キリスト教(基督教、―きょう)は、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従う伝統的宗教。
日本の信者も多い。
キリスト教徒の信者数は、1993年の集計で約21億人(うち、カトリック10億人、プロテスタント諸派計5億人、東方正教会2.4億人、その他教派2.75億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人をはるかに越えて、世界で最大の信者を擁する宗教である。
もっとも日本国内に限れば、信徒数は約200万人であり、神道約10,600万人・仏教約9,600万人と比すと少数派に留まる。(なお、この数値は各宗教の届け出数であり、合計すると日本の人口を遥かに超えてしまう点に留意。日本人は複数宗教を信じていることとなる)。
また教派とはいえないが、信仰形態に着目した分類として、とくに次の区分を用いることがある。
紀元後1世紀から遅くとも2世紀末までに成立したとされる「新約聖書」(神の「新しい契約」の意。ギリシャ語聖書とも言う)だけでなく、(新約聖書の基礎として)ユダヤ教の聖典でもあるヘブライ語聖書も旧約聖書(神の「旧い契約」の意。)として教典とする。
キリスト教でいう旧約聖書の範囲は、教派によって異なる。
また、新約聖書の諸文書の位置付けも、わずかではあるが他と異なる教団もある。これらの分類(正典化)は古代末期に成立した。伝承では新約聖書は1世紀末までにイエスの直弟子(使徒)とその追随者たちによって書かれたが、近代以降、いくつかの文書は彼らに仮託され、2世紀末までに成立したと考えられている。
キリスト教の根本教義をまとめたものを信条(信経)という。もっとも重要なものとして、現在のキリスト教のほとんどの教派が共有するニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年に成立)と、それとほぼ同じ内容を含むがやや簡略で、西方教会で広く用いられる使徒信条(成立時期不明。2世紀から4世紀頃か)がある。信条は教会内に存在した異端を否定するために成立し、現在も洗礼式や礼拝で信仰告白のために用いられる。以下、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の構成に沿って、キリスト教の基本教義を示す。
またこれに加えキリストの死(ないし犠牲)を記憶することも信者の重要な義務である。これは礼拝においてパンとぶどう酒をもちいてなされる。プロテスタント以前に成立した教会では、パンとぶどう酒が祈りによりキリストの体と血(聖体)に変化すると信じる。カトリックでいうミサ、東方正教会でいう聖体礼儀はこの記憶を行うための礼拝である。教義を異にし聖体の概念を否定するプロテスタントでも、類似の儀式を行う。これを聖餐という。キリスト教最大の祭である復活祭は、この聖餐をキリストが復活したと信じられる日に行うもので、毎年春に行われる。
教義には教派ごとに若干の変異がみられる。たとえばアルメニア正教会などの単性論教会は、キリストの人性は神性に融合されたとする。ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタントなどの西方教会は、聖霊を「父と子から発し」とし、東方の「父から」のみ発するとする立場に対立する。またプロテスタントとローマ・カトリック他の伝統的教会では教会についての教義に差があり、使徒の精神を共有することをもって使徒性と解するプロテスタントに対し、カトリック他では聖職者が先任者から任命されることに神聖な意義を認め、その系譜が使徒にまでさかのぼること(使徒継承性)を教会の正統性の上で重視する。また聖餐論においても、カトリックや正教会など伝統的教会とプロテスタント諸派の間には大きな意見の差がある。詳しくはそれぞれの教派の項を参照されたい。
上記の多数派と異なる教義を有し、かつキリスト教を自認するものを異端という。多数派は、神概念の多神論的解釈、キリストの人性のみか神性のみしか認めない、聖霊を神の活動力とする、キリストを被造物とする、キリストの十字架(=贖罪死)と復活を認めない、などを異端として排除する。ただしカトリックの聖人崇敬、及び天使崇敬に多神教の性格を指摘する見解もある。なお現代では共存している各教派も歴史的には互いを異端といい、また教義の上では他派の見解を異端として、自派にもちこむことを多く拒否している。異端と正統の違いは、視点の違いが含まれている点にも留意されたい。
