ティワナク (Tiwanaku) またはティアワナコ (Tiahuanaco)とは、南米ボリビア共和国にあるプレ・インカ期の遺跡名、およびその管区と村の地名。また、その時代の社会や文化をさす言葉としても用いられる。 2000年に世界遺産に登録された。入場料は、2006年現在10ドル(80ボリビアーノ)するが、破壊がすさまじく、残念ながらめぼしいものはない。ただし、遺跡に付設する博物館に出土遺物が展示されており、これも入場料に含まれている。
ティワナク遺跡は、現在のボリビア共和国、ラパス県、インガビ郡(Ingavi)、ティワナク管区 (Canton Tiwanaku)に位置する。チチカカ湖沿岸から内陸へ約17kmほど入ったところにある。現在、遺跡は一部復元されているが、そのほとんどが徹底的に壊されており、また風化も激しいため、昔日の面影はほとんど残っていない。
(解説)
この遺跡は宗教的巡礼地であり、普段は人々が住むことのない場所と、しばらくの間、考えらてきた。それは征服者や欧米人にとって、この地域があまりにも自然環境の厳しい土地に映ったからである。標高が4000m近くあり、ほとんどの食用栽培植物は育たない。このような地域では、多くの人口をまかなうだけの食糧の生産もできず、国家レベルの複雑な社会など成立しようがないと長い間思われてきたのである。 しかし、近年の調査によって、この遺跡の周囲にはかなりの住居址が存在していることが確認され、当時は都市的様相を呈していたとが次第に明らかになってきた。また、食糧生産についても、さまざまな研究から、実際にはこの土地はこれまで思われていたほど貧しい土地ではないことがあきらかになっている。
2006年4月現在、発掘および修復作業が進められており、次第に遺跡の様相が明らかにされつつある。
日本では「ティアワナコ」という名称が用いられていた時期もあったが、近年では「ティワナク」の表記に統一されており、本記事では、世界遺産登録名や現地の村役場の正式名称(Municipio de Tiwanaku)なども考慮して「ティワナク」を項目名とした。
観光ツアーを使わない場合の行き方には2通りある。
1)ラパス市内の墓地(セメンテリオ)前バスターミナルから行く場合。 ティワナク直行バスに乗る。このバスだと、ティワナク遺跡や村へ直接入る。 グワキ(Guaqui)行き、あるいはデサグワデーロ(Desaguadero)行きのバスに乗る。この場合、グワキ(Guaqui)とデサグワデーロ(Desaguadero)行きは、ティワナク村まで乗り入れることは少ないため、ティワナク村へ続く幹線道路にある交差点で降りなければならない。そこから村や遺跡までは1km強はある。
2)エル・アルト(El Alto)のチャカルタヤ(Chacaltaya)交差点から行く場合。 この場合、ラパス市内からエル・アルト(El Alto)のチャカルタヤ交差点に向かうバスにまず乗らなければならない。、「オベリスク(Obelisco)発」のセハ(Ceja)経由リオ・セコ(Rio Seco)行きバスが、エル・アルト(El Alto)のチャカルタヤ交差点(Chacaltaya)を必ず通る。ただし、本数は少ない。また、「必ずオベリスク(Obelisco)発」にのる。これ以外の場所からでるリオ・セコ(Rio Seco)行きは、チャカルタヤ(Chacaltaya)交差点を通らない。
このほか、一度セハ(Ceja)まで行き、そこでリオ・セコ(Rio Seco)行きに乗り換えて、チャカルタヤ(Chacaltaya)交差点で降りる方法もある。
チャカルタヤ(Chacaltaya)交差点は、ティワナクやデサグワデーロ(Desaguadero)、バタリャス(Batallas)やコパカバーナ(Copacabana)行きバスの出発地点でもあるため、ほとんど待たずに確実に乗ることができる。ここでも、できればティワナク直行バスに乗るほうがいい。それ以外は、上記のように、遺跡まで1km強は歩くことになる。
ティワナク行きバスの最終便は、日によりまちまちだが、おおよそ夜8時頃までを目安としておけばよい。ティワナク村には外国人向けの綺麗なホテルもある。
ただし、近年、研究者の間で、ティワナク(場合によっては、いくつかのアンデスの先スペイン期社会も含まれる)は旧大陸のいくつかの帝国とは異なり、中央集権的官僚的な権力によって広大な領域を、面的に、恒常的に支配するような性格をもった社会ではなかったという見方が提示されている。この傾向は、特にここ数年、現地ボリビアの研究者の間で唱えられることが多い(例えば、Albarracin-JordanやClaudia Riveraなど)。
