アルファ・ロメオ (Alfa Romeo) は、イタリアの自動車製造会社である。ミラノ市の白地に赤い十字架とヴィスコンティ家の紋章であるサラセン人を呑み込む大蛇を組み合わせた楯を表現したフロントグリルを持つ、独特の顔立ちで知られ、フィアットの傘下となって久しい今日でも、その外観の独自性は失われていない。また、アルファ・ロメオのレース部門のドライバーであったエンツォ・フェラーリは後に独立し、フェラーリ社を設立した。彼が自分の車でアルファ・ロメオに勝利したときに、「私は自分の母親を殺してしまった」と語ったという。
現在はフィアット傘下において、ミドルクラス車の開発、生産を担っている。
今に続くミラノ市章の赤十字とかつてミラノを支配したヴィスコンティ家の家紋に由来する人を飲み込む大蛇(竜という説もある)を組み合わせた同社のエンブレムには、当初「ALFA MILANO」の文字が刻まれていた。記念すべき最初の生産車は高性能な「24HP」で、A.L.F.A. はこれを武器に創業1年にして早くもレースを走り始める。
1918年にナポリ出身の実業家ニコラ・ロメオ (Nicola Romeo) が同社を買収し、ここにアルファ・ロメオ のブランドが誕生する。正式な会社名はニコラ・ロメオ技師株式会社とされた。
かの自動車王ヘンリー・フォードは「私はアルファ・ロメオが通るたびに脱帽(Hat Off)する」と言ったといわれるが、これはアルファ・ロメオに対する賞賛であると同時に、生産効率に左右されることなく、少数生産、超高価格販売政策のもとで理想の車づくりに邁進できた同社への皮肉めいた羨望であったかもしれない。
1943年、ポルテッロ(Portello)にある本社工場が連合軍の3度にわたる空襲によって廃墟と化す。
1948年に「アルファ・ロメオ・S.P.A.」に改組。ただし経営母体はIRIのまま(=国営)である。
1950年、超高級・高性能スポーツカーやGTを少数生産するという戦前までのスタイルを自ら捨て去り、新型の「1900」シリーズを引っさげてより確実な利益を見込める大衆量産車メーカーへと180度転身した。しかしながら大衆車であるはずの「1900」にも、新開発の4気筒DOHCエンジンをはじめ、レースカーで培った高度な技術を惜しみなく投入して開発されていた。
1954年、名車の誉れ高い「ジュリエッタ」シリーズがデビュー。最初にセダンボディではなく、スポーツモデルの「スプリント」が登場した。無論、諸事情があってのことだったが、これもアルファ・ロメオらしいエピソードである。エンジンはアルファの伝統に則ったDOHCで、1300CCの小排気量から最高時速160キロをたたき出す、当時としては驚異的な高性能車だった。その素性が買われ、多くのエントラントの手で数多のツーリングカーレースや公道レースに参戦、イギリスやドイツの小型車と激戦を繰り広げた。「ジュリエッタ」はしかし、本来のファミリーカーとしても大成功したのである。
1962年、この年、本拠地がミラノ郊外アレーゼへと移された。そして戦後アルファのイメージを決定づけた「ジュリア」シリーズがデビューする。この車もまた、高性能DOHCエンジン、5速ミッション、4輪ディスクブレーキの搭載等によって、同クラスの車と比べて圧倒的な高性能を誇った。G.ジゥジアーロがデザインした美しいボディのクーペモデルは、今なお戦後アルファの代表格として語られている。「アルファ・ロメオ」と聞けば、まずこのジュリア・クーペをイメージする人も多いだろう。
「ジュリア」シリーズは、十分な新車開発投資ができないこともあり、排気量の増大によって排ガス規制も乗り切り長期にわたって生産された。特にダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」にも登場した派生モデルの「スパイダー」はクーペの生産終了後、完全に時代遅れのシャシー性能と動力性能となりながらも、アメリカでの根強い人気に支えられ、本来のデザインを失いつつもマイナーチェンジを繰り返し、新しいスパイダーモデルが発表されるまで生き延びた。
