ナーガールジュナ (naagaarjuna)、漢訳名龍樹(りゅうじゅ、漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)上の表記は竜樹だが用例は少ない。密教系の仏教では龍猛と呼ばれることもある)は150‐250 年ころ(生没年不詳)のインド仏教の僧。浄土真宗七高僧の一人。
名前はサンスクリットで、ナーガは蛇(蛇神転じて竜)、アルジュナはインド神話のマハーバーラタに登場する武将から(転じて英雄の意味もある)。日本では漢訳名の龍樹で知られる。
南インドのビダルバの出身のバラモンと伝えられ、幼い頃から多くの学問に通じた。シャータバーのハナ朝の保護のもと、セイロン・カシミール・ガンダーラ・中国などからの僧侶のために僧院を設けた。この地(古都ハイデラバードの東70km)は後にナーガルジュナ・コンダ(森)と呼ばれる。
大衆部・上座部・上座部系説一切有部、さらには当時はじまった大乗仏教運動を体系化したともいわれる。ことに大乗仏教の基盤となる『般若経』で強調された「空 (仏教)」を、無自性に基礎を置いた「空」(サンスクリット語では、シューニャSunya、数字のゼロの意味もある)であると論じ、釈迦の縁起を説明し、後の大乗系仏教全般に決定的影響を与える。これによって日本では「八宗(南都六宗・天台宗・真言宗)の祖」の龍樹菩薩として仰がれている。
インド原典で伝わるナーガールジュナ伝が存在しないため史学的に厳密な生涯は不詳であるが、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)訳と伝えられる『龍樹菩薩伝』などによって生涯の概要を窺い知る事ができる。無論、神秘主義者達による後世のフィクションが多いためそれをそのまま受け取る事は出来ないが、龍樹の人格を知る上で重要な資料であると考えられている。この伝説は学者によっては鳩摩羅什作とも主張されており、真偽のほどは定かではない。
天性の才能に恵まれていた龍樹はその学識をもって有名となった。龍樹は才能豊かな3人の友人を持っていたが、ある日互いに相談し学問の誉れは既に得たからこれからは快楽に尽くそうと決めた。彼らは術師から隠身の秘術を得、それを用い王宮にしばしば入り込んだ。100日あまりの間に宮廷の美人は全て犯され、妊娠する者さえ出てきた。この事態に驚愕した王臣たちは対策を練り砂を門に撒き、その足跡を頼りに彼らを追った衛士により3人の友人は切り殺されてしまった。しかし王の影に身を潜めた龍樹だけは惨殺を免れ、その時愛欲が苦悩と不幸の原因であることを悟り、もし宮廷から逃走する事が出来たならば出家しようと決心した。
事実、逃走に成功した龍樹は山上の塔を訪ね受戒出家した。小乗の仏典をわずか90日で読破した龍樹は、更なる経典を求めヒマラヤ山中の老比丘からいくらかの大乗仏典を授けられた。これを学んだ後、彼はインド中を遍歴し仏教、非仏教の者達と対論しこれを打ち破った。龍樹はそこで慢心を起こし、仏教は論理的に完全でないところがあるから仏典の表現の不備な点を推理し、1学派を創立しようと考えた。
しかしマハーナーガ(大龍菩薩)が龍樹の慢心を哀れみ、龍樹を海底の龍宮に連れて行き大乗仏典(『般若経』のことか?)を授けた。龍樹は90日においてこれを読破。深い意味を悟る。
龍は龍樹を南インドへと返し、国王を教化するため自ら応募して将軍となり、瞬く間に軍隊を整備した。王は喜び一体お前は何者なのかと尋ねると自分は全知者であると龍樹は答え、それを証明させるため王は今神々は何をしているのかと尋ねたところ、龍樹は神通力を以って神々と悪魔の戦闘の様子を王に見せた。これにより王をはじめとして宮廷のバラモン達は仏教に帰依した。
そのころ1人のバラモンがいて、王の反対を押し切り龍樹と討論を開始した。バラモンは術により宮廷に大池を化作し、千葉の蓮華の上に座り、岸にいる龍樹を畜生のようだと罵った。それに対し龍樹は六牙の白象を化作し池に入り、鼻でバラモンを地上に投げ出し彼を屈服させた。
またその時小乗の仏教者がいて常に龍樹を憎んでいた。龍樹は彼にお前は私が長生きするのはうれしくないだろうと尋ねると彼はその通りだと答えた。龍樹はその後静かな部屋に閉じこもり、何日たっても出てこないため弟子が扉を破り部屋に入ると彼は既に息絶えていた。龍樹の死後100年、南インドの人たちは廟を建て龍樹を仏陀と同じように崇めていたという。
龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っていることを論証している。この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は縁起の実在性を否定し,代わってより深く一般化された、非実在的な関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっていることを明らかにした。これを「空」もしくは「空性」と呼んでいる。
さらに、関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はないことを明かしている。これによって、縁起によってすべての存在は無自性であり、それによって「空」であると論証しているのである。龍樹の「空」はこれから「無自性空」とも呼ばれる。
しかし、これら関連性は現象面を人間がどのように認識するかとは無関係のものである。これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。
『大品般若経』の中に以上の内容が含まれているため、龍樹自身がこの経典編纂に携わっていたのではないかという説もある。
この説が中国などでは、直接認識した世界と、言語によって概念的に認識した世界を、それぞれ真諦と俗諦という二つの真理があるとする。言葉では表現できない釈迦のさとりは真諦であり、言葉で表現された釈迦の言葉を集めた経典などは俗諦であるとする、二諦説と呼ばれる。
さらに、龍樹は「無自性空」から「中」もしくは「中道」もほぼ同義語として扱い、釈迦の中道への回帰を説いている。
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