領域に関して考古学的に確実にいえるのは、あくまで、ティワナクからの移民が想定される飛び地(モケグワ)の存在と、ティワナク関連遺物の分布が中央-南アンデスにおいて幅広く確認されている、という2点のみである。
よって、右のような版図を描くティワナクの面的な領域図は、今後書き直される可能性が高まっている。このような領域的模式図を書くのは、得てしてアメリカ人研究者に多く見られることも指摘しておく。(かつてはPonceSanginesなどのボリビア人研究者が唱えていた。)
同時代には、現在のペルー共和国にワリと呼ばれる政治組織が存在していたことが確認されている。かつて、このワリはティワナコイデあるいは海岸ティアワナコとよばれていたが、現在ではティワナクとは異なった政治組織および文化であったとされている。その境界はおおよそモケグワ県あたりであったといわれている。モケグワには、ワリの地方遺跡であるセロ・バウルとティワナクの飛び地であるオモ遺跡群がある。これらは、それぞれ立地条件が異なっており、セロ・バウルが山の頂に、オモ遺跡群がモケグワ川の近く谷底周辺に立地する。両者の具体的な関係はわかっていない。
このワリとティワナクが共存する時代を、アンデス考古学の編年で中期ホライズンと呼ぶことがある。
| 紀元前800-200年 | 形成期中期あるいはチリパ後期 |
| 紀元前200-紀元後300年 | 形成期後期1(前半がティワナク1期あるいは形成期1A、後半がティワナク2期あるいは形成期1B) |
| 紀元後300-500年 | 形成期後期2あるいはティワナク3期 |
| 紀元後500-600年 | ティワナク4期前半 |
| 紀元後600-800年 | ティワナク4期後半 |
| 紀元後800-1000年 | ティワナク5期前半 |
| 紀元後1000-1150年前後 | ティワナク5期後半 |
現在の遺跡の多くが1970年代に強引に復元されたものであり、本来の姿ではないことが確認されている。
遺跡の中心部の面積は4.2km²、遺跡中心部におけるかつての人口は10,500-50,000人(Ponce Sanginés 1976(1972):62)と想定されている。また、近年の研究では面積は6km²(Kolata&Mathews 1988 cited in Janusek 1994:64)と見積もられてる。また、周囲には巨大な堀が巡り、建造物の集中する区域とその外部とを隔てていたといわれている。ティワナク遺跡は主に以下の構造物から成り立っている。
遺跡中心部分は、
遺跡は、真北 ( しんぽく) を利用した東西南北にほぼそっているが、わずかにずれている。また、アカパナのピラミッドとカラササヤは平行して建っていない。遺跡の石材は、近くのティワナク山脈から切り出された砂岩を多用しており、その他コパカバーナ方面からもたらされたとされる安山岩なども利用しているところがある。 また、チャチャプーマと呼ばれるプーマの彫像など重要な石像には、オルロ方面からもたらされた黒色玄武岩が利用されている。
以下に、主だった建造物について解説する。
全体的に、ティワナクでは、遺跡の石材は豆腐状に長方形に切り出されたものが多く、その面は見事に平らである。いずれにせよ、今から千年以上前にこれほどの石材の切り出し加工技術が存在し、かつ「鉄を利用せず」に加工されていることには驚かされる。
これら石材の切り出しや加工方法、それに利用された道具については、諸説あるが、確実なことはわかっていない。 ただし、一部では、亜円礫等のハンマーを用いて石材の表面を細かく叩いて平らにする技術(=敲製 ペッキング)が用いられている。この技術は、インカ期にも利用されており、オリャンタイタンボ遺跡などインカ期の石材加工に用いられたことが確認されている。この石材とまったく似た加工痕(石材の表面の敲打痕)を、ティワナク遺跡のいくつかの建造物で確認することができる。これ以外に、石材表面を、何かの媒介物で研磨したと思われる技術が用いられており、敲打痕とはまったく異なった綺麗に研磨された表面を持つ。
こういった加工技術の使い分けが、石材ごとに行われていたり、遺跡ごとに区別されていた形跡は、今のところ確認はされていない。ただし、ティワナク遺跡の破壊や風化はすさまじいため、放棄後から900年近く経た今日、詳細な調査・分析は困難になっている。特に砂岩は風化が激しく、石の表面が層状に剥がれ落ちるため、本来の石材の表面がどのような状態だったか確認するのは困難になってきている。さらに、カラササヤの間違った復元は、建造物ごと或いは場所ごとの石材加工技術の違いについて、その分析をいっそう困難にしている。