より詳しくはキリスト教の歴史を参照のこと。
現在ではキリスト教の教派はおもに、東地中海沿岸や東欧諸国などに広まる東方正教会、ローマ教皇を中心とするカトリック教会、カトリックに対する宗教改革から発生したプロテスタントがある。ほか、431年のエフェソス公会議で異端宣告されたイラクのアッシリア教会(ネストリウス派)およびその分枝であるインドのトマス派教会(マラバル派)、451年のカルケドン公会議で異端宣告されたキリスト単性論に属するエジプトのコプト正教会や、その姉妹教会エチオピア正教会、シリアのシリア正教会(ヤコブ派)や、元小アジア現在はコーカサス地方のアルメニア使徒教会などの東方諸教会と呼ばれる教派もある。こうした教派は古代以来のキリスト教の展開のなかで生まれてきた。
紀元1世紀、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。キリスト教の理論的発展を基礎付けたのは新約聖書に分類されるパウロ書簡およびヨハネによる福音書である。初期の教義はユダヤ教の律法を基礎としたイエスや使徒の言行から発展した。最初期のキリスト教はユダヤ教との分離の意識をもたなかったとする学説が現在は主流を占める。
キリスト教は歴史上、5回の大きな分裂を経験した。それぞれが、上述の教派の成立につながっていく。最初の分裂はアリウス派の離脱である。キリストの人性を主張したアリウス派は、最初のローマ皇帝の改宗や、ゲルマン人に大きな信仰を得るなど歴史的な意義は大きかった。しかし、アタナシウス派のキリストの両性(神性・人性)が正統教義とされたため、西暦325年の第1ニカイア公会議でアリウス派は異端とされた。アリウス派は北アフリカに渡り新天地を求めたが、今日では消滅している。
2回目の分裂は、ネストリウス派である。ネストリウス派はキリストの両性を認めたものの、神性・人性の区分を主張し、マリアは人間イエスの母であって、キリストの母とはいえず、したがって「神の母マリア」という崇敬を拒否した。キリストの神性・人性は不可分という説が正統教義とされたため、431年のエフェソス公会議でネストリウス派は異端とされた。ネストリウス派はローマ帝国を離れて、その後アジアで大きな信徒数を獲得した。ペルシア帝国内では、ゾロアスター教、マニ教に並ぶ大きな宗教勢力であり、中央アジアや中国にも伝来した。一時は隆盛を誇り、世界最大のキリスト教勢力であった。その後、イスラム教の台頭により著しく衰退した。今日でも、中東に少数の信徒がいる。
3回目の分裂は東方教会におけるエジプトやシリアの教会の単性論教会への離脱である。単性論は451年のカルケドン公会議で異端とされた。東方教会の分裂は、中近東地域でのキリスト教ひいては東ローマ帝国の弱体化につながり、やがて7世紀にはこの地方でイスラム教に勢力を奪われる結果となった。ほかにエチオピア、アルメニアも単性論に転じた。
4回目の分裂は、東西教会の分裂(大シスマ)である。9世紀ごろから対立が顕在化し、1054年にローマ教皇とコンスタンティンポリス世界総主教が互いに破門しあうに至る。教義的には、聖霊の流出が「父から」とするのに対して、ローマ教会が「父と子から」と改変したことに起因する(フィリオクェ問題)。しかし、その実態は政治的・文化的な問題であり、西ローマ帝国崩壊後に、神聖ローマ皇帝の下に徐々に政治的に結集してきた西ヨーロッパ世界が、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)に独立・挑戦したといえる。
5回目の分裂は、16世紀に起こった西方教会での宗教改革によるプロテスタント諸教会の誕生である。宗教改革によるプロテスタンティズムの誕生は、やがて近代ヨーロッパのヒューマニズム興隆や政教分離へと繋がることになる。
20世紀初頭に、アメリカのプロテスタント教派では、自由主義神学の是非を巡って米国長老教会を中心に重大な教義論争(メイチェン論争)が戦わされた。その結果、自由主義神学(リベラリズム)を採用する主流各教派(メインライン)と聖書の無誤無謬を主張し、五つの根本教義(ファンダメンタルズ)の堅持を訴える福音派(ファンダメンタリズム=根本主義など)とにプロテスタント諸教派が二分された。