市場に大いなる賞賛を以って迎えられた「スッド」であったが、南部労働力の質的問題と、コストを下げるために使用した質の悪い鋼板によって、「スッド」は結果的に低品質車のレッテルを貼られ、アルファの品質的なイメージをさらに低下させてしまうこととなった。1983年登場した後継車「33」では、品質の問題はかなり改善されたが、この問題が影を落とし、国外でのセールスが伸び悩んだ。 なお、このナポリ進出以降、エンブレムの「ALFA-ROMEO MILANO」から「MILANO」の文字がはずされている。
1972年、ミラノのアルファ・ロメオから、大成功を収めた「ジュリア」の後継となる新型ファミリーセダンがデビューする。かつてF1GPで活躍した「Tipo158/159」の愛称を引き継ぎ「アルフェッタ」と名づけられたこの車は、その名のとおりGPカー譲りの高度なメカニズムを持っていた。高性能DOHCエンジン、対地キャンバー変化の少ないド・ディオンタイプのサスペンション、バネ下重量軽減に効果のあるインボードタイプのリア・ディスクブレーキ、車両の前後重量配分を最適化するためのトランス・アクスルタイプのドライブトレーンなど、これらは何れも車の運動性能・走行性能を高めるための仕掛けで、これらがスポーツカーならいざ知らず、ごくごく普通のセダンに採用された点が興味深い。実際、このシリーズもその素性を活かして各種競技に使われたが、機械的信頼性はさほど高くなくラリーではトラブルによるリタイヤで終わった。
「アルフェッタ」の基本構造は下級車種「(新)ジュリエッタ」、そしてそれらの後継の 「75」に引き継がれたが、度重なるストライキで労働意欲が低下し、製造技術も世界標準から大きく劣ったアルファ社にとって、これまで以上に凝ったコスト高の製品は、アルファの経営を圧迫することになった。 元来、作業性や生産効率を二の次とし、行き当たりばったりの辻褄あわせの設計が多かったが、そのような量産車メーカーが存続できない時代に対応できなかったこと、それをブレイクスルーできる大量国も人材にも恵まれていなかったのがアルファ社の悲劇であった。 1990年代初頭に、カロッツェリア・ザガートとのコラボレーションで限定生産されたES30(SZ/RZ)は、スポーツカーとしての素性の良さで評判が高かったが、後輪駆動アルファの最後のあだ花となった。
1984年には日産自動車と提携し、合弁会社「A.R.N.A.(AlfaRomeo and Nissan Automobili)」を設立。共同開発車アルナを生産した。この車は日産の大衆車「パルサー」の車体にスッド由来の水平対向エンジンを搭載したもので、シャシーはもちろん、外観上もフロントにアルファ伝統の盾型グリルが着くほかはパルサーそのもので、イタリア国内ではそこそこ売れたものの、スタイリングは酷評された。しかし、コーナリングはスッド以上だったという証言もあるのが興味深い。日本国内でもこの提携に呼応して「パルサー・ミラノX1」というグレードが設定され、日産ディーラーにアルファ・ロメオのエンブレムが躍ったが、それはイメージ戦略以上の何物でもなかった。
このプロジェクト自体は結局失敗に終わったが、アルファ・ロメオは日本メーカーの持つ高度な生産システムと品質管理について多くを学んだ。
以後、156のクーペ仕様「GT」が登場、2005年には147がフェイスリフトを受け二代目になる。そのほかV型8気筒エンジン搭載の「ブレラ」、156の後を襲う「159」が本国で発表されている。
有名な「クワドリ・フォリオ(四葉のクローバー)」が初めてマシンに描かれたのは1923年の第14回タルガ・フローリオの時。マシンは「RLタルガ・フローリオ」で、ウーゴ・シボッチのドライブで見事に優勝し、その後このマークはワークス・チームのシンボルとなった。
やがてエンツォ・フェラーリが同社にレーシングドライバーとして参加。さらに天才エンジニア、ヴィットリオ・ヤーノがフィアットを辞して加わったことで、名レーシングカー「P2」が誕生。真紅のマシンはレース界を席巻し、後継の「P3」の登場に及んでレーシング・アルファの名声は決定的なものとなった。さらにヤーノはレースカーの血を受け継ぐ高級スポーツカー「6C」「8C」シリーズも手がけ、アルファ・ロメオは市販車部門でも王侯貴族が憧れる、世界最高峰のスーパー・スポーツカー・ブランドとして君臨する。