残念ながら、新大陸への白人によるすさまじい侵略のため、遺跡の破壊はあまりも激しく(これはティワナクに限ったことではないが)、当時遺跡がどのような状態にあったのか、どのように機能していたのかについては確実なことはわかっていない。遺跡からはがされた石は、村の教会建設に利用されており、広場中央のベンチの石も遺跡か運ばれた石材で作られている。また、村の一般の住居でも遺跡から持ち運ばれた石材が良く見られる。遠く、ラハの町の教会にまで、遺跡からはがされた石材が利用されているという。
ティワナク村の博物館では、土器と石器、石彫、人骨、青銅製品などが展示されている。
1980年代後半からアメリカのシカゴ大学の考古学者アラン・コラータらによって、大々的な調査が行われてきた。現在では、コラータらのプロジェクトは一段落しているが、一部で彼の元生徒で現在はカナダのマクギル大学の考古学の助教授であるDra.Nicloleたちによる発掘が進められている。この調査はティワナク遺跡を囲んだ金網の外の遺跡で行われている。そこでは、地中レーダーを使った調査なども行われている。
また、2004年度からボリビア国内のセメント会社であるビアチャ・セメント (Viacha Cemento)出資で、Unidad Nacional de Arqueologia (UNAR)の 考古学者たちによって発掘が行われており、2009年頃まで継続される予定である。これは、ティワナク遺跡を観光地として大々的に利用する目的で行われている。 発掘の中心はアカパナのピラミッドであり、一部ではあるが階段や石の門などが修復されつつある。
しかしながら、この発掘と修復方法については、ボリビア国内でもかなり批判がある。それは、落石の記録をほとんど取らず、手当たり次第にはめ込んでいっているためである。また、一部では漆喰が残っていたのに、発掘の途中で壊してしまった。
UNARは、ボリビア国内におけるすべての遺跡に関する発掘許可権限を持っており権力が多少なりともある。
このアカパナ遺跡修復プロジェクトに対して、ボリビア国立サン・アンドレス総合大学の考古学者たちから強烈な批判がおこっているが、一向に解決の兆しは見えてない。
( ちなみに、同様な行いは、日本のTBS(スポンサーはCanon)が出資したベニ県の考古学調査でも行われている。この調査は、その目的も曖昧な上、日本側に考古学者が参加していない。参加したものの話では、「とにかく金(きん)を見つけてくれ!」とテレビ局から言われるといった現状で、テレビ向け演出が多く、発掘技術も基本的なことがまったくできておらず、とても科学的発掘調査とは言い難い。また、現地長期にわたり調査を行ってきた外国調査隊からも非常に迷惑だという声が上がっている。それは「墓だ!墓!」と墓さがしを目的としており、まともは発掘記録をとらないからである。外国調査隊や現地ボリビアの考古学者からも非常に迷惑だ!と言われるようないい加減な発掘をCanon出資でテレビ局のTBSを従えて行っている。 だが、同時にこの調査隊は、豊富な資金をUNAR(ボリビア考古局)にばらまき、発掘許可権限をもつ彼らの機嫌をとることで、発掘許可を得ている。そして、現地では迷惑がられている調査について、テレビでは、日本・ボリビア合同調査隊による科学的調査と銘打って堂々と放送してきた。あまりにも恥ずべき日本の愚行である
このほか、アメリカ合衆国、ペンシルバニア大学のアレクセイ・ブラニッチAlexeiBranichが、ボリビア考古局に保管されている19世紀末から20世紀初頭にかけての遺跡の写真、および一部の発掘調査にもとづき、カラササヤやアカパナ、プマ・プンクの復元に取り組んでいる。そこから、ティワナクの建築群が持っていたであろう意味の再構成に取り組もうとしている。ここでも一部地中レーダーを使った調査が行われている。この調査についても、その目的と方法という点で、一部のボリビア人考古学者からは批判がある。
古代のティワナク社会はどのような社会であったのだろうか。ティワナクはしばしば帝国と称されることがあるが、ティワナクが実際にどのような社会であったかについては、研究者の間で意見が分かれている。
最近では、ティワナク社会を「官僚制を伴う国家」とみなすモデルが提案されている(アメリカ人考古学者Alan Kolata 1991:1996 など)。 しかし、考古学的証拠のみから「官僚制」を推測するのは難しいため、反論も多い(アメリカ人考古学者C.Ericksonやカナダ人考古学者D.Grafamなど)。