根本主義者は多く創造論を奉じ、進化論を聖書と矛盾するものとして退ける(根本主義に分類されない教派にも、創造説を支持するものがある)。アメリカの一部の州では、公教育で創造説あるいは進化論を教える是非が根本主義者によって裁判で問われ、一部の州は創造説を教えることを義務づけるに至った。また中絶の是非についても広告を通じた活発な宣伝工作があり、「プロライフ」と「プロチョイス」と呼ばれる賛否両陣営の対立が先鋭化している。とくに80年代以降は、中絶を行う医師や病院に対して危害を加えたりするなどの犯罪に至るものもごく少数ながらおり、社会問題となっている。
一方、メインラインと呼ばれるリベラル-エキュメニカル諸派は北アメリカにおける多数派として政治的主導権を有していたが、ベトナム戦争が膠着するに及び、青年層の中で西欧キリスト教文明の終焉が強く意識されるようになり、文明の転換を禅などの東洋思想に求めるカウンターカルチャー(対抗文化運動)が起こった。非キリスト教的な瞑想やコミューン、環境保護、ロック、麻薬、反戦平和、伝統的権威の否定、性の解放が、青年層を越えた社会現象となるにつれ、メインラインの諸教会は神学思想的にはそれらの風潮に迎合して「世俗化」したが、そのためかえって福音の言葉の力強さを損ない、また礼拝形式的には時代の変化に即応できず、大衆の心を掴む力が弱まり影響力は低下して行った。
これに対して、福音派(根本主義)においては、ビリー・グラハムに代表される大衆伝道者らが、18世紀来のリバイバル運動の伝統であるキャンプミーティングを、野球場などを使う大規模な回心集会「クルセード(原義は十字軍)」として全米各地で展開した。また、説教や礼拝の中継を通じ、教義を理論的に説くよりは多く視聴者の感情に訴えて宣教するテレビ番組(大抵の場合、席上献金の代替として寄付の呼びかけを伴う)が人気を集め、テレヴァンジェリスト(テレビ伝道者)という新しい大衆伝道者のスタイルが確立し、テレビ伝道専門テレビ局ができるまでに至った。これらの活動の結果、福音派はメインライン諸派から多くの改宗者を獲得して、その信徒数は政治的にも影響を与えるまでに至った。
また、福音派や聖霊派(ペンテコステ派)の中からは、カウンターカルチャーに対して大胆な文化適合 を行い、ロックなどの現代的な音楽を教会音楽に採り入れるなど、非伝統的なスタイルで礼拝を行う新しい教会が出現した。このような大胆な文化適合の結果、一個の教会が短時間で数千人から1万人の会員を擁するという「教会成長」が起こった。信者はこれを聖霊の働きによるものと捉え、更に宣教に熱心になって教会成長を加速した。また、このことによりマーケティング理論や社会学を援用して教会成長の要因を分析する教会成長学も生まれた。なお、現代的な音楽を採り入れた新しい教会音楽は、コンテンポラリーゴスペルやワーシップソングと呼ばれ、新しい教会の成長とともに需要が拡大し、レーベル会社が設立され、音楽業界の中で確固とした市場を確立するに至っている。メインライン諸教会の中にも、これらの成功事例を分析し、礼拝形式の現代化に着手するものが現れている。
1960年代以降、世界教会協議会が反戦平和や南北問題など政治色を強め、自由主義神学を採用するメインライン中心の運動となるにつれて、ファンダメンタリスト(福音派)は世界教会協議会から距離を置き、世界福音同盟やローザンヌ世界宣教会議を形成して来ている。
その一方で、北アメリカでは1960年代から、異言を強調するカリスマ刷新運動が米国聖公会を端緒として、自由主義神学を採用するメインラインの諸教派の一部にも広がり、さらに、カトリック教会にまで影響を及ぼした。
エフェソスおよびカルケドン会議が異端として排斥したいわゆる東方諸教会と、かつての正統教会の後裔であるカトリックと東方正教会、またプロテスタント教会との間の対話の活発化も20世紀を特徴付けている。
近世以降、カトリックは東方典礼という形で、ローマの首位権を認めることを条件に東方教会の一部を取り込んできたが、20世紀において、将来の一致を目標としつつ、現状においては東方教会のそれぞれの教派を独自性をもつ教会として扱うにいたった。現在のカトリック教会は、すべての東方教会の信徒に、やむをえない場合という留保つきではあるが、聖体拝領を認めている。なおこのような措置はプロテスタント教会の信徒には取られていない。
