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オソン1世 (Otto von Wittelsbach, 1815年6月1日 - 1867年6月27日、在位1832年 - 1862年)はギリシャ王国における初代国王。1832年イギリスフランスロシア間で結ばれたロンドン条約に基づき即位した。

彼はオーストリアザルツブルグで生まれた。父はヴィッテルスバッハ家バイエルンルートヴィヒ1世、母はオルテンブルク家出身のテレーズ。祖先にはバイエルン公ヨハネス1世がいる。

ギリシャ独立戦争の結果、オスマン帝国からの独立を達成したギリシャの政体について、西洋諸国では君主制国家とすることが適当であるとの結論に達した。初代国王としては、東ローマ皇帝の血を引き、列強に対して中立の立場にあるバイエルンのオットー王子をオソン1世として即位させることになった。

1832年オソンは18歳になって間もなく、当時ギリシャの首都がおかれていたペロポネソス半島ナフプリオに上陸した。彼の周囲にはバヴァリアの宮廷からつれてきた多くの廷臣たちがつき従っていた。新国家の財政についてはイギリスおよびロスチャイルド家が保証することになったが、彼らはギリシャの経済状況が思わしくないことを国王に示唆した。 新政府が国民にかけた税金はオスマン帝国時代以上に重たいものだった。王はギリシャの風習に何の興味も示さず、宗教ギリシャ正教に改宗せずカトリックを信仰し続けた。

1837年にオソンはドイツを訪問し、オルテンブルク家のアマーリエ(ギリシア名アマリア)王女と結婚した。結婚式はギリシャでは開かれなかった。新しく誕生した王妃は政治に干渉し、国民の王制に対する支持はさらに失われていった。ギリシャの民心を掴もうとして、1841年クレタ島を併合しようとした動きは列強によって制せられた。

1843年、ギリシャからバイエルンの軍隊が撤退すると、直ちにギリシャ軍によるクーデターが起き、憲法の制定を認めさせられた。憲法により設置された議会によって、さらに英国艦隊がアテネ近郊のピレウス港を封鎖する事件が発生すると王の権威は更に弱まった。

キリスト教国によって過去の東ローマ帝国を再建しようとする夢を持っていたオソンは1854年クリミア戦争が勃発するとトルコに対して宣戦布告したが、結果は不首尾に終わった。1861年にはディロシオスと名乗る学生が女王を暗殺しようとしたが、彼の行動は民衆から歓呼で迎えられた。1862年に再びクーデターが起こると暫定政府は国民議会の開催を決め、国王夫妻はイギリス艦でギリシャを出国し、バイエルンへと向かった。彼は1867年ドイツのバンベルクで死去し、遺体はミュンヘンに葬られた。

退位後もオソンはギリシャの伝統衣装を着続け、1866年にクレタ島でトルコに対する反乱が起きた際には自身の財産から武器を購入し、反乱側に手渡したといわれる。

近代ギリシャ史 | ギリシャの君主

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