反論としてあげられているモデルでは、「複雑な地縁・血縁組織(アイリュと呼ばれる)が重層化した社会」とみなすものがある(ボリビア人考古学者 Albarracin-Jordan1996)。
これらの論争は、SukaKolluと呼ばれる堀を伴った盛り畑農耕技術の調査とその解釈が発端であった。
ここ数十年のティティカカ湖沿岸の考古学は、主にそのサブシステンスの研究 (国家による生産物の流通・管理・分配などポリティカル名部分さえも含む広い意味での生業・生計研究) に比重が置かれてきた。1990年代にはいり、さらに異なるテーマからの研究も行われているが、ティワナク研究でも長い間、生業研究に比重が置かれていた。そこで、着目されたのが、アイマラ語でSukaKollu(スカ・コリュ、ケチュア語でワル・ワル、英語でレイズドフィールド、スペイン語でカメリョーネス)と呼ばれる堀を伴った盛り畑農耕であった(詳細は後述)。現代では放棄されたこの盛り畑農耕に対して、1980年代初頭から復元実験を始め、その単位面積あたりの生産性の高さが注目されていた時期でもあった。
この盛り畑耕法が、ティワナク政体により直接管理されていたのか、それとも、ローカルな地元農民たち自身の手で管理され実践されていたのか、という遺構に対する高次元の解釈への過程から、論争は生じ、1980年代後半から2000年ころまで続いた。
先にあげたアラン・コラータの官僚モデルではティワナクによるSukaKolluの直接的な管理運営を主張する(Kolata 1986) 。ティワナク遺跡のあるティワナク谷のとなりにあるカタリ盆地に広がるSukaKollu やそれに付随する長さ20kmほどの河床を人工的に改変した水利施設は、ティワナク政体の中央から技官が派遣されて作られたものであると言う(Kolata 1991)。その証拠に、カタリ盆地とティワナク谷の水利施設は似たような構造になっていると主張する(前掲書)。また、SukaKolluの畝やSukaKolluが放棄された後に畝を覆った埋土から得た炭化物を放射性炭素年代測定にかけ、SukaKolluがティワナク期に利用されていることを示した(Kolata 1993; 1996) 。
これに対し、クラーク・エリクソンは、SukaKolluやそれに付随する水利施設、堤防などを、短絡的に国家による管理に結びつける解釈に疑問を呈し、これらはペルー領での実験によっても数家族で運営が可能であることが確認されており、国家による管理は必要なかったと述べている(Erickson 1988)。そして、SukaKolluや水利施設などは地元民によって管理運営されていたと主張する(前掲書)。さらに、コラータの非常に生産力重視でかつ大規模土木建築重視の理論に対して、ネオ・灌漑理論として批判している(Erickson 1993)。
コラータの調査チームに参加していたボリビア人考古学者のアルバラシン-ホルダンは、ティワナク谷下流域における遺跡登録のための踏査(セトルメント・パターン調査)を行い、その遺跡の分布状況を解釈するにあたり、スペイン人の書き記したアイリュに関する記録文書を利用した。そして、このアイリュがより複雑に重層化したのがティワナク社会だったと主張する。その上で、これらアイリュなどの手によってSukaKolluや水利施設などは管理されていたと述べている(Albarracin-Jordan1996)。
しかし、両者とも、決定的な考古学的証拠を挙げることができないため、議論は堂々巡りになっている。
最近になり、これらの二項対立的な論争を昇華しようという動きがあるものの、耕作の管理形態という問題は、考古学的証拠から直接アプローチできないため、最終的な結論には至らないまま論争は収束していった。
現在では、この論争は、ティワナクの崩壊という問題へ形を変えて継続している。
アラン・コラータは、気候変動による乾燥化でSukaKolluの生産性が落ち、それがティワナク社会崩壊の引き金になったと論じる( Kolata 1991; 1996) 。
それに対して、クラーク・エリクソンは、新環境決定論として反論している (Erickson 1999) 。
コラータらの調査に参加していた、ボリビア人考古学者のアラバラシン-ホルダンは、ティワナク社会が崩壊した後も、小規模にはなったもののSukaKolluが利用されていたことをあげ、気候変動によるティワナクの崩壊について、疑問視している。