また東方正教会と単性論教会は第2次大戦後以降、おもに中東地区で対話をすすめ、20世紀末には教義についての合意を正式に文書で確認しあうにいたった。その文書では、キリスト論などの教義の違いは神学的相違というよりはむしろその表現の相違であり、根底において教義を共有しあっていることを認めた。ただし教会としての全面的な一致にはいたっていないため、教会の方針としては完全共同倍餐には至っていない。
なお、単性論教会のひとつ、エジプトコプト正教会は世界教会評議会での熱心な活動で知られ、ことにアフリカ地区での他教会との交流に力をいれている。これは他の教会での礼拝への陪席などを含んでいる。
現代のキリスト教の図式としては、西方教会の各教派において、程度の差はあれ、リベラル派と保守派の二種の流れがある。東方正教会や東方諸教会にも、これに対応する傾向はあるが、西方教会ほどめだった差はなく、むしろ各教会における文化的な差を反映したものとなっている。
西方教会においては、リベラル派と保守派の間の相違が本質的であるゆえに、もはや、カトリックそれ自体とプロテスタントそれ自体の差異はさほど問題にならないほど小さくなってきている。現代の西方教会におけるキリスト教は、リベラル派と保守派の二大潮流に大別され、カリスマ派が両者の対立の外に、両者を含む形で存在する。一方、このような対立と相重なる典礼変更を嫌って、伝統的典礼形式を広く保持している正教会に改宗する動きも一定数みとめられる。
史実として確認されている日本へのキリスト教の最初の宣教は、16世紀のカトリック教会の司祭、イエズス会のフランシスコ・ザビエルらによるものである。キリスト教は当時、九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得したが、ヨーロッパの植民地政策とのつながりを疑われ、豊臣秀吉が弾圧を始めその後、徳川幕府による宗教政策の一環としての徹底的な弾圧によって壊滅した。長崎の一部等でわずかに残った信徒は隠れキリシタンとして地下に潜り、近代に至った。幕末まで信仰を守り抜いた隠れキリシタンたちは、パリ外国宣教会のプティジャン神父(のちに司教)の前で信仰を明らかにしたため、世界へニュースとして伝えられた。隠れキリシタンの多くは後にカトリック教会に合流している。
幕末の開国とともに再び宣教師が来日するようになり、カトリック、東方正教会、プロテスタントとも教会、伝道所を立てて宣教を行った。また海外からの宣教とは独立して、内村鑑三らによる無教会という信仰のあり方も主張された。
2004年現在日本の総人口の約1%弱がキリスト教徒である。そのうちカトリックが約50万人、プロテスタントが約30万人、プロテスタントで最も信徒数の多い日本基督教団が約10万人である。東方正教会(日本ハリストス正教会)は約3万人。
太平洋戦争中、靖国神社参拝が強要された折に、反対をした学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解を出し、以後戦争に協力した。なお、終戦直後に靖国神社の扱いが問題になった際には、カトリックの当時教皇庁駐日代表だったブルーノ・ビッター神父が靖国存続意見を提出した。今日、この対応には、他宗教への寛容、保守的風土の考慮という点での支持と、アメリカの反共戦略への協力、日本社会の民主化への逆行という点での批判がそれぞれある。
中華人民共和国の成立に伴い、中国大陸での布教が事実上不可能となり、また、北朝鮮においても布教ができなくなったため、多くの宣教師が日本を新たな布教先として選んだ。カトリックの場合、当時の教皇であったピウス12世の方針もあり、日本のカトリック教会は政治・社会問題については消極的で、きわめて保守的な態度をとった。フランスやイタリアでの社会主義とカトリックとの共存を目指す動きは、学生を中心とする知識人の一部には伝わったが、その力は大きくはなかった。
1960年代に入ると、教会内部では第2ヴァティカン公会議に代表されるような自己刷新の動きがあり、また、ベトナム戦争についても、アメリカやヨーロッパ各地でカトリック信仰に基づく反戦運動が紹介され、日本のカトリック教会は多様化する。具体的には、信徒の参加と日本独自の文化への配慮を重視するようになり(インカルチュレーション)、仏式・神式の儀式への参列・焼香等が一定の条件付で許可されるようになった。
