article

スッピルリウマ1世Suppiluliuma I、在位:紀元前1370年頃 - 紀元前1336年頃)は、ヒッタイト。ヒッタイトの政治混乱を収め、大国としての礎を築いた。

来歴


ハットゥシリ2世の息子として生まれた。即位すると国内の政治混乱を収めるとともに、周辺の小国を併合して弱体化していたヒッタイトの復興を図った。一方東に隣接するフルリ人の大国ミタンニの王アルタタマと条約を結んで東方の国境線を定めた。

ミタンニ攻略

アルタタマが死去すると、ミタンニでは新たにトゥシュラッタが王となった。スッピルリウマ1世はこれに乗じてミタンニを攻撃したが失敗した。

この後スッピルリウマ1世は隣接する小国群を傘下に納めるとともに、婚姻外交によってバビロン第3王朝カッシート朝)と同盟を結んでミタンニに圧力をかけた。そして改めてミタンニを攻撃するべくフルリ人の国家イシュワを攻略し、更にミタンニの首都ワシュカンニを目指した。

ミタンニ王トゥシュラッタは戦わずして逃亡したが、その後息子に殺された(トゥシュラッタを殺した息子の名は知られていない)。スッピルリウマ1世はこれに乗じてミタンニの新王としてマッティワザを擁立し、自分の娘と結婚させてミタンニに影響力を確保した。

更にミタンニ領であったアレッポ市やカルケミシュ市を攻略し、息子のテレピヌをアレッポ王に、別の息子ピヤシリをカルケミシュ王に封じて国内を固めた。

対エジプト政策

シリア地方は伝統的にエジプト歴代王朝の宗主権の下に置かれており、当時はエジプト第18王朝が影響力を行使していた。ヒッタイトとエジプトの国境地帯に存在したアムル王国もエジプトに従属する国家の1つであった。エジプト王アメンホテプ4世(アクエンアテン)の生前、国境はオロンテス川以南とアムル王国までをエジプトの影響下とすることでまとまっていた。当時のアムル王アジルは親エジプトの姿勢を当初は示していたが、エジプトでアメンホテプ4世(アクエンアテン)が宗教改革などのため内政重視の姿勢を取っていたのを好機としてスッピルリウマ1世はアムル王国に圧力をかけ、アジル王に対しヒッタイトの宗主権を認めさせることに成功した。

また、アメンホテプ4世の死後、スッピルリウマ1世の下に王子ザンナンザとエジプト王アメンホテプ4世の王妃であり寡婦となったダムハンズとの縁談が持ち込まれ、話をまとめてザンナンザをエジプトへ派遣したが、その途上でエジプトの将軍ホルエムヘブ(後にエジプトで王位を簒奪する)によってザンナンザは暗殺された。

※(ダムハンズは恐らく王妃を意味するエジプトの称号。ヒッタイト側では名前であると誤認したらしく本名として扱われている。ダムハンズの正体については、アメンホテプ4世の王妃ネフェルティティとする説の他に、ツタンカーメン(トゥトゥアンクアメン)の王妃アンケセナーメンであってこの縁談が持ち上がったのはツタンカーメン死後のことであるとする説もあり、双方とも有力で支持者がおりはっきりしない。)

王子ザンナンザの死に激怒したスッピルリウマ1世は、エジプト侵攻を決意し、王子アルヌワンダ2世に命じてエジプト領アムカを攻撃させ、これを征服した。

疫病

しかし、対エジプト戦の最中、ヒッタイトで疫病が発生した。この疫病は大規模であり当時病気治癒を祈る祈祷書が多数ヒッタイトで作成されたが、疫病は貴族、王族の間にまで広まり、スッピルリウマ1世は病に倒れた。間もなくスッピルリウマ1世は病死した。死後、息子のアルヌワンダ2世が即位したが、彼も間もなく同じ疫病によって病死した。そして別の息子ムルシリ2世が即位した。

ヒッタイト帝国

Suppiluliuma I. | Suppiluliuma I | Suppiluliuma Ier | Suppiluliuma I | Suppiluliuma I | 苏庇路里乌玛一世

 

This article is licensed under the GNU Free Documentation License. It uses material from the "スッピルリウマ1世".

Home Pageartsbusinesscomputersgameshealthhospitalshomekids & teensnewsphysiciansrecreationreferenceregionalscienceshoppingsocietysportsworld