さらに、アラン・コラータの生徒であったポール・ゴールドスタイン(Paul Goldstein)も、自身の調査地であるペルーのオモ遺跡群およびモケグワ川周辺のエル・ニーニョ関連の調査から、気候の変化による乾燥化がティワナク崩壊の原因ではなく、エリクソンの述べる社会内部の不安定が遠因とする説に賛同すると述べている(Magiligan and Goldstein 2001)。ゴールドスタインによれば、コラータの述べる乾燥化による農耕システムの崩壊がモケグワ谷では見られなかったとのべている。事実、A.D.1300年頃に起こった大規模なエル・ニーニョによる洪水は、モケグワ川におけるティワナク関連遺跡の放棄時期の後に起こっているという。
このように、現在でもティワナク社会の崩壊原因については論争が行われている。
さらにこの問題は、これまでとまったく異なった面から問われても始めている。20年間にわたって研究されてきた、ティティカカ湖沿岸の生業研究の一つの成果であるスカ・コリュ(SukaKollu)の生産性が疑われ、これまで喧伝されてきたスカ・コリュ(盛り畑)農耕の持つ効率性や生産性の高さに対してまでも、疑問視され始めている( Swartley 2000;Bandy 2004) 。
Swartleyによると、SukaKolluという耕作技術そのものが、考古学者によって発明された先住民の知恵(Inventing Indigenous Knowledge)であるという。ティワナク期に、どのような社会環境の中で利用されていたのかは実際にはわかりえず、これらの利用に対する解釈と実験はすべて考古学者によって発案され、先住民の知恵として喧伝されてきたという。
また、Bandyは、SukaKolluと雨水に頼る一般的な天水農耕とのエネルギー面からの効率性を検証し、SukaKolluの効率性が実は一般の天水農耕よりも悪いと論じている。
こうなると、SukaKolluをティワナク社会の重要な生業基盤とした前提の元で行われていた上記の議論がすべて崩れ始める。
特に、生態学的環境に厳しいアルティプラーノにおいて、なぜティワナク社会は生じたのか、という問題にもかかわってくる。 これまでコラータは、スカ・コリュという冷害にも強く単位面積あたりの収穫高が高い耕作技術があったからアルティプラーノでも確固たる食料基盤を確保できた、集約的な労働力を必要とする生産技術 (スカ・コリュや水利施設) があったため管理する官僚制の発達を促した、ということを理由に、生態学的環境から見て非常に厳しいアルティプラーノでも、ティワナクのような国家レベルの社会が成立できたとしてきた(Kolata 1991; 1996) 。しかし、もしティワナク期におけるスカ・コリュの重要性が相対的に低下してしまうと、この理論は成立しなくなってしまう。ちなみに、このコラータの理論については、すでにエリクソンからネオ・灌漑モデルとして批判されている(Erickson 1993 。さらには、ティワナク社会の崩壊原因としての、乾燥化によるスカ・コリュの機能不全というコラータモデルも再検討が必要となってくる。
結局、高次元の解釈を進める上で有効な考古学データを見つけることがほとんど不可能なことが、問題を複雑にしている。一般住居址の発掘調査も行われてはいるが、そこから耕作地の管理形態や生産物の吸い上げなどについて構築するためのデータを得るのは、かなり難しい。どうしても恣意的な推測が入り込んでしまう余地が残されている。 ただし、一般住居址の発掘調査からは、ティワナク社会においても階層差があったのではないかという証拠が挙げられている。遺跡の中心部近くの住居址や特定住居址では、他の地区では見られない、金箔や他の金属製品、精製土器などが出土している。このようにコンテクストごとで、物質文化において、若干の差が見られることはわかっている。
また、ティワナク谷全体や隣のカタリ盆地 (パンパ・コアニ) に分布する諸遺跡は、調査者によるとそれぞれ規模がかなり異なり、階層差が見られるという。ただし、その階層の解釈の仕方を巡って、ことなるティワナクモデルが提案されるのである。コラータはティワナク中央とそれに続く二次、三次センターを想定しやや統合的な社会を想定しているのに対し、アルバラシン・ホルダンは規模が異なるアイリュの重層化の表れと解釈している。
最終的に問題なのは、古代の「帝国」「国家」などの概念が研究者の間で一致が見られていないことにある。このように各々の頭の中で描く「国家」像が研究者によって違うことが、より議論を複雑にしている。 さらに、国家を示す考古学的な指標として世界的にもよく挙げられる、物資を集積するための倉庫や、権威や情報を伝達するための「王道」、権力者の存在を示す王墓などの強い証拠は、ティワナク文化においてはほとんど見当たらない。そのため、厳密に論じるならば、ティワナクが「国家」レベルの複雑化した社会であったことすら現段階では論じることは難しいといってもよい状況にある。