イタリア人の期待を一身に背負い、しかし国からの援助もなく、資金が枯渇して開発のままならないマシンで孤軍奮闘するチームは、こうして一時の美酒に酔うが、それもこのときまでだった。その後、アルファ・ロメオのレーシング部門では政争が渦巻き、ヤーノが、フェラーリが去っていった。やがて戦争がすべてを覆い尽くす。
その後、1950年にはじめてF1世界選手権が懸けられると、ファン・マヌエル・ファンジオ、ジュゼッペ・ファリーナらが「Tipo158」を駆り、7戦7勝という圧倒的な強さでシリーズを征し、ファリーナが初代F1王者となった。
1951年、この年もGPで「Tipo158」の改良型、「Tipo159(アルフェッタ)」が大活躍したが、アルファ・ロメオを離れて自らの名を冠したレーシングカーでGPに挑戦するフェラーリにイギリスGP(シルバーストーン)で初めて敗北を喫する。この時のエンツォ・フェラーリの言葉、「私は母を殺してしまった」はあまりにも有名。
シリーズチャンピオンはこの年もアルファ・ロメオとファンジオのものだったが、資金難を理由にこの年限りでF1GPレースから撤退してしまう。
他方、ポルシェなどが参戦するグループ6(スポーツカーレース)カテゴリに興味のあったアルファ=アウトデルタは2リッターV8エンジンをミドに搭載したレーシングプロトタイプ「Tipo33/2」を1967年に開発。驚くべきことに、アルファ・ロメオはこの純然たるレーシングカーにフランコ・スカリオーネがデザインした溜息が出るほど美しいボディシェルを被せ、公道走行モデルとして、ごく少数ながら市販してしまったのである(その数16台といわれる)。「Tipo33/2ストラダーレ」と呼ばれたそのモデルには当時のフェラーリの10倍とも言われるプライス・タグがつけられた。
1973年、グループ6のレーシングカー・プロジェクトは水平対向12気筒エンジンをチューブラーシャシーに架装する「Tipo33/TT12」に発展し、トップカテゴリで活躍した。こうして戦後レーシングシーンにおいても華々しい成功を収めたことで、戦前の栄光を知らない世代にも新しいアルファのレーシングイメージが浸透していった。
1979年、ブラバムチームとの契約を終え、いよいよアルファ・ロメオは自社開発のF1マシンでGP復帰を果たす。しかし慢性的な資金不足によって開発は思うに任せず、このF1プロジェクトは消化不良のまま1985年に打ち切られた。そのころすでに会社は存亡の危機を迎えていた。
自動車メーカー・ブランド | イタリアの企業 | F1コンストラクター
Alfa Romeo | Alfa Romeo | Alfa Romeo | Alfa Romeo | Alfa Romeo | Alfa Romeo | Alfa Romeo | Alfa Romeo | אלפא רומיאו | Alfa Romeo | Alfa Romeo | Alfa Romeo | Alfa Romeo | Alfa Romeo | Альфа Ромео | Alfa Romeo | Alfa Romeo | Альфа-Ромео
This article is licensed under the GNU Free Documentation License.
It uses material from the
"アルファ・ロメオ".
Home Page • arts • business • computers • games • health • hospitals • home • kids & teens • news • physicians • recreation• reference • regional • science • shopping • society • sports • world