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  1. ウイリアムズはF1チームの一つ。本稿ではこれを解説する。
  2. ウイリアムズピンボールブランドの一つ。-> ウィリアムズ・エレクトロニクス
  3. ウイリアムズは人名の1つ。


ウイリアムズ・エフワン (Williams F1) は、イギリスに本拠地を置くF1のレーシング・チームで、1977年フランク・ウイリアムズパトリック・ヘッドにより設立された。正しくは ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング(Williams Grand Prix Engineering)という。

概要


過去には、アラン・ジョーンズケケ・ロズベルグネルソン・ピケナイジェル・マンセルアラン・プロストデイモン・ヒルジャック・ヴィルヌーヴを世界チャンピオンへと導いた。しかしながら、明確なチーム内のナンバーワンドライバーを設定しない上、コンストラクターズチャンピオンを重視する政策のため、ドライバーズチャンピオンを逃すことがあった。また、ドライバーの契約金に渋いことから、チャンピオンを獲得したドライバーでも大幅な契約金アップとならず、結果的に翌年にカーナンバー1とともに移籍する例があった。保守的な車作りをすることで知られ、ターボエンジンやカーボンファイバーモノコックの導入は遅い部類に入る。フェラーリマクラーレンと並んでF1の三強と呼ばれている。

チームの歴史


設立の経緯

フランク・ウイリアムズは1966年からウイリアムズ・レーシングを設立してモータースポーツ活動を行っており、ブラバムマーチのシャシーを購入してF1にも参戦していた。しかしチームの予算は限られており、1976年にはウルフに事実上チームを売却した。この直後に、パトリック・ヘッドを引き連れて共同設立したのが現在のウイリアムズである。ただし、現在まで続くFWという型式番号は、旧ウイリアムズ時代の1973年にさかのぼる(この年にFW01が製作された)。

パトリック・ヘッドの加入とともに、ウイリアムズはそれまでのテールエンダーから上位チームへと変貌を遂げる。 1978年に登場させたFW06は、当時トレンドとなり始めていたグランドエフェクトカーではなくコンサバティブなデザインとしたが、多くのチームがグランドエフェクトカーの調整に苦しむ中で上位を走っていった。 そして翌年に、グランドエフェクト理論をしっかり理解した上で開発されたFW07で、ウイリアムズは黄金期を迎える。

第1次黄金期

1980年には初のコンストラクターズチャンピオンを獲得するとともにアラン・ジョーンズを世界チャンピオンへと導いた。

また、翌1981年にはジョーンズとカルロス・ロイテマンにより2年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、両ドライバー間の確執をうまく調整できなかったことから、ブラバムネルソン・ピケに最終戦でドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。

1982年は、ターボエンジン全盛時代において出力的に劣るノン・ターボエンジンの搭載を継続したが、熟成されたマシンはバランスの良さから快走。堅実にポイントを積み重ねたケケ・ロズベルグをわずか1勝で年間チャンピオンに押し上げた。このマシンは、もともとはリヤを4輪にした6輪車として設計されテストもされたが、レギュレーション変更による6輪車の禁止により、4輪に再設計した。このため結果的にホイールベースが短くなり、コーナリング性能に優れたマシンになったのがチャンピオン獲得の原動力となったといえる。

1983年終わりにはそれまでスピリットが搭載していたホンダエンジンを獲得する。ウイリアムズがターボエンジンを使うのはこれが初めてだったことに加え、ホンダエンジンの燃費や過渡特性の悪さもあり、すぐにはその能力を発揮することはできなかった。1985年にはホンダが全面的に設計を見直した新エンジンを投入したが、それにより逆にマシンのサスペンションジオメトリーのアンバランスさが表面化し、一発の速さはあるもののタイヤがすぐに磨耗してしまうため決勝では苦戦を強いられる。しかしシーズン終盤にはサスペンションを改善したマシンを投入し、シーズン最後に3連勝を飾った。

第2次黄金期

1986年1987年と連続してコンストラクターズタイトルを獲得するが、1986年はネルソン・ピケとナイジェル・マンセルの確執の為、マクラーレンのアラン・プロストにドライバーズチャンピオンを奪われた。1987年はピケがチャンピオンを獲得するがこのシーズン限りでロータスに移籍してしまう。また、1986年の交通事故によりフランク・ウイリアムズが半身不随となってしまい、チームに暗い影を落としている。加えて、1987年末にはホンダエンジンも失うなど、短期間に多くのものが失われていった。