ティワナクは、ボリビアのコチャバンバやペルーのモケグワに飛び地を持っていたと言われている。しかし、それら飛び地との関係はあまりわかっていない。ティワナク遺跡のある中核地帯と地方のティワナク関連遺跡との関係について、現在では、ティワナクからの移民による直接的な統治ではなく、むしろ地方の地元豪族がティワナクの物質文化などを利用して地元に権力を行使していたとされる説が強い。
しかし、地域ごとにティワナクの影響は異なっており、モケグアにおいては、人骨の分析などからティワナクからの直接移民があったことが確認されている。しかしながら、チリのアタカマ地方にあるティワナク関連遺跡の人々は、ティワナクからの直接的移民ではなかったであろうと言われている。
ティワナク遺跡があある同地には、現在アイマラ族と呼ばれる人々が住んでいる。しかし、アイマラ族とティワナク文化を担った人たちとの関係は、科学的にはまだ証明されていない。ティワナク社会を担っていた人々については、アイマラ説、ウル-プキーナ語族説など様々な説があるが、確定されていない。
近年、ウイルス学や分子遺伝学の研究がすすみ、ティワナク期の人骨の分析が行われている。日本もこの調査に参加している。
日本の愛知県がんセンター研究所疫学部の田島和夫教授を代表とする、科学研究費補助金(国際学術研究)(研究課題番号 07041171,09041195)に基づく、「南米先住民族の人類遺伝学的研究(Anthropo-genetics on Paleo-mongoloid in South America)」が平成7年度から10年度にかけて行われた。
園田俊郎、田島和雄、故宝来聡らは、チリのアタカマ砂漠出土のミイラ(ティワナク期)からヒトβグロビン遺伝子、およびHTLV-I(ヒトT細胞好性白血病ウイルス)遺伝子(pX領域の158bp)の抽出に成功している。両遺伝子についてはクローニングすることで、塩基配列を決定し、ヒトβグロビン遺伝子についてはまったく変位が見られず、HTLV-IのプロウイルスpX領域158bpの遺伝子では現存する先住民で2つの型(日本人型と1塩基の変異型)に大別され、ミイラのそれは日本人のウイルスと同型であった、という(園田 他 1999:17)(科学研究費補助金研究成果報告書 所収)。さらにミイラの骨組織から採取したミトコンドリア遺伝子の塩基配列から現存する先住民族とミイラが類似した分布様式を示すことを明らかにした。
また、日本におけるミトコンドリアDNAの第一人者であった総合研究大学院大学の故宝来聡助教授やチリの人類学者ルイス・カルティエールらが、日本本土や沖縄、アイヌ、他のアジア諸国のDNA、および、南米先住民(チリ、ボリビア、コロンビア、ブラジルなどに現存する6部族178人)、ティワナク期のミイラの骨標本56体分について、DNAの分析を行っている。
特に、南米の先住民および古代人骨の合計234人分の420bpの塩基配列を比較したところ、77の異なるタイプが見られた。現存する先住民における集団間の塩基配列の偏位は相対的に大きくなるが、ミイラ間ではその隔たりが極めて小さくなるという。これら集団間の系統樹分析によると、ミイラの場合、4個の単系統クラスターに分類されるが、大別すると南ペルー群と北チリ群に二分される(宝来 他1999:29)(前掲書 所収)。
チリのアタカマ砂漠出土標本(ティワナク期)から採取したDNAは、現在のアイマラ先住民に系統的には最も近く、ペルーのティワナク関連人骨では現存するケチュアに近く、チリ出土のティワナク関連人骨は、チリ出土のインカ関連人骨サンプルのDNAに近いという結果が出ている。
また、チリの研究者Francisco Rothhammerによれば、ボリビアのティワナクから出土した18体のサンプルのうち、これらのミトコンドリアDNAは13のタイプにわかれ、それらを現存するアイマラやケチュア、アマゾン地域のDNAと比較したところ、アイマラはアタカマに近く、ティワナクはアマゾン地域の先住民のDNAに近いという。ティワナク人骨のDNAは、系統樹によれば、アイマラとはやや離れており、むしろケチュアに近いという(Rothammer et al. 2003)。 ただし、これについては、研究者自身が、そのサンプル数が少ないことにも触れている。
考古学的に見れば、アタカマ砂漠の人骨が果たして、ボリビアのティワナクそのものに住んでいた民族集団と同じ系統かどうかは疑問が残っているが(DNA研究でもアタカマとボリビア・ティワナクでは系統樹から見ればやや離れている)、その問題に迫る非常に重要な結果となっている。
