Saipan-Tinian.png | 世界 > オセアニア > ミクロネシア > 北マリアナ諸島 > テニアン島
100年以上経過した1668年、イエズス会のサンヴィトレス神父等がグアム島に上陸してからチャモロ人の悲劇の歴史が始まる。神父はまず、マゼランによってラドローネス諸島(ラドローネスとはスペイン語で盗賊、泥棒の意)と名づけられた島々をマリアナ諸島(スペイン女王マリア・アナより)と名付け、続いて住民のキリスト教化を強力に推進した。当初布教活動は順調であったが、神父たちが島民の旧習に干渉したため、次第に島民は反感を抱くようになり、1670年1月にサイパン島で伝道師が惨殺され、サンヴィトレス神父もその2年後にグアム島で殺された。それらの事件の報復としてスペインは軍隊を派遣し、島民は虐殺されチャモロ人の人口は1/30まで減少した。
スペインの支配が確立して後、1695年にスペインは島民全員をグアム島に強制移住させたが、18世紀後半にミクロネシアのサタワル環礁から少数の移民が入植している。19世紀の中頃からはスペインにより同島は牛や豚の放牧地となったが、後に放棄されテニアンは野生化した家畜が繁殖するところと化してしまった。
ドイツのサイパン島庁は同島で野生化した家畜を有効利用すべく、ハム工場を建設するが結局失敗に終わり、その後は週一回、サイパンで雇ったハンターを送り込むだけとなった。テニアンで得た牛や豚はサイパン産の牛や豚の三分の一で取引され、島民用の食肉となった。
日本の統治となりテニアンで初めて本格的な開発が行われ、1916年11月には最初の移民である日本人4人とサイパン島民約20人が移住し、森林の伐採と開墾に従事した。同じ頃、テニアンの開発を請け負った丸喜商会はマリアナ諸島北部のパガン島とアグリハン島から種用の椰子の実十万個を買い入れ、椰子の栽培が開始された。
その後1918年2月22日に山形県出身の日本人約100名とサイパン、ロタの両島民約300人がテニアンに移住した。彼らはまず海岸沿いのソンソン地区から内陸のマルポ地区までの間の森林を伐採し連絡道を開通させ、その後森林を開墾し椰子栽培を開始した。しかし、会社の指導法や待遇に不満を持った移民たちは、1918年末にストライキを起こした。結果、ストライキは成功したものの、この時までに30名余りの日本人が島を離れていった。
一方、椰子栽培の方は十万個のうち六万七、八千個を植え付けることに成功したが、1919年の初め頃に害虫(イセリヤカイガラムシ)が大発生し、さらに6月に起こった大干ばつが追い討ちをかけたためにテニアンの農産物は椰子だけでなく島民や移民たちの食糧となるバナナやパンの木に至るまですべて全滅した。その結果、テニアンの開発を請け負っていた喜多合名会社(丸喜商会が1918年に改名)は破産し、日本から来た移民は十数人を残して内地やサイパン島に引き揚げた。
だが、大正末期に新たにテニアンの開発を請け負った南洋興発会社は沖縄や福島、山形などから移民を集い、椰子に代わって砂糖の生産を開始させた。その結果、昭和初期にはテニアンの砂糖の生産量は台湾に次いで東洋第二位の生産量となるまでになった。その他にも同島では鰹漁が栄え、島内には鰹節工場もあった。
1944年6月時点での人口は日本人15700名(軍人を除く)、朝鮮人2700名、チャモロ人26名で、日本からの移民数は元の住民の数を越えた。
米軍はテニアンの戦略的価値の高さに注目し、1944年7月24日に北部のチューロ海岸から上陸、8月2日に同島を占領した(テニアンの戦い)。その後、ハゴイ飛行場は拡張整備され、本格的な日本本土空襲を行う基地となった。
1944年11月以降、連日のように日本に向かうB-29がこの島を離陸していった。1945年8月6日の広島、8月9日の長崎への原爆投下作戦のB-29もここから発進した。