初制覇に始まり、1993年、1994年には2年連続で、ドライバーとメーカーのダブルタイトルを獲得。
しかし、1995年のWRCカタロニア・ラリーでエンジンの吸気量を制限するリストリクターに細工を施していた違反行為が発覚し、1995年の全ポイント抹消と1996年終了までの出場停止処分を受けた。
そして1997年、重く大きなセリカを捨て、カローラに3S‐Gエンジンを搭載した*がD・オリオールの手によってデビューを飾った。翌1998年、C・サインツがフォードから移籍、開幕戦で優勝を飾り、その後2勝してマニュファクチャラーズランキング2位でシーズンを終える。 翌1999年は優勝こそチャイナラリーのみだったもののコンスタントに入賞を繰り返し、5年ぶり3度目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。しかし、サンレモラリーの直前にTTEはF1参戦を発表、27年にも及ぶ日本最大のマニュファクチャラーのラリーへの挑戦は幕を閉じた。
1983年から始まる全日本耐久選手権(1987年より全日本スポーツプロトタイプカー選手権(JSPC)に改称)にも参戦し、以後、童夢とトムスの共同開発による4気筒ターボの83C(1983年)~88C(1988年)、8気筒ターボの88CV(1988年)~92CV(1992年)を送り込み、1987年からは正式にトヨタチームとして参戦を開始している。
1985年からはル・マン24時間レースにも参戦を始めた。トヨタエンジンを搭載したマシンのルマン参戦としては1975年のシグマMC-75が最初である。メーカーでの参戦は途中不参加の年もあるものの、1999年まで行われている。1985年~1990年まではターボエンジン車で参戦し、1992年~1993年には当時のF1と同じ規定で造られた自然吸気3.5リットル10気筒エンジンを搭載したTS010で参戦し、1992年には2位を獲得している。1994年には92C-Vを改造した94C-Vで出場、しかしポルシェ962CをGTとして改造した、掟破りとも言えるダウアー962GTの前にまたも2位に終わる。1998年から1999年にかけてToyota GT-One(TS020)でル・マンに参戦。圧倒的なマシン性能を有していたが、トラブル続きで最高成績は1999年の2位止まりに終わる。
1992年にスポーツカー世界選手権(SWC)にTS010でフル参戦し、第1戦のモンツァで日本の小河等が優勝した。
1996年からアメリカのチャンピオンシップシリーズ(CART)にエンジンマニュファクチャラーとして参戦し、2002年ドライバーズ、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得し、2003年からは、インディ・レーシング・リーグ(IRL)へ参戦。世界3大レースの一つ「インディ500」を日本メーカーとして初めて制覇。IRLシリーズ参戦初年でドライバーズ、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得した。なおIRLからは2006年末撤退予定を前倒しし、2005年一杯で撤退した。アメリカのストックカー・レースであるNASCARには2000年にセリカでNASCARグッディーズ・ダッシュ・シリーズで初参戦し、2004年にトップ3カテゴリーへ史上初の新マニュファクチャラーとしてタンドラでNASCARクラフツマン・トラック・シリーズに参戦した。そして2007年からはカムリでNASCAR最高峰カテゴリーにあたるネクステル・カップ・シリーズとブッシュ・シリーズへ参戦することを発表している。
またアマチュア向けとして、ヴィッツとアルテッツァのワンメイクレース「ネッツカップ」、ラリー初心者向けのワンメイクラリー「TRDヴィッツチャレンジ」などを開催しているほか、若手ドライバー育成を目的としたジュニア・フォーミュラのシリーズ「フォーミュラ・トヨタ」など、底辺カテゴリーの拡大にも力を入れている。
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戦前( - 1945年)
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→トヨタの主要関連会社・外縁企業・関連団体・関連学校についてはトヨタグループを参照。
この他、販売店ごとにこのようなキャッチフレーズもある。
「TOYOTA」のロゴは1970年代後半から変わらないが、3代目クラウンや2000GTが登場した1967年から1978年まで使われていた「TOYOTA」ロゴは書体が現在の物と異なるゴシック体で、国内では「進歩のマーク」「信頼のマーク」「愛される車をめざして」のキャッチコピー、丸の中に片仮名で「トヨタ」と文字の入ったマークと共に使用され、海外でもカタログなどに使用された。
なお、旧トヨタマークは戦前に一般公募を行い制定されたもの。社章として現在も使われており、一部のトヨタ販売店(特にトヨタ店)では現在も残っていることもある。また、前述の旧TOYOTAロゴが残っている販売店もある。 現在のトヨタマークは1989年10月からで、TOYOTAのTの字と地球を図案化したものである。初代セルシオから採用している。なお、商標権は取得されていない。
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