考古学的遺物の様式や分布から、ティワナクは一集団による政治体制ではなく、複数の民族集団による政治体制であったとするモデルもあるが、ウイルス学や遺伝学からの結果は、それを裏付ける形となっている。
ただし、注意しなければならないのは、必ずしも遺伝的・形質的形態と文化(考古学的な物質文化)は、同じではないということである。ある文化を共有する集団内部でも、周囲の集団との(一部における)通婚をとおして、遺伝的・形質的差異が生じうることも考慮しなければならない。日本人でも、遺伝的・形質的差異が地域ごとにかなり異なっているというのが、よい例である。
ティワナクと現在の村とのつながりは、実は、遺跡の観光事業だけではない。忘れてならないのが、SukaKollu (スカ・コリュ)(水路用の堀で囲まれた盛り畑農耕)の復元実験と、その応用である。応用への試みは、ほとんどが失敗に終わったものの、それでもなお細々と続けられている。現代では失われてしまった古代の技術のうち、現代の開発問題へ応用できるものは積極的に応用してゆこうといったその方向性は、認めるものがある。専門的にはこれを応用考古学という。
1980年代後半、ティワナク時代の生業技術の中心として有望視されていた農耕技術の復元実験がボリビアで行われた。実は、これに先立ち、ペルー領のチチカカ湖北部沿岸などで、すでに同様の実験が行われており、そこで一定の成果を挙げていた。ボリビアでは、1980年代後半になって行われる。これらチチカカ湖の南北沿岸で行われた復元実験から、このSuka Kolluは、一般の天水農耕よりも生産性が高いことが示唆された。
この実験で復元された畑は、畑を水路用の堀でかこみ、畝の部分を盛り上げたもので、アイマラ語でSukaKollu (スカ・コリュ) 、ケチュア語でWaru Waru (ワル・ワル) 、スペイン語でCamellones (カメリョーネス) 、英語でRaised Field (レイズド・フィールド) と呼ばれる。そして、1970年代から80年代まで続く先住民文化称揚運動とあいまって、復元実験は、ティワナク周辺地域から、コパカバーナ(Copacabana)、ビアチャ(Viacha)といった広範囲で行われた。そして、この復元実験で得た高い生産性が着目され、この技術を現代へも応用することで、貧しい村々の農業生産を高めようとするプロジェクトが始まった。
短期的な視点に立てば、これらの実験はほぼ成功に終わった。つまり、一般に現地で行われている天水農耕に比べ、単位面積あたりの生産性がはるかに高かったのである。天水農耕に比べおよそ3倍以上、生産性が高い地域もあった。さらに、冷害に非常に強いことも確認されている。 この結果をもとに、SukaKolluの開発問題への応用が始まった。その後、外国のNGOなどの援助のもと、広範囲にわたって応用が行われていった。
しかし、長期的視点に立てばこの実験は失敗に終わってしまう。1996年までに、ペルー領の実験もふくめて、全て放棄されてしまうのである。現在では、遺跡の周囲に実験の跡が残っているのみで、ティワナク村では、実際には利用されていない。原因は、年々生産性が減少して行ったため農民たちの関心が薄れていったこと、労働力が思ったよりも必要になりかつ協同労働でなければうまくSukaKolluの運営ができないこと、いくつかの地域では水が圧倒的に足りないことなどがあげられる。
もともとラ・パスに2,3時間で行ける範囲(例えばビアチャ近郊のの共同体)では、男たちは賃金労働に従事することが多く、農村には女子供が残って農作業を行うことが多い。しかし、初期の実験では、これら女子供に対して、力作業である伝統的な踏み鋤による耕作を導入したためうまくいかなかったという例もある。また、一番大きな原因は、SukaKolluに必要な労働投下量である。これが一般的な天水農耕に比べはるかに高く、そしてそれが地域全体による協同労働のもとで行う必要があった。しかし、現代の小規模家族経営に近い農民たちにとっては、これが負担になり、結果としてSukaKolluの維持が困難になっていった。
それでも、いったん放棄された応用実験も、小規模になったものの2000年ころから再び復活する。現在までのところ、Programa de SukaKollu(PROSUKO)という団体によって、2008年までの応用実験が行われている。特に、農民たちによる自立的経営、および生産物の市場経済への組み込みを主な目的として行われている。そのため、PROSUKOは、SukaKollu自体の運営へはほとんど関与せず、農民たちの自立的組織 Unión de Asociaciones Productivas del Altiplano ( UNAPA ) によって管理するように仕向けられている。現在、ティワナクの隣のアチュタ・グランデ(Achuta Grande)共同体や隣のカタリ(Catari)盆地にあるワクリャニ(Wakullani)共同体、プエルト・ペレス(Puerto Perez)、バタリャス(Batallas)地域の周辺共同体などで見ることができる。