第3次黄金期

1988年ジャッドエンジン搭載で低迷するが、1989年からルノーエンジンを獲得しやがて3度目の黄金期を迎える。レイトンハウスから鬼才エイドリアン・ニューウェイを迎え入れデザインされた「ウイリアムズFW14」はチャンピオンとして君臨していたマクラーレンを脅かし始める。1991年は惜しくもタイトルを逃すが、翌1992年アクティブサスペンション商標の関係から当時チームでは「リアクティブサスペンション」と称していた)を搭載した改良型「ウイリアムズFW14B」で無冠の帝王と呼ばれていたマンセルとともにダブルタイトルを獲得する。

しかし、マンセルとは、契約金について合意に達することができなかっただけでなく、既にウイリアムズ入りが決定していたプロストとの待遇の差もあり、交渉は決裂。マンセルはシーズン中に記者会見を開きチーム離脱を宣言。翌年CART参戦の為渡米してしまう。そこでプロストのチームメイトにテストドライバーであったデイモン・ヒルを抜擢する。前年チャンピオン不在のためカーナンバーは「0」と「2」となるが、プロストは無能を意味する「0」を嫌がり「2」を選ぶ。既にプロストはキャリアの下り坂に差し掛かっていたこともあり精彩を欠いたレースをすることもあったが、当時最強のハイテクマシン「ウイリアムズFW15C」の助けもあり2年連続のダブルタイトルを獲得する。

1994年は引退したプロストの代わりに当時最強のドライバーであったアイルトン・セナを迎える。そして前年までのスポンサーであったキャメルに代わりロスマンズをメインスポンサーとし、カラーリングも一新する(しかしこの件でそれまでメインスポンサーであったキヤノンの怒りを買いキヤノンはスポンサーを降りてしまう)。最強のドライバーと最強のマシンの組み合わせであり、シーズン開幕前からチャンピオンは決定してしまっていると言われた。この年ハイテクが禁止されたため、パッシブカーとしてデザインされた「ウイリアムズFW16」はリアサスペンションをカバーで覆うという、空力的に洗練された意欲作であった。開幕戦ブラジルGP、第2戦パシフィックGPと立て続けにセナがポールポジションを獲得するが、過敏なマシンにより1戦目はスピン、2戦目はアクシデントに巻き込まれてしまう。迎えた第3戦もポールポジションを獲得する。このチームの最も暗い時間は、おそらくこの年のイモラでのサンマリノGPのあった週末である。スタート直後の事故によりセーフティカーが入るが、再スタート明けのタンブレロ・コーナーでセナのマシンはコーナーを直進しコンクリートウォールに激突してしまう。レースは赤旗中断となり、チーム関係者などが沈痛な表情を見せる中、セナはヘリコプターで病院まで搬送されるが帰らぬ人となってしまう。この事故以降、ウイリアムズのマシンにはセナのSマークが刻まれている。

期せずしてナンバーワンに昇格したヒルのチームメイトにはテストドライバーのデビッド・クルサードを昇格させた。シーズン当初はベネトンミハエル・シューマッハに独走を許すが、彼が失格や出場停止となったレースで確実に勝利を収め、ドライバーズタイトル決定は最終戦オーストラリアGPにもつれ込む。コーナーを飛び出しふらついていたシューマッハをヒルは抜きにかかるが、強引なブロックにより両者接触リタイヤし、タイトルはシューマッハのものとなる。しかし、CARTの日程と重複しない、フランスGPヨーロッパGP日本GP・オーストラリアGPに参戦したマンセルの働きもありコンストラクターズタイトルを死守する。

1995年はウイリアムズとして初めてのハイノーズマシン「ウイリアムズFW17」と投入する。しかし、ライバルであるベネトンが同じルノーエンジンを搭載したこともあり、改良型「ウイリアムズFW17B」を投入するが両タイトルを奪われてしまう。

