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チャコ戦争 (チャコせんそう、スペイン語:Guerra del Chaco) とは、1932年から1938年にかけてボリビアパラグアイの間で行なわれた戦争

1879年太平洋戦争に負けて海への出口を失っていたボリビアは、パラグアイ川を独占的に使って大西洋側への自由なアクセスを得たいと願っていた。一方、パラグアイは1870年に終結したパラグアイ戦争(三国同盟戦争)による壊滅的な被害からようやく立ち直りつつあり、領土拡大を欲するようになっていた。

そのような中、アンデス山脈の麓で石油がとれることがわかり、ボリビア南東部のチャコ地方(グランチャコ)に大量の石油が埋蔵されているという仮説が立てられた。この利権は、敗戦からの立ち直りのために双方とも是が非でも必要なものであり、ついに両国の間に戦争が起こった。当時パラグアイ政府はロイヤル・ダッチ・シェル社と結びついており、ボリビア政府はスタンダード・オイル社と結びついていたことより、石油メジャーの代理戦争とも言われた。

Disputed_Bolivia_Paraguay_jp.jpg ボリビアは戦争の参謀として第一次世界大戦で活躍したドイツ人将校を起用していた。一方、パラグアイ軍はロシア帝国の軍人に参謀を依頼した。兵員数では25万人対15万人と、ボリビア軍のほうがパラグアイ軍をだいぶ上回っていた。さらに、ボリビアは戦車を導入するなど、近代的な軍を持っていたのに対し、パラグアイ軍の戦い方はゲリラのような、前近代的な点が多かった。

しかし戦争結果はパラグアイの圧勝であった。開戦当初、ボリビア軍はチャコ地方の南端まで一気に進んだが、それ以降はじりじりと後退を続けることになった。ボリビア側からの進攻は灼熱の乾燥地帯を戦車で突っ切らなければいけなかったのに対し、パラグアイ側からは川を利用して有利に進むことができたことが影響した。また、チャコ地方に古くから暮らしているグアラニー族の人々は、パラグアイに帰属している人のほうが多く、土地勘などの面でもパラグアイに優位性があった。ボリビア軍には、チャコ地方とは気候風土が全く違うアンデス地域の人たちが多くいた。

実質的には1935から36年頃には戦争が終結していたが、1938年のブエノスアイレス講和条約で正式に終結した。

チャコ地方は高温で水の乏しい地域であり、戦闘は過酷なものであった。両軍は敵との戦いとともに、マラリア等の病気とも闘わなければならなかった。ボリビア側には5万人から6万人、パラグアイ側には4万人の死者が出たとも言われている。当時のボリビアの人口はおよそ300万人とされているので、実に国民50人に1人がこの戦争で命を失ったことになる。

結局、チャコ地方で石油は現在まで発見されていない。ボリビアが死守した、アンデス山脈に近いカミリ地方では若干ながら石油の採掘が現在でも行なわれている。

ブエノスアイレス講和条約


1938年、ボリビアとパラグアイの間で結ばれた条約アルゼンチンブラジルチリコロンビアペルーアメリカ合衆国が中立の立場として仲介した。この結果、チャコ地方はパラグアイに帰属することが決まった。

国境線はほぼパラグアイの主張通りに決定されたが、ボリビアはパラグアイ川につながる小さな領土(プエルト・ブッシュ)を獲得している。ボリビアの地図をよく見ると東側に小さく飛び出した部分があるが、これがその領土である。この領土とパラグアイ川を使ってボリビアは大西洋への水路を得たのであるが、現在はこの水路による流通はあまり重要なものとはなっていない。

この講和に力を尽くしたアルゼンチンの政治家、カルロス・サアベドラ・ラマス (Carlos Saavedra Lamas) は、1936年のノーベル平和賞受賞者となっている。

ボリビアの歴史 | パラグアイの歴史 | 条約 | 戦争

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