アチュタ・グランデやワクリャニ共同体はティワナク期にもSukaKolluが利用されており(地下水位が高く河川沿い、あるいは湿地帯のため水の潤沢な供給が可能)、また、このほかの地域も比較的、水の供給が可能な地域であることも、これらの地域が復元実験に選定された理由である。
このほか、アチャカチ (Achacachi)の軍事施設(河川沿い)でも軍事教育の一環として行われている。
ちなみに、長期的視点からみた実験の失敗から、2000年以降になると、SukaKolluの生産性について、考古学者の間で異論が出始めている。ティワナク期に利用されたことは間違いないが、その生産性や人口支持能力、ティワナク社会における生業基盤としての重要性などについては、疑問視する声が出始めている。
過去の実験では、塊茎類の連作障害への考古学者や人類学者らの知識が不足しており、同じ土壌でジャガイモの連作を続けたため、寄生虫(シストセンチュウ)(Nematoda)が沸くという事態を引き起こしている。そのため、年々、生産性が減少していった。 アンデスでは、必ずといっていいほど、どこの地域でも輪作・休閑システムが採用されており、塊茎類(ジャガイモ)を続けて栽培することはない。必ず次年度は別の作物を植えつけるか休閑を行う。これは土壌の地力回復というよりもむしろ寄生虫などによって引き起こされる連作障害を避けるためであることが確認されている。
また、チチカカ湖沿岸の表面調査(ペルー領およびボリビア領)から、このSukaKolluが、チチカカ湖沿岸の湿地帯か、そこから延びる河川沿いの一部、水源地帯などにしか広がってはいなかったことが確認されている。そのため、実際には、天水農耕がティワナク期においても現代と同じように中心的技術であったことが確認されている。さらに、ティワナク谷下流域では、テラス(段々畑)が比較的広がっており、またコチャと呼ばれるため池農耕なども存在していたことが確認されている。
本来、SukaKolluのような、堀をめぐらせた盛り畑農耕は、パプア・ニューギニアやメキシコなど世界的に見ても、湿地帯向けの耕作技術である。ボリビア国内においてさえ、似たような堀を持つ耕作方法は、アマゾン地域の湿地帯モホスなどで多く見られる。堀の役目は給水よりもむしろ排水である。
しかし、ティワナク谷は一部を除いてほとんどの地区で水が不足しがちである。短期の実験ではあまり問題にはならなかった水の問題も、長期あるいは永続的な利用となると水源が足りず、水不足を引き起こしている。 ティワナク谷は全体でおよそ560から575km²あるが、SukaKolluに利用されたと想定されている面積は、現在失われたものを想定して約60km²ほどとされている。同時に、ティティカカ湖沿岸の湿地帯であるカタリ盆地では、調査者が踏査した総面積102km²中、SukaKolluは70km²に広がっていたと想定されている。このことは、この技術が湿地帯向け技術であることを示している。
また、上記でも述べたように、SukaKolluの運営における効率性の面からも問題があげられている。つまり、単位面積あたりの生産性は高いものの、労働力の投入が、一般に行われている天水農耕の4倍近く必要とされるため(労働集約的技術)、結果的に、一人当たりの見返り(労働者あたり)が、極端に低くなる(単純計算で、一般的天水農耕の約半分以下)というデータ(ただし、あくまで計算上の数値)もある。
このような経緯から、この研究を指導してきた考古学者が主張するSukaKolluの効率性や、算定したSukaKolluによる人口支持力の計算値 ( SukaKolluで何人の人口を養えるか ) に対して、人類学者や考古学者の間で疑問視されはじめている( Swartley 2000; Bandy 2004; Nakajima 2004 )。
しかし、現在ではこれらの問題点を克服するため、トラクターを導入したり、化学肥料を使ったり、繁殖力の強い種芋を購入したるするなどして、労働投下量の縮減と単位面積あたりの生産性の向上につとめている。
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