政治・社会的には、社会的正義の実現が大きく唱えられ、日本国憲法の内容の実現を求める立場が日本司教団の公式の見解とされる。カトリック正義と平和協議会も、公の組織として活動している。
天皇制については、カトリックが反皇室的立場をとっているという批判がある。これに対し、現憲法の「国民の総意」に基づいた象徴天皇制の徹底化と捉える見方がある。天皇制の廃止を求める運動を司教団が起こしたことはない。また靖国神社問題をはじめとする政教分離については教会はその厳格な執行を求める立場にたつ。一方、信徒レベルでは批判もあり、教会組織としての意見の徹底的な統一が図られているわけではない。
発足間もない時代、日本の正教会はニコライ・カサートキンらの伝道師を最初に派遣したロシア正教会の指導下におかれていた。19世紀半ばに函館から始まった正教会の伝道は、明治末には日本全国におよび、北海道・東北・東京・関西・九州を中心に教会が建てられた。主にロシアからの資金援助により、東京神田に壮麗な大聖堂も建設された。しかし1917年のロシア革命によりロシアからの資金と宣教の両面での援助が断たれたことから、日本の正教会は苦しい立場におかれた。加えて、ロシア政府と教会の関係に厳しい目を向けていた日本政府は、ロシアの共産化以後、さらに正教会を厳しく監視するようになる。このため第2代日本府主教であるセルゲイ府主教は、政府の圧力により退位を余儀なくされた。
また、関東大震災で東京市内のほとんどの教会が破壊された。これらは再建されず、東京市内の教区は神田の東京復活大聖堂(ニコライ堂)に再編された。
第二次世界大戦後日ソの外交関係が途絶しアメリカを中心とする連合軍が日本に入ると、日本の正教会はアメリカ合衆国に所在する正教会の管轄下に一時的におかれた。アメリカから高位聖職者が来日し、日本の正教会の指導に当たった。また日本からニューヨークのウラジミール神学校に多数の若い神学生が留学した。日本教会の管轄はその後モスクワに戻り、1970年代には日本教会は聖自治教会となり、自身で主教を選出する権限を得た。東京、仙台、京都が主教座教会となっている。
西方教会に由来する日本の他教会と異なり、正教会は教団として政治運動とはかかわりをもっていない。
元々、戦時中の政府の政策で一本化された日本基督教団であるが、現在は超教派の教団として現在でも残っている。
1900年代初頭より、カトリック内に徐々に改革が始まり、第二バチカン公会議後、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世により、大改革が始まった。具体的には、フランスのジャンヌ・ダルク等、カトリックから破門されていた人に対し、謝罪をする、等。それ以降、カトリック教会がプロテスタントに歩み寄りが始まった。
それを受け、日本では、60年代の学生運動のときには、靖国神社参拝をめぐり、プロテスタントとカトリックの大学生を中心とする信徒が合同で活動をおこなった。一方教会間の交流としては共同訳による新共同訳聖書の翻訳事業が特筆される。この新共同約聖書においては、プロテスタント諸派の一部が「外典(アポクリファ)」として聖書から除外したもの(集会の書、マナセの祈り等)を「旧約聖書続編」としてまとめている。このことは日本の聖書翻訳事業においては画期的なことである。
・魔女狩りは教会主導により行われ、残虐な拷問により全ての被告が有罪となり数百万の人々が犠牲になった。これは教会が魔女として裁かれた犠牲者の財産を没収するためだった。 (実際は民衆主導で、人民裁判から教会に持ち込まれたものだけを教会が裁き、半数以上が無罪放免、有罪になったものも実際に処罰されたものは少なかった。また、ヨーロッパ全土での魔女狩りの犠牲者は最大で4万人、その殆どが人民裁判という形での私刑によるものだった)
・「黒人には魂がない」として、奴隷制度を積極的に容認した。 (実際は早くから黒人に対し「洗礼を受ける権利」「聖餐式に参加する権利」等を認めていた)
・カソリックはナチス・ドイツと協力してユダヤ人を迫害した。 (ヒトラー、ムッソリーニと一種の不干渉条約こそ結んだが、両者とも公然と教会を攻撃したために両者は激しく対立していた)
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