エムス電報事件(エムスでんぽうじけん)は、プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクが同国国王ヴィルヘルム1世からの電報を改竄し世間に公表した事件。普仏戦争の直接の原因となった。
その後スペインでは、1869年1月に初の普通選挙が実施され、同年6月に憲法が発布されたが、その中で革命後の政体は立憲君主制に定められた。革命後も各地で混乱が続き、共和主義者による蜂起も発生したため、新政府にとって新国王の選出は体制安定のための緊急課題となった。
1870年、フランス亡命中のイサベル2世は、息子である後のアルフォンソ12世に王位を譲ったが、スペインのプリムはこれを認めず、スペイン国王の王位継承問題が発生した。この継承候補者として、プロイセンの推すホーエンツォレルン家のレオポルト公の名前も挙がり、プリムもこれを推薦した。これに対し、フランスは自国がホーエンツォレルン家の王を頂く国家に挟まれることを危惧し、レオポルト公の王位継承に強く反対し、ホーエンツォレルン家当主であるヴィルヘルム1世にレオポルト公の候補辞退を求めた。
このフランスの強い反対に、一時普仏両国の関係は緊張したものとなったが、結局プロイセン側が折れ、7月12日にレオポルト公が自発的に王位を辞退した。このプロイセンの譲歩によって事態は平和的に解決したかに見えた。
1870年7月13日、ドイツ西部の温泉地バート・エムスで静養中のヴィルヘルム1世を訪ねたフランス大使ヴァンサン・ベネデッティ伯爵は上述の保証のために会見を求めた。しかし既に王位辞退という形で譲歩を行ってた国王は、未来永劫にわたって保証することは不可能であり自分にその権限はない、としてこのさらなる要求を拒否し、ベルリンのビスマルクにことの経緯を打電した。
国王からの電報を受け取ったビスマルクはこの電報を政治的に利用することを思いつき、電報を意図的に短縮して非礼なフランス大使が将来にわたる立候補辞退を脅迫し、それに立腹した国王が大使を強く追い返したように改竄した上で新聞や各国に公表した。文章の省略によって国王の大使への対応は強調され、加えてビスマルクが故意に事実と異なった状況説明を行ったため、かねてからくすぶっていたフランス・プロイセン両国の敵対心は煽られ、世論は戦争へと傾いた。ヴィルヘルム1世自身、翌朝の新聞報道を読んで「これは戦争だ」と叫んだといわれる。
開戦反対の声がまったく無かったわけではなかったが、戦争を求める強い世論に流されるまま、フランスは7月15日に開戦を閣議決定し、7月19日にプロイセンに宣戦を布告した。
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