ジャチント・シェルシ(Giacinto Scelsi, 1905年1月8日 - 1988年8月9日)は、イタリアの現代音楽の作曲家。
40年代はヴァルター・クラインに師事してイタリア初の12音技法の作品を残したが、あまりに自己の語法とかけ離れた音列の操作のため精神的な病を得て療養生活を送った。その後「一つの音を聞き込む」作曲法へ鉱脈を見出してからは、アルド・クレメンティをはじめ多数のアシスタントを迎えて創作活動へ復帰した。全曲に渡って一つの音の倍音成分の変化や、近接する周波数によって発するうなりを聞き込む作品が圧倒的に多くなるのは、1950年代を迎えてからのことである。結構なハイペースでピアノ作品を書き倒した彼は、その後ピアノ独奏作品とは2、3の例外を除いて袂を別つ。
シェルシが1970年代にその創作のピークを迎えていた頃、彼のもとに二人のフランス人の若き作曲家が訪れる。ジェラール・グリゼーとトリスタン・ミュライユの二人である。共にパリ音楽院でオリヴィエ・メシアンに作曲を学び、ローマ大賞を相次いで獲得してローマのメディチ荘にやってきた。ここでシェルシと出会った彼らは、シェルシの一音を聞き込むという作風に強い影響を受ける。そして彼らは倍音を分析して音色の推移にこだわる作曲理論を展開し、現在のフランスの現代音楽の主要な潮流であるスペクトル楽派と呼ばれる作風へと発展させた。つまりシェルシは、スペクトル音楽のプロトタイプを創造したことになる。
この時代はフランチェス・マリエ・ウィッティ、フェルナンド・グリロ、ポール・ズーコフスキー、イヴァ・ミカショフ、フレデリック・ジェフスキーなどの演奏家にも恵まれ、「魔法の河」、「PFHAT」などの最高傑作の部類に属す作品を、驚異的なペースで残していた。
貴族の末裔であり財産に恵まれたため、作曲以外の仕事はほとんどせず趣味人的作曲活動をマイペースで行い、多数のアシスタントを擁していた。そのためイタリア国外に彼の作品が知られるようになったのは1980年代に入ってからである。
最晩年にダルムシュタット夏季現代音楽講習会で彼の音楽が紹介され、はじめてその音楽のオリジナリティが世界的に認知されたといえる。このような時流とハリー・ハルプライヒの尽力で大オーケストラの作品が次々と初演および蘇演が行われたが、もうその頃にはシェルシは創作意欲が衰えており「山羊座の歌」のようなライフワークもついに未完成となった。
この時期に書かれたフルートとピアノの為の「クリシュナとラーダ」では、遂に同音固執のうなりから離れ、フルートの典雅なメロディーにピアノが淡く伴奏するだけの侘び寂びの境地に達していたことを思うと、シェルシの創作人生は50年代に書かれた「一つの音の為の習作」を核とした巨大なカーヴを描いていたともいえよう。
Giacinto Scelsi | Giacinto Scelsi | Giacinto Scelsi | Giacinto Scelsi | Giacinto Scelsi | Giacinto Scelsi | Giacinto Scelsi | Giacinto Scelsi
This article is licensed under the GNU Free Documentation License.
It uses material from the
"ジャチント・シェルシ".
Home Page • arts • business • computers • games • health • hospitals • home • kids & teens • news • physicians • recreation• reference • regional • science • shopping • society • sports • world