1996年はマクラーレンに移籍したクルサードに代わりCARTチャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴをアメリカから呼び寄せる。前年からテストを十分行ってきたこともあり、ヴィルヌーヴはデビュー戦からポールポジションを獲得する。レースもリードするがギアボックスのトラブルにより2位に甘んじる。この年は前年のチャンピオンであるシューマッハが当時低迷していたフェラーリに移籍したため、ウイリアムズの二人のドライバーがタイトルを争う。ヒルは先輩格の意地を見せ、日本グランプリで念願のチャンピオンを獲得する。しかし、チームはチャンピオンを獲得したヒルに対し、翌年は契約しないことを通告。その代わりにザウバーよりハインツ=ハラルト・フレンツェンが加入することとなった。

迎えた1997年シーズンは、ヴィルヌーヴとフェラーリのシューマッハの激しいチャンピオン争いとなり、最終戦ヨーロッパGPまでもつれこんだが、シューマッハが追い越しをかけたヴィルヌーヴと接触しリタイアという意外な結果により、ヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得する。

BMW時代

1997年シーズンをもってルノーが撤退したことを受けて、ウイリアムズは1998年1999年をルノーのカスタマー仕様エンジン(それぞれメカクロームスーパーテックと呼ばれた)で乗り切るが、2000年シーズンからはBMWとエンジン使用と技術協力の長期の契約(2009年まで)を結んだ。この提携以来、BMWウイリアムズF1(BMW WilliamsF1)チームは、2001年から2004年に、ファン・パブロ・モントーヤラルフ・シューマッハ(ラルフは1999年に加入)のコンビで10勝(モントーヤ4勝、ラルフ6勝)を達成したが、この時期フェラーリの黄金時代となったこともあり、ウイリアムズはドライバーズ、コンストラクターズともにチャンピオンを獲得することができなかった。

2005年シーズンはモントーヤがマクラーレン、ラルフがトヨタへ移籍したことを受け、ジャガーよりマーク・ウェバー、ジョーダンよりニック・ハイドフェルドがレギュラードライバーとして加入することとなったが、前年から続いてのシャシー設計(特に空力部門)の失敗とBMWとの不和から成績が低迷し、ついに2000年シーズン以来の未勝利、1999年以来のコンストラクターズ順位トップ4からの陥落(5位)という不本意なシーズンを送ることとなった。

再びプライベーターへ

2004年から始まったチーム成績の低迷は2005年も続いてしまった。さらに、シャシーを含めたフルメーカー参戦したいBMWの意向などからBMWとの間に確執が生まれ、BMWはザウバーチームを買収してコンストラクターとして参戦することを決意。結果としてウイリアムズとの長期契約は2005年限りで打ち切りとなった。

BMWエンジンを失ったウイリアムズは代替のエンジンを求め、トヨタやホンダとの交渉が噂されていたが、どれも実現には至らず、結局V8 , 2400ccエンジンへ変更となる2006年についてはコスワースからエンジンが供給されることになり、昨今の自動車メーカのワークス化というF1界の潮流に逆らうように、「プライベーター」して参戦することとなった。また、タイヤについてもミシュランからブリヂストンへ変更されることになった。

ドライバーについては、マーク・ウェバーが残留し、そのパートナーには、ニック・ハイドフェルドが新生BMWチームへ移籍した為、11月3日にかつてウイリアムズでチャンピオンを獲得したケケ・ロズベルグの息子である、ニコ・ロズベルグの起用を発表した。また、3rdドライバーとして、前マクラーレンのアレクサンダー・ヴルツを起用することとなった。

新人の登竜門


技術的には保守的といわれているウィリアムズだが、ドライバーに関しては、ミナルディジョーダンほどではないが、新人ドライバーを起用することがある。この傾向は新人を自分のチームでF1デビューさせることはめったにないフェラーリ、マクラーレンとは大きく異なる。1990年代以降でこのチームからデビューしたドライバーとして上げられるのは、一番有名なのはデビュー戦の1996年の開幕戦でいきなりポールをとったCART(現・チャンプカー)出身のジャック・ヴィルヌーヴがあげられる。その他にも、ヴィルヌーヴと同じCART出身のファン・パブロ・モントーヤ、デビット・クルサード、ジェンソン・バトン、そして2006年にこのチームでF1デビューしたニコ・ロズベルグがいる。

また、アイルトン・セナにおいては、イギリスF3参戦中の1983年にテストをさせており、早くからセナの才能に目をつけていた。(実際にドライバー契約を結んだのは、それから11年もの後のこと)

ウイリアムズでドライバーズタイトルを獲得したドライバー


関連項目


外部リンク


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